Neutral football

Footballと社会をつなぐ。Footballを語りたいなら、Footballだけでは語れない

Japonês

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ブラジルでは、サッカーが下手な人のことを「Japonês!」と言って嘲笑するらしい。
読み方はジャポネーズ。スペイン語だとハポネース。

つまり「サッカーが下手」なことの抽象として「日本人」と言われてしまうわけだ。あのキングカズ・三浦知良も、16歳でブラジルに渡った時には散々言われたらしい。

Japonês。
こう呼ばれてること自体とても悔しいことだけれど、でも結構、納得できるところもある。
日本人選手は、相手がいないところでの足元の技術は上手いかもしれない。でも往々にして「狡猾さ、ズル賢さ」がない。だからボールに飢えた本当の「寄せ」に対峙した時には、その技術は無力にされてしまう。そして唯一無二の自己表現力が、決定的に欠けている。

そしてここが今回のテーマなのだけれど、サッカーに限らず日本人は、全体の中に入るとその中で安心し、ハミ出すことを避け、空気を読みたがる気質がある。つまり自己主張に欠ける。上述したように、自己表現力に欠ける。
それは気質を通り越して、先祖から受け継いできたDNAレベルなのかもしれないけれど。

その気質に縛られず、DNAの壁をぶち壊し、出すぎた杭になれる人。日本ではマイノリティーに属するそんな人は、世間からは飛び抜けすぎて変人扱いされ、後ろ指を指される。でもそういう人のほうが、成功し富を成す。当たり前だよね。

強烈な自己主張をする選手は日本国内では煙たがれる。中田英寿本田圭佑に、日本という器は小さすぎた。フットボーラーとして生きる強さを日本では持て余してしまう、強烈な個性の持ち主だった。今でいうなら南野拓実とか…だろうか。

しかしそんな変人扱いされる選手はまだまだ貴重で、その他大勢の日本人は、正直すぎる、良い子すぎる、人と同じことを好みすぎる。実際サッカーに限らず学校や家でも、ほとんどがそんな教育を受けてきたわけだし。みんなと一緒に!みんな揃って!って。

そんな教育や習慣の中で育ってきた人がまた親になり、教育者になり、意識的にでも無意識にでも、子ども達に同じことを繰り返していく。

全体の中でのバランスと調和を重んじられ、暗黙のうちに、そこからハミ出ないことを美徳とされてしまう。自己主張を遠慮してしまう空気。自己表現をすると妬まれ腕を引っ張られ足を踏まれ、大人が壁になって立ちはだかる。結果、周りには空気を読む「良い子」が溢れる。

サッカーで言えば、正直なプレーヤーがたくさん生まれる。

勝手な想像だけれど、日本人のそんな姿をも掛け合わせて、ブラジル人は日本人のことを「サッカーが下手」と称したんじゃないかと。サッカーはそんな気質じゃできないってことは、彼らブラジル人が一番肌でわかってるんだから。

だからサッカー下手な人のことをブラジル人が「Japonês」と呼ぶことは悔しいけれど、とても納得できる部分もあるのです。

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つまり何が言いたいかというと、最近は

「子どもにもしっかり戦術や原理原則を教えないといけない」
「型、をつくってそこにまずハメる。そこを飛び出して来れてこそ、本当の個性」

みたいな風潮が流行ってる。岡田武史さんがFC今治のオーナーに就任した時にそういう発言をしたのがキッカケでぶわぁっと広がり、海外での指導経験がある人やフットサルな人達からも、以前からそういう声はよく聞かれますね。

いや、その通りだと思いますよ。僕だってほぼそうしてる。正しいと信じる原理原則を伝えて、選手は個人戦術を持ち、チーム戦術や約束事の中で味方を活かし、自らを活かしていく。なおかつ自らの決断と責任と閃きでそこから逸脱できる選手こそが良い選手だし、本当の意味でサッカーを楽しめるとも思うし。これ、たぶん間違いないです。

でも

この日本で、ごく普通の日本人に対し「型」というものをつくりその型の下で指導するならば、指導者はそこにいる選手の誰よりも自由を重んじ、多様性を認めることができるリベラルな考えの持ち主でないと非常に危険。リベラルを通り越して、むしろ自分が一番変わり者くらいなほうがいい。

なぜか?

