Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

ボールは友達じゃない

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漫画「キャプテン翼」での有名な言葉に「ボールは友達!」というのがあるけれど、


うちのクラブでは「ボールは友達じゃない」と伝えている。


ボールは大切な道具ではあるけれど、友達ではない。

もっと大切な本当の友達が、ピッチ内にたくさんいるじゃないか、と。
さらに、戦う相手だって、その場を共有し、凌ぎを削る友達だ。


「友達の中で、友達とサッカーをする」ことが、サッカーの本質。


だから、ボールよりも味方を見ないといけないし、相手を見ないといけない。


ボールだけを見てしまい友達の動きや状態を見落としたり、友達よりもボールを優先してボールに縛られていたら、本末転倒だぜ、と。


ボールに触ることに縛られず、ボールから解放されて、友達の中で自分は今どの場所にいて、どういう状況で、だから次やるべきことは何なのか、を自分で見つけなきゃいけない。


さらに「友達」がどういう状況なのかを見極めて、それに対し最適な行動をとること。


だからこそ、ボールなんか見なくてもいつでも相手より先に触れる状態でいるために、いつでも味方に合わせて最良のパスを出せるために、うちではドリブル練習をやるんですけどね。
でもその目的は「友達の中で友達とサッカーをする」ことを頭と心で理解し、高次元で表現するため。


百歩譲って「ボールが友達」と思っていてもいい。でも
ボールなのか、本当の友達なのか … 自分の中で優先すべき友達はどっちなのか。


それを自分で考えて分別をつけられるようになることが、サッカーで大人になるということなのではないでしょうか。

 

そして、友達がたくさんいる「僕の、私のサッカークラブ」が、彼ら彼女らにとって心が安らぐ、そしてワクワクする「居場所」になってくれるようにしたいと思ってます。

 

アイデアを否定する大人、アイデアに共感する大人

adlibler.hatenadiary.jp

 

先日うちのクラブのU-11が実施した御殿場遠征で、ある選手がすね当てを忘れてきた。

すね当てがないと試合には出られない。これはルールだから仕方ない。

いや、厳密に言えば「すね当てがなければ出られない」ではなく

「すねをガードするものを入れなければ、試合には出られない」が正しい。

 

だから彼は考えたわけです。すね当ての代わりに、すねをガード出来るものであればいいんだろうと。

ポケットティッシュ、新聞紙、ダンボール … 僕らも一緒にいろいろ思案した結果、彼が選んだのは合宿の備品としてその場にあった「キッチンペーパー」でした。

 

これを何枚か重ね、折りたたんで適度な大きさにしてソックスの中に入れれば、いかにも程よい弾力の「すね当て」が出来上がる。

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これ

キッチンペーパー、なかなか良いアイデアでしょ?

だから僕も自分のSNSに「天才、これぞアドリブラー」って投稿したくらい。

 

 

今回のコラムはここからが本題なのだけれど

この僕の投稿に

「天才とかいう前に、注意しなきゃダメでしょ」とか

「これは違う」などと異議を唱えてきた人達が、実は一定数いました。

 

本当か?本当に、これは注意しなきゃダメなことなのか。

自分は、全くそうは思わない。

ルールブックにはこう書いてある。

「適切な材質でできていて、相応に保護でき、ソックスで覆われていなければならない」

 

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市販のすね当て、既製品でなければいけないなんて、ルールブックにはどこにも書いてない。

 

キッチンペーパー

・適切な材質か … 誰にも迷惑をかけず、破損もない。相手も傷つけない。

・相応に保護できるか … 厚みがあり弾力も担保されているので、衝撃を吸収できる。

 

この通り、キッチンペーパーでもすね当ての機能は充分に果たしていたし、ルールにも抵触しない。

だから別に既製品じゃなくても、キッチンペーパーでも新聞紙でもポケットティッシュでもダンボールでも、何でも構わないはずだろう。

 

