Daisuke Kubota 〜 Neutral football

フットボールと社会をつなぐ。現実の殻を破る。

小さい頃から戦術戦術!小さい頃ならドリドリ!について

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小さい頃から、戦術を教えなければいけない!

小さい頃なら、ドリブルだけやってればいい!

最近、こういう派閥同士の対決が各地で細々と行われているような。

 

僕はどちらでもない。どっちも大事だけど、ぶっちゃけ、どっちもそれほど大事じゃない。全部大事なんだから。

 

拘るのは大事なことだけれど、その拘りは本当に信念と言えるだけのものなのか。誰かの受け売りだけでなく、自分が迷って試行錯誤して苦しんで、子ども達と戦って子ども達から教わった上でようやく辿り着いた本物の言葉として、魂を込めて放てるものなのか。

 

『小さい頃から戦術戦術!小さい頃ならドリドリ!について』

このお題でコラムを書く前に、まず前提として、子ども達への指導に対して

「あくまでもチーム戦術の中で」とか
「こうあるべきなのです」とか

こう「エッヘン!」とばかりに主張する20代や30代の若い指導者の方が、なんだか多い。

お、おぅ、、ごもっともですね、でも…なんだかなぁという微妙な違和感を、最近感じてます。

いや、言ってることは確かにほぼ正しいし指導者として自信を持つのは大事だけど、なんだかこう…
誤解を恐れずに言えば、若いうちからそんなに達観しちゃうのはもったいないと思うんですよね。しかも丸い方向に悟っちゃうのが。それだと自分が丸くなるだけじゃなくて、子ども達も一緒に丸くさせちゃうというか。

自分自身もっと尖って、子ども達も尖らせて、気が鱗れて、気を鱗れさせて…と、ハチャメチャな若い指導者がもっとたくさんいてもいい。
あいつまだ青いな、何もわかっちゃいねーなと、頭の固い守旧派の年寄りから嘲笑されるくらいのエッジを持ったっていいんじゃないかと。いろんなものに手を出し、触れて、そしていろんな人に会い、たくさん迷って失敗して恥かいて、それで辿り着いた結論ならば説得力もあるけれど。

大きなお世話なのは重々承知だけど、若いうちから早くも悟った気になるのはもったいない。まだまだ違う可能性あるのに、早くもご意見番みたいなこと言うなよと。俺なんかこの歳になってもまだまだ迷ってるし尖ってるし、さんざん後ろ指さされとるわ。
(それはそれで問題ありかもだけど 泣)

『自分を守るのは何かを残した後だぜ 形にこだわっちゃ古びたものしか見えない』
『やたらと計算するのは 棺桶に近くなってからでも 充分できるさ Life is On My Beat』
BOØWY / ON MY BEAT)

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さて、ここからが本題。
まず【 小さい頃から戦術教えなきゃいけない!信奉に関して 】

もちろん、必要なことは教えるべきだと思います。でも教えすぎは絶対にダメだし、むしろ、戦術というよりも『相手、味方、局面』の見方、考え方、捉え方を教えて、頭の中で描ける戦略を増やしてあげることが必要かと。そこに技術を乗っけてくのだよと。

でもどうしてももっと教えたい!戦術教えたいんす!というのなら
・日本人の気質や特性を理解してるのか
・あなたが信じてるその戦術や原理原則は、本当に正しいのか
・あなたのマスターベーションではなく、目の前の子ども達に則したものなのか
という大前提の自問自答と試行錯誤が常に必要となる。

・海外ではこうだから!と画一的に言う人、それを信じ切ってしまう人
・考えが違う人達とは一生わかりあえない、時間の無駄と言い切ってしまう人
・他の見方や意見を尊重できず『それ以外の良薬』もあることを認められない人

これらは典型的な日本人のマインドとも言える(と、僕は思ってる)のだけれど、そのような人達が「これが正しい、こうすべき」と子ども達に『戦術』(と思い込んでるもの)を教えることこそ、本末転倒で悲劇になる可能性が大。どこを切っても同じ、その状況なら必ずそれやるよねという金太郎飴がきっとたくさん生産されるよ。てか、もう大量生産され続けてる。