皆で揃ってイチニ、サンシ!が大好きな Japonês!タイプの人が選手に対しあれやこれや教えようとすること、そしてまたしつこいようだけど最近流行りの「型」という言葉を安易に解釈し安易に使って自ら好みのStyleを押し付けること。まさに「型」にハメようとするのは、とても危険。
日本人の大人がそれをやろうとすると、異分子がいづらい全体主義に陥る危険性を、常に孕んでる。実際そんなコーチも先生も、その辺にたくさんいるじゃないですか。

以前、朝の学活でみんな揃ってやたら元気良く笑顔で大声で挨拶しまくるどこかの小学校のクラス動画が話題になった時があったけど、あれ見て、僕はおぞましかったです。自分なら間違いなく登校拒否になる。気持ち悪い。
でもあれを賞賛してる指導者の人が結構いたんですよね。素晴らしい!とか、素敵です!とか、嫌そうな顔してる子なんて一人もいないじゃないか、とか。

 http://youtu.be/V7DgU8ogxgw

いやいや、全員が100%同意なんて、物事にはあり得ない。嫌な顔を無理やり引きつらせてでも仕方なく作り笑顔にして、あの場を何とかやり過ごそうとしていた子が、あの中には絶対にいる。

今この中にも、これにそぐわない子がいる
今この中にも、これを嫌だと思ってる子がいる
今この瞬間にも、逃げ出したいと思ってる子がいる
全員一致で気持ちいい!なんて、あり得ない

ということを、指導者は常に心に据えておくべきでしょう。

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以前、フットボールエッジのコラムにも書いたことだけど
僕が高校3年生の時、日本史だか世界史の授業で、戦争そして徴兵制の話になった。そこで、先生が「もし日本が徴兵制になって国から兵隊として呼ばれたら、みんなは戦争に行くか?」と男子に向けて質問をした。

「行く」と手を挙げたのは一人だけ。当時のサッカー部のキャプテン。
そして「行かない」と手を挙げたのは、僕一人だけだった。

行くと答えたキャプテンと、行かないと答えた僕。それ以外の大勢は手も挙げず何も答えず、ただ、こっちを見ながらニヤニヤしてるだけ。あの時の教室の空気、気味の悪さは今でも忘れない。意思表示をしてるのは自分とキャプテンだけ。その意見は正反対だけど、自分の意見を正々堂々と示している点では同じだ。本当ならこっち側が正しいはずなのに、なぜか俺らの方が「変なやつ」扱いをされてる…と、強烈に違和感を感じた。自分の意見を何も言わずにただこっちを見てニヤニヤ笑ってたその他大勢の卑怯なやつらの顔と、あの時の教室の悍ましさは、今でも強烈に覚えてる。

一人だけ違う意見を言う、違う行動をとることを「変」で「普通じゃない」とレッテルを貼る。そんな空気を作り、いつの間にか排除したり、同調せざるを得ない空気にしてしまい、取り込んでしまう。

みんなと同じことが普通。みんなと違うのは変。
意図的でも、意図的でなくても、そんな教育の仕方をしてる先生やコーチはたくさんいる。学校にも多いなー。実際に今の僕の周りにもそういう人はいるし、むしろそういう人の方が多い。僕から言わせれば、そんなのは教育でも練習でもない。ただ子ども達を操作してるだけ。

操作されてるうちに子ども達は次第に「みんなと一緒」のことを選ぶようになり、人と違うことを恥ずかしいと思うようになり、自分の意見を押し殺していく。空気を読むことを覚えていく。

上述した部分をもう一度。

↓↓

全体の中でのバランスと調和を重んじられ、暗黙のうちに、そこからハミ出ないことを美徳とされてしまう。自己主張を遠慮してしまう空気。自己表現をすると妬まれ腕を引っ張られ足を踏まれ、大人が壁になって立ちはだかる。結果、周りには空気を読む「良い子」が溢れる。
そんな教育や習慣の中で育ってきた人がまた親になり、教育者になり、意識的にでも無意識にでも、子ども達に同じことを繰り返していく。

自らは意識していなくても、そして自分はそんなことないよ大丈夫だよ、個性を尊重するよと言いつつも、まず高い可能性で結局は全員に右に倣えを要求し、型にハメるだけでなくその中だけで縛りたがり、逸脱しようとする者を許さない。そんな雰囲気、空気を無意識にでもつくってしまいがちになる。僕はそういう人を何人も、本当に何人も知っている。残念ながら、それは身近にもいる。
そしてそれを受ける選手側も、ほとんどはハマっていた方が安心なんだから。We're Japanese。

 