とは言いつつ、このコラムを愛読して下さっている方ならば伝わるとは思うけど、自分が今回言いたいのは別にルールに則っているのだからいいだろうとか、そういうことじゃない。むしろ逆

 

本題はもっと奥にある。

「すね当て忘れた、じゃあどうしよう!」ってなった時に彼が頭をひねって考えた「キッチンペーパーで代用する」というアイデアを「既製品じゃないからダメ」「注意しろ」って頭ごなしに否定する大人でいるのか、それとも

「それ、めっちゃいいアイデアじゃないか」って共感してあげる大人でいるのか

 

子どものそばにいる大人として、あなたはどっちを選びますかってことだ。

 

もちろん自分は後者だが、この例に限らず「そんなのダメ」「決められたものじゃなければダメ」

「そんなの意味ない、無駄」などと、子どものアイデアや発想、提案を一蹴してしまう大人が、この日本にはいかに多いことか。

 

ジュニア年代の指導現場を見ても、そういう大人はとても多い。

学校現場でも、そんな教師は本当に多いよ。

 

サッカーでは「自分で判断しろ」「自分で考えろ」とか子どもに求めながらも、

「すね当てしないとダメ」「キッチンペーパーじゃダメ」「シャツ入れろ」「爪見せて」「ドリブルはダメ」「ドリ練なんて意味ない」「自主練なんて意味ない」「そんなの無駄」って言う指導者、たくさんいるじゃん。

 

子どもに対しては「考えろ」と言いつつ、自分は物事の本質を見れない。だから本当に大切なことは何かというスタンスに立って考えられないそんな大人が、子どもに対し「指導」してるわけです。

最大の矛盾だ。

 

みんなそうしてるだろ

みんなそんなことやってないだろ

そんなのお前だけだぞ

みんなが、みんなは、みんなで …

 

そう言って自分が楽をして、子どもの感性を閉じ込める。そんなサッカーコーチがサッカー教えてる。

そんな教師でも、毎日生徒と接してる。

最大のミスマッチだ。

 

日本という国が抱える根本の問題も、ここにある気がする。

皆と一緒じゃないといけない、皆と一緒にさせないと気が済まない、同調圧力という名のモンスター。

皆と一緒じゃないと、自尊心を保てない人達。

 

今回の御殿場遠征の会場は「パレットごてんば」という名称だったのだが、その命名の由来が会場に掲げられていたので、最後に置いておきます。


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大人みんながこの視点に立てば、子どもの表情が変わる。子どもは生き生きと輝くはずだ。

 

違いこそが魅力なんだという視点に立てない大人は、子どもに接するべきじゃない。

 

あ、でもキッチンペーパーにめっちゃ共感してくれた人も多かったことは、最後に付け加えておきますw

先生、試合を観に来てください

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うちのクラブに所属する選手(小3)の話。

 

彼のお母さんから聞いたのだけれど、彼は1年生の頃からいわゆる「学級崩壊」の中心人物という位置付けらしく、今の担任の先生も、すでにそういう目で見てしまっているという。

ある時はそれに対する保護会が開かれ、他の子の保護者から「おたくのお子さんは、どこか障害があるんじゃないですか」とまで言われたとか。


冗談じゃねぇ。ふざけんなよと思う。


教室の前に先生が一人、その前に生徒が数十人ずらっと座るあのスタイルで、決められた机と椅子に40分も50分もずっとじっと座っていられる低学年の子のほうが、僕から言わせればよっぽどおかしい。
どれだけの我慢を強いて、どれだけ感性を閉じ込めているのか。


それとも、学校という場はそういう忍耐を身につける場所なのか。そしてそれに沿わない子は障がい者呼ばわりされるのだとしたら、そんな学校なんて行かないほうがいいとさえ思う。