「ここではこのやり方、ここではこう。でもそれを踏まえて、状況によって自分で他のアイデアを出してもいいよ」と、口ではみんな言う。

「型がないのは型なし。型破りとは違う」
「まず型をつくり、型にハメて、そこから飛び出せる個性こそが型破り」
・・・とか、聞き飽きたわもう。

確かにその通りですよ、でも
その指導者の性根かDNAのレベルで、その《型破り》を許せない人がほとんど。日本人なら特に。そういう人、僕は今までたくさん見てきた。

ハミ出そうとする八重歯の存在を、端正しようとしてしまう。無意識にでも、それが口調や所作、振る舞いに表れる。

そして大人から言われたことに対し「なぜ?」「僕はそうは思わない」「僕はこうした方がいいと思ったからこうしたんだ」と言える日本人の子どもが、さてどれだけいるか。これはもう学校教育の領域にもなるけれど、そんな子ども、まだほとんどいないでしょう。ごく稀に、たまにいるけど。
大人側の意識や教育環境が変わり、そんな子どもの方が圧倒的に数が多くなれば、戦術、ガンガン仕込んで教えるべきだとは思います。

でも現実は選手にハミ出されることを許容できない指導者がまだ多く、ある一つの方向性や見方、やり方へと子ども達を押し込んでしまうニュアンスを、自らの声がけや導き方の中に込めてしまう。発問形式のコーチングがいいというけれど、ほとんどの人は誘導尋問してるだけ。資格取得講習会や指導者講習会に行くと、気持ち悪くニヤニヤしながらの誘導尋問が横行してる。

全体で同じことをやらせたい、全体で同じ向きを向かせたい、一糸乱れず…
平均的な日本人はこれが大好き。これに縛られていて、逃れられない人が多い。

子どもは、そういうコーチの姿や「在り方」を敏感に察知する才能を持っている。空気を読む天才だかんね。自分の思ったことを自粛して、そのコーチが喜ぶような方法を取ってしまう。
そうさせたらダメなんですよ。僕も自分のそんな弱さといつも戦って、敗れて、の繰り返しだけれど。人のことは言えないかもしれない。

だから
戦術を教えるなら、自由の本当の価値と意味を知るリベラルな人間であり、変人と言われるくらいの人が丁度いい。あのオッちゃんが一番自由だわ、と言われるくらいがいい。

「お前らに、格好の戦術教えたる。でもな、これに背くのも全然アリなんやで」
これを、心の底から本気で言える人。そしてそれを本当に許容できる人、子どもが放つ《型破り》をワクワクしながら見ていられる人こそが、目の前の子ども達に合った戦術を教えるべきなんだと思います。

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そして僕のスタンスはハッキリしてます。こうすべき、という『やり方』以上に、魅力的で、美しくて、カッコ良くて…という『在り方』を子ども達自身が見つけ表現できるように、自分の自由さを見せながら、サッカーの楽しさとともに伝えていきたいんすよね。理想論と言われるかもしれないけれど、理想を持たなければ、そこには一歩も近づけない。

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【 スペインと日本の違い 】

スペインでは育成年代でも週末の試合のためにトレーニングするスタンスがほとんどらしいが、だからといって日本もそうすべきだろうか。それは違うと思う。

バルセロナ水戸ホーリーホック、つまりスペインと日本の育成年代両方で指導経験がある村松尚登さんの言葉が、この問題を端的に表している。

「スペインでは、その選手が爆発的に伸びること、つまり《化ける》ことは期待されていないし、それが指導によって出来るとも思われていない。選手の成長は、他の選手やチームとの相互作用によってのみ生まれると思われている」

「しかし日本では、目の前の普通の選手を《化けさせる》ことができると信じて指導している指導者が多いし、実際に化けている選手も多い。そのためのノウハウも日本の方が多い。スペインには、そういった考えはない」

これは、日本の指導者の誇れる部分の一つなんじゃないだろか。

スペインと日本の両方で指導をし、両国の子ども達(指導者も)が持つ気質の違いを肌で感じた、村松さんならではの視点だろう。

だからどっちが正解でどっちが間違っているということではないし、わかりあえないということも決してない。海外と日本の良さ、うまくミックスすればいいじゃないですか。それこそ、日本人の得意分野じゃなかったっけ。

「サッカーには不向きな気質の日本人の子ども達にサッカーを教えてくということが、どれだけ難しいことか。スペインやオランダの指導者には出来ないことを俺らはやってる。俺らはプロ中のプロなんやで。もっと誇りを持っていい」(岩谷篤人氏)

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【 小さい頃ならドリドリだけでいい!信奉に関して 】

「小さい頃なら、ドリやボール扱いのテクニックだけでいい!」ってのも違う。

「小さい頃だからこそ、それをまず最優先して教えた方がいい」と言うのならわかるけど、
「それだけでいい」と頑なになるのは、サッカーが持つ自由さとは正反対。指導者の好みの押し付けそのものだ。それこそ、金太郎飴が出来上がる。