そういえば、日本の育成カテゴリーでは移籍の不自由さもありますよね。選手が自ら選んで他クラブに行こうとしても「引き抜きだ!」とか言われるし。
そのチームのやり方にそぐわないのに、なおかつ移籍がスムーズに出来ないなんて、それこそ飼い殺しのSMAPになってしまう。もう解散しちゃうけど。

日本の大人は子どもに「良い子」になることを求めたがる。右へ倣えを求めすぎる。そんな日本人の気質は、サッカー向きではない。
だから「型!型っ」っていうのなら、まずそこを理解した上で指導を始めないと。海外の真似が全て良いとは限らない。

スペインとか南米とか欧米の子ども達は、こちらがそんな心配しなくても自己主張するのが当たり前だから。この練習は何のためにやるんですか?この練習には何の意味があるの?ってコーチに聞ける。だから戦術を教え込んでも型にハメようとしても、そこに縛られて個性をなくすことはない。

でも日本人の子ども達には、そうはいかない。

繰り返すけれど
だから僕ら日本人指導者は、変人と言われるくらいの自己表現を自ら好み、全体主義などには砂をかけ唾を吐くくらいにリベラルな思想の持ち主であるべきだと、僕は思ってる。人によって意見は違うだろうけれど、僕はこの持論に、確固たる自信を持ってます。

そして、移籍は快く認めるべき。引き抜きだ!とか騒ぐ人、もっと大人になりましょう。

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型とは、出来ていくもの。真似るだけではダメ。共に創るもの。
型とは、共有するもの、信じられるもの、迷った時に返れるもの。
型とは、使うもの。利用するもの。縛られるものではない。

そして「型」とは、何も戦術や原則やStyleといったものだけでなく、◯◯◯ といった、数ある指導の手法なども、まさに「型」そのものでしょう。

例えば
自己表現に慣れてなく、自己主張が苦手で、言われたことは一から十まで聞いてしまうような日本人だからこそ、自ら考えさせるボトムアップ指導はとても有効なツールだと思う。またボトムアップだけでなく、最近はわかりやすく銘打たれた様々な指導手法がもてはやされてますよね。
でも、またこれ日本人の悪い癖で、何か旗を振られると一気にそこになびいて振れてしまう。何を信じて何を用いるのかなんてその指導者の自由だけど、そこでも、どうしてもそのやり方にそぐわない子がいること、それを是としない子がいるということもちゃんとわかった上でやらないと、その指導者の気づかないところで、選手が犠牲になっていく。

そこに目を向けないままで、単なる指導者の自己満足、自己顕示欲の道具としてサッカーを捉え、自己陶酔に陥っている人を、最近はよく見かけます。

うちは、型を僕がつくって選手に教えたり伝えるというよりも、一緒に創り上げてく…そんな感じ。
共有できるもの、信じられるものをその瞬間に一緒に生み出す のが練習であり、チームだと思ってます。
でも実際、いつも選手達に言う。俺が言ったことの半分は忘れるくらいでいいんだから、って。みんなのほうが、良い方法を見つけられる感性はあるんだからって。

サッカーは、自らの手で自由を獲得できるもの。
自らを解き放てる最強のおもちゃこそがサッカー。仕込まれたDNAをぶち壊せ!大人に教えられたセオリーなんて、軽く超えていけよ。

そんな自己表現の塊のような選手を、僕らは育てないといけない。いや、そんな選手の邪魔をしないようにすることがまず第一。

歯が不自然に真っ白で、不自然すぎるほどに歯並び綺麗な人っているじゃないですか。芸能人とか、引退した野球選手とか。やらしいセレブとか。
でも歯も歯並びも、綺麗すぎるとあまり魅力を感じないんですよね。

八重歯、残しておいてほしい派です。乃木坂46橋本奈々未の八重歯は最高だぜ

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歯並びを揃えようとするのもいいけれど…
八重歯のような選手を残しておける懐の深さを持つこと、八重歯のような選手がいつまでも尖っていられるようにすること。
さらにその八重歯を磨いて鋭さを増していけるような、そんな環境をつくること。それが、日本人が日本人を指導する時に、絶対に忘れてはいけないことだと思うのです。

そこを強く肝に応じておかないと、僕らはたぶん無意識に、端整しようとしてしまうから。
Japonês…!

 

(この記事は、筆者が持つBlog『We can be adlibler 』にて2016年1月29日に掲載した内容に加筆、再編集したものです)