周囲に同調させるのを是とする学校なんて、クソ喰らえだ。


彼を「学級崩壊の中心人物」とラベリングする大人達は、彼がサッカーをしている時の姿をその目で見てみればいい。
誰よりも走り、誰よりもボールに食らいつき、攻守ともに縦横無尽に走り回ってチームメイトのために戦ってる。
そして勝てば無邪気に喜び、負ければ号泣する。彼は純粋で、自分の感情に素直なだけだ。


上述したように、教師 対 生徒全員、という図式を未だに続ける日本の学校の学級運営そのものに、もう限界があるんですよ。
座りたい場所に座ればいいし、教師と生徒、生徒同士もお互いがもっとディスカッションできるような環境をつくるべき。


それに、面白い授業をすれば子どもは絶対に話を聞く。
それ以前に「僕はあの先生好きや」って言ってもらえるような教師になれば、子どもはちゃんとこっちを見てくれるもんだよ。
そういう努力を、学校の先生たちは一体どれくらいしてるんだろう。


ピッチ上での彼の姿を先生が見たら、どう思うだろうか。
教室で自分の思い通りにしてくれない彼の姿とのあまりのギャップに、何かを感じ取れる感性と理性と良識を、まだ持ち合わせていてくれればいいのだけれど。


本気で一度、先生を試合に呼んでみようかな。

 

 

 

僕もアナタもみんな豚

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肉屋

 

肉屋を支持する豚、という言葉がある。

↓↓
昨年6月、日本のアニメの優秀さを紹介するアメリカの新聞記事で
民族主義に走る日本の一部のアニメクリエイターやオタク消費者たち」という取材コラムがあった。


記事では、自民党がメディア規制や表現規制に熱心で最終的には言論規制にまでつながりかねないことを紹介した上で、そんな自民党民族主義で支持するアキバ系たちを、こう呼んでいた。


「 肉    屋 を 熱 烈 に 支 持 す る ブ タ た ち 」


このように「アニメやマンガ規制を推進する政党にもかかわらず自民党を支持するオタクは、豚自らが命の墓場である肉屋を支持しているようなものだ」という揶揄。


また「金持ちでないのに新自由主義を支持するワーキングプア層」に対して使われることもある(新自由主義は福祉や所得再分配を抑制する傾向があるため)
↑↑
以上、ニコニコ大百科より引用


上記の例えは、オタク系やワーキングプア層の中にいる、民族主義で「ネトウヨ」な皆さんのことを揶揄したものだけれど、それらの層に限らず、今、安倍晋三率いる第二次安倍政権と自民党を短絡的に支持する人達のほとんどは、この「肉屋を支持する豚」といっていい。


僕はそう思ってます。思っているどころか、確信してる。


そしてもちろん、彼らが支持する「肉屋」つまり安倍晋三とその取り巻き連中、そして肉屋を支持する豚を含めたネトウヨども全体、そして差別主義者も(なぜかこれらの親和性は高い)を含め、僕は心から軽蔑してます。


でも実は、肉屋を支持して自分が豚だと思っていないやつらよりも、
「支持はしないけど、まぁ、別にいいんじゃない?仕方ないんじゃない?」と無関心を装って「肉屋を通り過ぎていく」人達や「政治や社会について問題意識を持つなんてダサいよ」
とばかりに冷笑している人達の方が、おそらく日本は圧倒的に多い。

こっちの人達の方が、よっぽど根は深い。ホントに気が遠くなる。


でも、諦めない。僕は、肉屋に負けない豚になる。

イニエスタを平塚に観に行って、思ったこと

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いまだに、あのイニエスタが日本でプレーしてるというのが実感できない。
しかしここ2戦で連続ゴール、しかもその2ゴールはいきなりJリーグの歴史に残るようなスーパーゴール…と、予想以上にいきなりのインパクトを魅せてくれているイニエスタ

youtu.be

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もちろんイニエスタが今まで戦ってきたリーガエスパニョーラのレベルに比べれば、このJリーグはまだまだ質的に数段劣る。だから僕らだけがイニエスタのクォリティに驚いているだけで、当の本人にしてみたらごくごく当たり前のプレーをし続けているだけなんだろう。