つい最近、試合の場でこういうことがあった。
ボールを持ったらどんな局面だろうが相手との間合いがどんなだろうが、必ず下を向いてボールをコネコネ。味方も相手も見ないでボールに触り、股抜きとヒールリフトばかり狙ってくる。
残念ながらうちの子達もそういう相手は慣れてるから、1人目で抜かれても2人目で必ず捕まえるんだけど、そしたら露骨に後ろから腕引っ張ってくる。おいおい。

相手なんか関係ない、自分達さえ楽しめればいい、俺達こんなに技術に拘ってるんだぜカッコいいだろ、ウェーイ!ってやつ。僕から言わせたらあんなのドリブルでもないし技術でもないんだけど、まぁ、きっとわからないんだろう。
水たまりがたくさん出来ていたグランド。こちらにボールを奪われたら、水をバシャーンと蹴って水をかけてふざけたり。それ見てる指導者も何も言わない。ウェーイ!を生み出してる張本人だから、それも仕方ないか。

そんなチームとの試合、リードして前半を終えて帰ってきたうちの選手達が口を揃えて何と言っていたか。「もうこのチームと試合したくない。ふざけてるよ」と。
もちろんその通りだが、仕方ないから後半はこちらの練習のみに切り替えることにした。ボールのあるところに大量に群がって来る相手だから、奪った後、ボールをどう持ち出すかの練習にしよう、と。本当は、真剣勝負の中でいろんな練習をしたかったのだけれど。

このチームだけが極端なのではなくて、こういうチームが結構増えてる。そして同じ趣向の指導者同士が常に群がる。こういうチームは「技術に特化してる」と評するには値しない。本質を無視した大まかな言葉で、サッカーの本質を捉えていないチームと一緒にするのはやめてほしいものだ。

味方も相手も見ないドリブルなんか、ただの自己満で偽物のドリブル。技術のギの字もない偽ドリブラー。このチームと試合することは、もう当分ないだろう。

また、それとは少し毛色の違う話だが、3年前、女子サッカーの名門・東京の十文字中学校でコーチをしていた頃の話。
中2と中1の選手達を連れて、千葉県へと練習試合に出かけた日のこと。相手はドリブルと個人技に特化したスタイルで有名なチームだった。東京の中学年代でそういうスタイルのチームはないからうちの選手達も最初のうちは少し戸惑っていたのだけれど、時間が経つにつれ、だんだんと順応していく。

しばらく何も言わず見ていたら、相手のドリブルに対し、うちの選手達が同じようにドリブルと個人技主体のプレーで、相手に応酬し始めた。
最初はある一人がそれをし始めたんだけど、それが他の子達にも波及して、数分間の間、ドリブルと個人技のやり合いが続いた。みんな、少し意地になっているかのような表情だった。
私達だってやろうと思えばこれくらい出来るし、と言わんばかりに、まるでサッカーを始めた頃のサッカー少女そのものの顔で。

数分間の応酬を終え、落ち着きを取り戻したのか、うちの選手達は従来の「速く的確なプレー」に戻り、相手をさらに凌駕していった…という試合だった。
私達だってやろうと思えばあれくらい出来る、でも今は違うことを出来るようになるために、このチームで認められるために、大きくなるために必死に練習してるんだ、という彼女達の見えない意地。彼女達が数分間だけ垣間見せた本能と、でもそれを理性で抑えて相手をさらに超えていったあの姿を見て、彼女達のことがそれまでよりもさらに愛おしく感じた、今でもたまに思い出す、忘れられない試合。

あの子達は今、高2と高1になっている。どれだけ成長したか、今度久しぶりに試合を観に行こうと思ってる。

この例で僕が何を言いたいか、感じ取ってもらえる人は多いはずです。

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オマケ
【 フットサルの導入に関して 】

Jr年代でフットサルを推奨するのはとてもいいと思う。
しかしこの『サッカーのためにJr年代でフットサルを多く導入する』というファクターだけでも、戦術信仰派閥とテクニック信仰派閥によって、その考え方は分かれてる気がする。

足元の技術だけでフットサルの良さを捉えてしまうと、たぶんサッカーには繋がらない。局面の捉え方から、オフザボールも含めた個人&グループ戦術の使い方へと選手の中で拡がるように指導し、そこに足元の技術を乗っけていけるようにしてこそ、フットサルはとてもいい題材になると思う。

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【 結論。Jr年代の指導に関して、僕の考え方 ① 】

週末の試合に勝たせることが目的ではない。

Jr年代の指導者の役目は2つ。
・サッカーをもっと続けたい、と思って卒業させること
・中学や高校でのプレーの基礎となる土台を作ってあげること。

土台って何 〜 土台とは3つ。個人戦術、技術、しなやかな身体。
・サッカーというスポーツの捉え方、局面の捉え方、考え方
・味方の中でプレーすることを知る、攻守両方の個人戦術
・それらを可能にする技術、頭と身体のしなやかさ。
これらで充分かと。