8月19日(日)

とにもかくにも、せっかく超人イニエスタが生で観られるのならば見逃す手はない。数年前のクラブW杯、日産スタジアムで観て以来のイニエスタ(と、ポドルスキ)をお目当てに、平塚競技場へ行ってきました。プラチナチケットを手に入れてくれた大木さん、ありがとう。


この平塚競技場Jリーグを観るのは初めて。駅から直行バスは出てるし駐車場は無料だし(今後有料にするらしいけど)老若男女、ベルマーレカラーのユニを着た人達が試合開始前にスタジアム周辺でワイワイしてるあの感じを見て、あぁ、ベルマーレは地域に根付き出してるのねいう率直な印象を受けた。

しかしそれは別として、ベルマーレ、本気で湘南地域にしっかりと根付いていきJ1に定着し続けるつもりならば、いい加減に新スタジアム建設を本気で考えないといけないんじゃないか。僕はベルマーレサポでもないし湘南在住でもないので、余計なお世話かもしれないけれど。

さすがに建設は無理な話ならば、せめてスタンドの環境改善と修築くらいはしたほうがいいと思うな。


メインスタンドに自由席が設定されているけれど(僕らのチケットも「メイン自由席」だった)早く来た人が、座る人いないのにみんな荷物を横に置いてしまって、席がなかなか空いていない。だから空席を探すのにめっちゃ苦労した。常に満員を目指すのならば、それを想定して全席指定にすべきだろう。
そうすれば観客は席取りのために早くから来る必要もないし、並ぶ必要もない。
スタジアムに入る前、公園内でのスタグル(スタジアムグルメ)はとっても充実しているのだから、自由席の観客にもそのスタグルをゆっくり味あわせてくれないかと、切に思った。


一旦スタジアムに入ってしまえば、トイレも多くないし、売店のドリンクもフードも全然数が追いついていなくて、ハーフタイムには、メイン側の売店ではもう何もフードが売られていなかった。お腹すいた。。
そして、スタンドにビールを売りに来てもくれない。さすがにあれは困ったぜ…来てくれたら買う人いっぱいいるだろうに。スタンドでビールを売らないという、何かこだわりの方針でもあるのだろうか。


正直この日の僕はミーハー丸出しでイニエスタポドルスキ目当てで観に行ったけれど、僕のような「初・ベルマーレな一見さん」は、この日のスタンドにはたくさんいたでしょう。
その人達の心を掴めば新たなファンを獲得できるかもしれないのに、あのスタジアム環境では、劇場としての居心地の良さも楽しさも、ほぼ感じられない。少なくとも僕は、このスタジアムにはもう来たくないなと思った。正直、あれは快適に観戦できる環境じゃない。


オーロラビジョンも見にくいし、屋根ゾーンも小さい。本当にあれでJ1基準満たしてるんかね、という率直な疑問が湧いてきたけれど、これ以上言うと湘南サポからめっちゃ怒られそうなので、もうやめとこう。
それにしても、あのイニエスタポドルスキが、お世辞にも良いスタジアムとはいえない陸上トラック付きのピッチでプレーしてるギャップはかなりせつないものでした。


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試合開始。せっかく生で観れるのならばテレビでは観られないモノを観たいので、ボールがない時のイニエスタをずっと注目してたんだけど、とにかくあの人、首振りの回数が半端ない。ボールの動きに合わせ少しづつポジショニングを変えながら、常に首を振って周囲の状況を的確に把握しようとしてる。ボールを扱う技術よりも、状況の認知や把握 … というか、この状況下にいる自分自身を常に分かっていて、どう身をこなしていけばいいかを感覚的に表現してる感じ。うまく説明できない語彙力が恨めしい。

 

当然相手の動きも見切れてるから、ファーストタッチで相手を止めて、ツータッチ目で逆を取っちゃう。当たり前だけど、ちょっと質が違いすぎる。

 

そしてイニエスタが一番観てたのは、主に味方の位置。中でも同じ左サイドでコンビを組む、左ワイド古橋の位置。イニエスタにボールが渡ろうとする時点で古橋は動き出す。その古橋を、イニエスタもしっかり観てるし分かってる。

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ジャストなタイミングで古橋にスルーパスが通るシーンはそう多くはなかったけれど、古橋の動き出しの質が今後磨かれていけば、イニエスタ-古橋ラインでのゴールがたくさん見られそうだ。

攻撃面ではもちろんのこと、守備時も、古橋に対して戻る位置とかポジショニングのことを、身振り手振りで何回も指示してた。

 

古橋享悟。7月までは、J2でも下位にいるFC岐阜でプレーしていた。7月21日に三ツ沢で行われた「横浜FCFC岐阜」の試合、自チームの選手達を連れて観に行き、岐阜は敗れたものの、古橋が魅せるプレーにうちの選手達は虜になっていた。

数週間前まで下部リーグにいた選手が、今ではJ1上位にいるチームに引き抜かれて、しかもレジェンドの域にいるイニエスタポドルスキとプレーしてる。

 

フットボールには夢がある。


イニエスタに鍛えられ、イニエスタに磨かれて、古橋享悟、いずれ大化けするのは間違いないと思う。

 

さて、ヴィッセルの先制点のシーン。最近の2試合でイニエスタが決めたゴールと同じく、ポドルスキからイニエスタにボールが渡るところから。この時点でベルマーレDFの目と姿勢は振り回されていて、しかもその行き先が超人イニエスタだから…ベルマーレの選手達は頭も体もフリーズ状態にさせられてる。

そしてここからイニエスタがCF長澤にクロス、その落としをMF三田が走り込んで決めたのだけど、イニエスタは、長澤と三田が「繋がった」(三田が反応し出した)タイミングを見計らって出してる。

 

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パスはただ出せばいいんじゃない。受ける味方がプレーを成功できるタイミングまで待って、そのタイミングを逃さずに渡し届けるのが、本当の良いパス。

 

早く出せよー、とかいつもつい口にしちゃう日本のコーチ達は、こういう「パスの肝」を、子ども達にもっとしっかりと教えられるようにならなきゃいけない。そのために、ボールを持てる技術が必要になってくるわけで。


この日のイニエスタで一番印象的だったのは、後半にベルマーレの時間帯が続き、決定機をつくられてあわや失点というピンチの後、イニエスタがさりげなく最終ラインまで下がってボールを受けたシーン。この位置まで下がったのは、この時だけだった。

CBの間に入ってボールを受けたイニエスタ、そこでゆったりとパスをつなぎ、ベルマーレのリズムをあっさりと断ち切ってしまった。何気なくさりげないパス交換だったけれど、あのシーンは本当に印象的だった。

 

イニエスタのことばかり書いたけれど、ルーカス・ポドルスキ、彼は本当にうまい。
子ども達や若い選手達の、良いお手本になる選手ですよね。


これから良いサイドバックを補強すれば、もっとイニエスタポドルスキが活きてくるはず。当然フロントはもう動いてるだろうけれど…次のインパクトは誰でしょか。
言い方には語弊があるかもしれないけれど、こういう「金にモノを言わす」クラブがあっても、僕は全然いいと思う。育成部門にも、相当メスを入れ始めてるらしいし(知人も、最近引き抜かれて神戸へ旅立ちました)

 

ヴィッセル、今度は練習も観に行きたい。

 

sportiva.shueisha.co.jp

 

スタジアムのことは酷評してしまったけれど、ベルマーレ曹貴裁監督の試合後の談話を読んで、感動した。こんな「指導者」のもとでプレーできて、ベルマーレの選手達はきっと幸せを感じているんじゃないだろうか。ぜひご一読を。

J1リーグ第23節 湘南vs神戸 試合後監督・選手コメント « 湘南ベルマーレ公式サイト

 