ちなみに
【 例えば・① 〜 技術とは 】

技術とは護身術。しかし最後は、味方のために使うもの。

ボールの扱い方だけではなく、状況察知(による使い分け)、閃き、ボディーバランスを全て複合したのが技術。これらを高いレベルでリンクさせられるのが巧い選手。

一人では出来ても、二人になると難しいことが多い。でも、そこを磨く。ジャストなタイミングでパスをつなぐことがサッカーの本質の一つでもあるから、そのためにも個人の技術が必要になる。
合わせたいタイミングで動けること。その時、相手よりも必ず先に触れる位置にボールがあること。これが真の技術。

相手を抜くためにドリブルをするのではなくて、良いパスをするためにドリブルやボールタッチを磨く。
メッシはドリブラーではなく、世界一のパサー。うちではこれが共通認識。

うちでは、そのために『ドリ練に見える練習』をやっている。でも子ども達の頭の中は、第三者が外から見るのとは全く違う回路で動いてるし、全く違う所を観て、遠くと先を感じながらやっている。
表面だけを見て、それを『マーカーやコーン相手にやってるただのドリブル練習』としか思えない人にはこの練習の意味はなかなかわかってもらえないだろうし、そんな表面的な見方しか出来ない人に『ドリブル教えるのは意味がない』とか、言われたくないってことです。


【 例えば・② 〜 守備への入り方について 】

うちでは《攻守の切り替え》とか言うの禁止。切り替えなんてしてちゃダメ。攻守は一体で、ずっと続いてるもの。
奪われ方はこっちが決める。奪われる場所、奪われる選手、どうなればほぼ奪われる?
これを先に知っておけば、相手よりも先に守備に入りやすくするための攻撃が出来る。

気づいてないようで気づいておく、気づいていないように相手に見せておいてインターセプトするとか、気づいていることを出し手に見せて、そこへのパスを諦めさせるとか。

↑↑
これくらいは、小学生でもガンガン教えてます。これを戦術というのなら、うちはめっちゃ戦術教える派閥に入っちゃうけど。

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【 結論。Jr年代の指導に関して、僕の考え方 ② 】

僕の理想は明治神宮聖徳太子。めっちゃ日本的やで!

為末大さんが言っていたのだが、明治神宮の様式美は、計算された無作為らしい。一見バラバラな造りの建物ばかりでただの寄せ集めなのだけれど、全体として見ると、あるコンセプトが浮き出て見える。これは東洋ならではのカッコ良さ。

そして
みんなが勝手にやっていながら合う。それが聖徳太子の【和】だという。
対して、みんな同じことをするのは【同】。

君子は【和】をし、小人は【同】をする。
君子は【周(調和)】し、小人は【比(前の人と同じことを)】をする…

和して同せず。僕は《バラバラな個性が和していく》チームづくりを目指したい。

決められた統一感や、仕込まれハメられたやり方ではなく、選手それぞれの特徴が交わり活かされた結果、そのチームならでは(そのチームゆえ)のコンセプトが浮き出て見えるように。無理矢理ではなく、あくまで自然にそうなる姿が美しい。そう持っていくのが、指導者の腕の見せどころではないか。

Mr.Childrenの曲『Pieces』の歌詞中にある、この一節を忘れずにいたい
「僕らは一つ。でも、一つ一つ」

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【 最後にオマケ。コーチとしての気概 】

指導者ならば、勉強はたくさんすべき。でも、きっとほとんどの選手は『僕のコーチは世界一や』って信じてくれてる。

人と同じ本ばかりを読み、人の教えや考えを有り難がって
「こんな本を読んでます!」
「こんなに勉強してます!」
「こんなにすごい人と関わってます!」ってアピールする前に、まず自分でやるべきことがあるはず。自己研鑽は隠れてやらなきゃ。勉強してることをあからさまに誇るのはカッコ悪い。子ども達は、そういう姿もちゃんと見てるよ。見られてないようで、めっちゃ見られてる。

虎の威を借る狐 にならぬよう、自戒を込めて。

・・・

とツラツラと偉そうに書いてしまったけれど、結局何が言いたいかというと、この文章の内容だってあくまでも僕の意見やスタンスであり一つの見方でしかないし、僕がこれまで紆余曲折を経て恥ずかしい思いもして修羅場もくぐってようやくこの程度に辿り着いたものでしかないのだから、この文章を読んで「そうだ!その通りだ!俺もそうする!」となびいてしまう人は、戦術なんか絶対に教えちゃダメだよってことです。