 

もっと文章を書こう

 

 

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常々思うのだけれど、サッカーコーチの人は、もっと積極的に発信した方がいいと思う。

今の時代、もう
「俺は俺。俺のやり方で好き勝手やっていく」
「言わなくても、話さなくてもわかってくれるだろう」は通用しない。


昔と違って、今は様々な媒体で自分のチャンネルを持てる時代。Blogでもnoteでもいいし、新たにコラムを開いたっていい。


「今日はこんなことがありました!キラキラ!」
といったような、単なる日記や報告をSNSに載せるだけとは違って、サッカーコーチであるからには「自身のスタンス」を明確にし、それを自分だけの言葉で発信するべきだ。
偽物は淘汰されていくこれからの時代、そのスキルは必須になってくると思うし、自分だけの言葉を持つ人が、必ず残っていく。


この「自分だけの言葉」を持たない人がとても多い。だから自身の経験則に基づいた指導しかできないし、何かの情報をそのまま持ってきて、それをそのまま表面上だけインプットして、そのまま使ったり。つまりそれは何も伝えていないのと同じこと。


インプットしたものを自分仕様にアップデートし、自分だけの言葉に置き換え、それを人に伝えられるようになること。
そのスキルを磨くためにも、文章を書くという習慣はとても役に立つ。


アウトプットこそ、実はインプットなんです。


書くためには「読む」ことも必要。読書も大事です。新聞を読むことも。
そこに書かれていることの裏側や真実を探ること。その想像力や妄想力が、自身の頭と心の中を豊かにしてくれる。語彙力も上がる。


指導者を名乗るなら「文章を読む習慣」や「文章を書く習慣」は、マストで持ったほうがいいです。


発信すれば、それに対しての賛否両論、何らかのリアクションがあるでしょう。そこでまた思考がブラッシュアップされるし、書く能力以上に、本意を伝える能力もまた磨かれる。


自分だけの言葉を持ち、それを伝えるスキルを上げる。そのことで、きっと指導力も上がる。薄っぺらい上辺だけで終わらず、深みが増すと思います。


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発信は、何もサッカーに限ったことだけでなくたっていい。冒頭に載せたのは、乃木坂好きが高じて書かずにはいられなかった「乃木坂コラム」だけど(笑)

こんな全くサッカーに関係ない趣味のことだって、積極的に発信したほうがいいんじゃないかな。どんな人物かを分かってもらうには、サッカーだけじゃ伝わらないし。

サッカー以外のことって、何も趣味だけではなく。

もっと大事なことは、特に社会全般のことについて、サッカー関係者はもっと積極的に意見やスタンスを明確にし、発信していくべきだと思うのです。


サッカーコーチだからサッカーしか能がない、取り柄がない、興味がない…
これでは社会人失格。子ども達や中高生に接する時間の多いサッカーコーチが、これでは困るわけです。保護者だって、そんな人物に子どもを預けたくないでしょう。


サッカーは社会のイメージリーダーになり得る。なるべき。僕は常々、そう思っています。
そのサッカー界の中で「指導者」をしていくのならば、社会の中での自身の立ち位置、在り方、スタンスを、皆さんもっと明確にしてもいいと思うのですが。


キャッチーな例としてですが
「安倍政権、支持しますか」
「沖縄の基地問題、どう思いますか」
「日本の戦争責任について、どう思いますか」
「シリア問題について、どう思いますか」
原発に賛成ですか?反対ですか?」
杉田水脈LGBT発言、どう思われますか」


と聞かれたとして
「ちょっと、僕は難しいことは分からないんで…」なんて返事をするコーチに、少なくとも僕なら、自分の子どもは絶対に預けたくない。例え自分と意見やスタンスの相違はあったとしても、自らの意見やスタンスをハッキリと語れる人ならば、僕は信用できる。
もちろん、そこに差別的思想や排他的思想、極右思想が見えたのならば、即、クラブを辞めさせるけどね。


日本や世界の歴史、今現在起きていること、社会の問題。
大人ならそれらについて関心を持ち、自身のスタンスを持ち、それを明確にするのは当たり前だと思うのだが、残念ながら、特に日本ではそうじゃない人が多いよね。現状維持を好み、大勢に準ずることを好み、波風を立てることを好まない。
でもね、せめて子どもに携わる立場にいる人ならば、それじゃダメだと思うんですよ。


海外では、俳優やアスリート達が、自身の政治的スタンスを平然と明確にするでしょう。
最近でも、ロバート・デニーロは「Fuck!Trump」と言い放ったし、ドイツ代表のエジルは、彼のルーツを理由にしたドイツでの差別的扱いについて、自身の言葉で告白・告発した。


なぜ日本では、こうならないんでしょうか。


僕はコーチである前に社会人でありたいし、社会人である以上に、ただの人でありたい。
だからこそ、必要ならば活動家にだってなるよ。
もし沖縄でこれ以上の理不尽な弾圧が続くようならば沖縄に飛んでいこうと思っているし、将来もし独立運動でも起きようものなら、沖縄に移住してでもその運動に参加したい。
もし安倍晋三憲法を改正し緊急事態要項を発動させようとするのならば、史上最低の総理大臣が表舞台から消え去るまで、潰れるまで、仲間と一緒に徹底的に抗ってやる。


人種や出生による差別、LGBTへの差別にはとことん反対する。
原発だって、全部廃炉にするべきだ。


多勢と少勢ならば少勢につくし、常に弱者の側にいたい。
もちろん一生、リベラルであり続ける。


… と、以上が僕のごく一部の一面であって、うわわ、こんな左巻きのやつに子どもを預けたくない!ともし思われるのであれば、残念だけどクラブを辞めて頂けばいいわけです。


こんなサッカーコーチ、面倒くさいですか?
実際に言われたことがあるけれど、本当に、サッカーコーチならばサッカーのことだけを考えてればいいのでしょうか。


僕は、絶対にそうは思いません。


サッカーは自由なスポーツ。だからこそ。
本当の自由の意味を伝えなきゃいけない「サッカー人」こそが、社会を担っていく、変えていくイメージリーダーになっていかなければならない。そのシンボル的存在になっていきたい。これは本気で思ってます。


だからそれぞれのスタンスはそれぞれ胸の中だけにしまっておくのではなく(スタンスがあるだけでもマシなんだけど)
皆が声に出し、表明すべきものだとも思ってます。


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ちょっと話が飛躍しすぎたのでサッカーだけの話に戻しますが


例えばその日の試合について、BlogやらSNSに「報告」を書くとして
スコアや試合経過、寸評や感想を書くだけではなく、なぜそうなったと思っているのか、その現象を生んだ理由、表には見えない、そこに隠された本当の理由や意図 … 
といったものを、自分の言葉で伝えられたら。


「あぁ、試合は負けたけど、コーチは実はこんな意図を持ってやってたのね」
とか
「こんな狙いや裏側があったのね、次はそういう視点で観てみようかしら…」
と、皆さん共通の悩みのタネである保護者の人達にも、良いメッセージとして伝わるかもしれません。


こんなことを考えている人が指導しているチームなのか、練習試合をお願いしたい!となるかもしれないし、この人に会ってみたい!となるかもしれない。


このクラブに子どもを入れたい!と思える理由を、ただの試合結果だけで判断するような保護者には来て欲しくないけれど、
こういう思いで指導しているのか、コーチはこんな「人」なのか…という理由で「子どもを預けたい」と思ってクラブの門を叩いてくれる人とは、きっと長い長いお付き合いをしていけるとも思うし。


実際にうちのクラブでは、僕が細々と続けているBlogを読んでくれた上で
「その理念に共感したので、子どもを入れたい」と言ってくれる方がとても多い。これは、とても有り難いことです。


また、Blogやコラムを読んで「今度会って下さい」「今度、練習を見学させて下さい」と、実際に会いに来て下さる指導者の方も多い。そのたびに恐縮するばかりだけど、本当に有り難い。


自身のスタンスを明確にしオープンにすることで、きっと去っていく人もいるでしょう。
でも、それ以上に「出会う人」のほうが圧倒的に多い。これは、僕の肌感覚では間違いないです。


指導者の皆さん、もっと文章を書いてみませんか?
報告でも日記でもない、自分だけのコラムを是非。

 

と、偉そうに書いてしまったので … 今後はこのコラムの更新頻度、もっと上げていきます!

(たぶん)

neutralfootball.hatenablog.com

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真のヒーロー

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先日、練習後の夜にコインランドリーでビブスの洗濯をした。

洗濯が終わるのを車の中で待つ。洗濯が終わり、さぁ帰ってW杯観ようと思ったら、全くエンジンがかからない。
バッテリー上がった…こんな夜遅くにマジかよと途方にくれて、仕方がないのでJAFを呼んだ。深夜23時過ぎのことだった。

ほどなくJAFが来てくれて、その場で車をチェックしてくれた。結果、バッテリーが上がったのではなく(むしろ正常)これは確実にオーバーヒートですねと。
その原因はエンジンオイルが不足していることと、冷却水もないことだと。
「ほら見て下さい、ここに緑色の斑点みたいなものがありますよね、これは冷却水が漏れた跡なんですよ。どこかで漏れてしまったのかもしれませんね」って。

冷却水を入れたり、その他、その場で出来る簡単な応急処置をササっとしてくれて、車は復活。エンジンも問題なくかかり、自走できる状態に。

具体的に今後どうすればいいか、何に気をつけながら運転すればいいか、もしまた同じような状態になったらすべきこと、そして修理に持って行くならあそこがいい…
と、深夜に車が急に動かなくなるという事態に慌てふためき心が乱れていた僕を、スーッとクールダウンさせ安心させてくれる説明を、とってもわかりやすくしてくれた。

うわべでもなくカッコつけでもなく、心の底から「こんな夜遅くに、ありがとうございました」というお礼を言わずにはいられなかった。

そんな恐縮する僕の声にも「いえいえ、とんでもないです」とだけ笑顔で返し、その方(推定48歳、佐藤二朗さん似)は颯爽と帰って行ったのだった。

ヒーローだ。素直にそう思った。

そういえば今の家に引っ越した2年半前、引っ越し屋さんの手際の良さと効率的な仕事ぶりにただただ感心させられた。それだけでなく、こちらの「大事なもの」を察してくれて、それはさらに丁寧にカバーして運んでくれたりした心遣いにも、感動したものだった。

引っ越し屋さんだけじゃなく、洗濯機を運んで来てささっとセッティングしてくれた街の電気屋さん、ケーブルテレビの接続をしに来てささっと帰って行ったケーブルの人、その他…
いろんな業種の人が、すべてこちらの指定した時間に来てくれて、ひと仕事して、ささっと帰って行く。
誰かの暮らしは誰かの仕事で出来ているし、街は皆の仕事で回っているんだなぁと、その時とても実感した思い出がある。

JAFの人も引っ越し屋さんもケーブルテレビの人も、皆ヒーロー。半端ない大迫もセネガル戦で同点ゴールを決めたケイスケ・ホンダも確かにヒーローだけど、本当のヒーローはもっと身近にいる。
困った時や必要な時に助けてくれて、すかさず駆けつけ、問題を解決し、偉ぶらずにさっと帰って行く。

こういう人達こそ、真のヒーローだ。

ヒーローは、言い換えればプロフェッショナル。プロフェッショナルな人達による「その人達からしてみれば当たり前のこと」で僕らは救われることが多いし、何より、市民の生活は回っているんだなぁ。

そう考えると、サッカーコーチってあまり必要ない仕事だよねと、自虐的に考えた夜なのでした。