Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

聖和 vs 野洲 〜 生き方は誰にも批判できない

今年1月の全国高校サッカー選手権聖和学園にフォーカスを当てて書いた文章をもう一度再編集しました。

技術と拘りの意味、武器の使い方。高校生達の、儚い純粋さと眩しさ。

 

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聖和 対 野洲。高校サッカー史に残る試合を目撃
ニッパツ三ツ沢球技場

 

12月31日(大晦日)
第94回全国高校サッカー選手権1回戦「聖和学園野洲」を観に行ってきた。

10年前、ドリブル、逆取り、駆け引きを駆使したサッカーで全国優勝し日本中に衝撃を与え、育成年代に大きな波紋を投げかけた野洲。高校サッカーのみならず小中カテゴリーの育成現場を語るにおいてでも、野洲の優勝前・優勝後、で分けてもいいくらい、あの野洲の優勝はエポックメイキングな出来事だった。

対して聖和はこれでもかというくらいにドリブルとボールタッチに拘り、そのボール技術を極めている、超異端の存在。この保守的な日本で聖和の異端が当たり前になることはきっとないのだろうけれど(なったら逆につまらない)そんな事は百も承知で、自らの拘りにきっと大きな誇りと自信を持って取り組んでいるのだろう。そこには、外からは決してわからない、尋常じゃない忍耐力と努力があるのだと思う。

高校サッカー界では共に異端。今大会出場チームの中でもボールと技術への拘りでは群を抜いて飛び抜けた存在であろうこの両校がまさかの1回戦で当たってしまうという、意地悪すぎる運命。野洲のあの優勝から10年経ち、野洲の背中を見てずっと追いかけてきた聖和がその引導を渡すのか、それとも野洲が返り討ちにするのか。それ以上に、両チームがどんな魅力的なサッカーを見せてくれるのか、そしてこの両チームが当たることで、今まで見たことのないものが見られるんじゃないか…そんな期待に溢れる、夢の対戦カードとなった。

当日

スタンドは異様な雰囲気に。高校サッカーであんな雰囲気は初めてだろう。過去行われたあらゆる決勝戦以上のものだった。そして高校サッカーの1回戦でスタンドが超満員で埋まるというのは3年前の伝説の試合「野洲青森山田」(@駒沢)でもそうだったけど、あの時の雰囲気以上に、スタンドの高揚感と、この2チームの対戦によりこれから何が起きるんだろう、何が見られるんだろうというゾクゾク感に覆われながら静かにその時を待つ、超満員の観客。今まで見たこともないものが見られるんじゃないかというワクワクと、こちらの想像は確実に超えてしまうだろうという怖さと。

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応援歌ではなく静寂が支配。息を飲むスタンド(©ゲキサカ)

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超満員、立ち見もたくさん。隣接する団地にまで、観客が溢れてた(©ゲキサカ)

 

あっという間の80分。衝撃の7-1。

この試合を見終えた大晦日の夜から、この試合のことをどう書くか、ずっと葛藤してた。まぁこのBlogなんて別に誰が期待して待ってるというわけでもないのだろうけれど、自分の中で、この試合のことだけは生半可な軽い文章で終わらせるわけにはいかない、それではあまりにも両チームに失礼、という思いが溢れてしまって。なので頭の中で何度も描き始めては全削除し、また描いてやっぱりまたやめる…その繰り返し。それほどに、簡単には語れない試合だった。

でも
拙いながらも、この儚い芸術品のような試合で感じたことを何とか自分なりにまとめて、今から書いてみたい。

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序盤から野洲が高いラインを設定して聖和の背後を果敢に突くための勝負を挑んでいた。しかし聖和も自信を持ってそこに挑みドリブルで返す。最終ラインの選手までも、まずはドリブル。それは野洲もわかっていただろうけれど、敢えて引かずに当然そこに襲いかかる。それこそ、野洲のプライドだったのだろう。
聖和が持つひとつのボールに対し、野洲の選手が4.5人集まるシーンも多々あった。

しかし
そこでも聖和はまずボールを奪われない。巧みで早いボールタッチで野洲の足をいなし、かわして引きつけて逆を取っていく。例え囲まれて足を出されて多少ボールがぶれたとしても、聖和の選手の方が、次の足が出るのが早い。だからやはり奪われない。そこから、引きつけていなして超ショートパスでギャップを通し少しづつ前進。それを繰り返しながら、徐々に野洲を無力化していく…そんな場面の連続だった。

つまり聖和にとって、一見数的不利だけど、実はそここそが圧倒的優位。これが肝。野洲を集めて集めたあげく、聖和の選手には見えている「背後の選手」へと、野洲の最終ライン裏を破るパスで急襲する。軸足の裏を通すパスをも駆使しながら。特に7番は巧かった…

象徴的なシーン。聖和のGKが叫んでいた 「いつでも裏は取れるぞ!」
まさにこれ。この言葉に尽きる。彼のこの言葉を聞いた時、僕は「あぁ、これは聖和が勝つ」と思った。

上述したように、聖和は決してドリだけじゃない。引きつけていなすパス、引きつけて間を通すパス、そしてラインを破るナイフのようなパス、そして奪った後の早いカウンターのパスも常に狙ってるから

この大晦日の夜に行われていた総合格闘技に例えるならば、闘争心剥き出しの野洲がマウントを取るけれど、殴りかかった拳をうまくいなされ、逆にその手を取り、握り、有効打を喰らわしながら下から首と腕を取って三角絞めや逆十字を極める聖和、という感じだろうか。それでも強気にKOを狙おうと殴り続ける野洲の手を巧みなスウェーでうまくかわし、素早くサッと立ち上がって今度はカウンターというハイキックを喰らわせる。

野洲にしてみたら立ち上がって殴り合おうにもうまくかわされ、逆に有効打を浴びせられそしてまた聖和の寝技に引き込まれ、そこでまた殴られるのか極められるのか、ドリブルなのかパスなのか…どちらか分からずに今度は逆にマウントを取られてしまう。そんな状態に、じわじわと野洲が陥っていく。僕にはそう見えた。
格闘技知らない人には、この例え伝わらないかもしれない。ゴメンなさい。

野洲を翻弄し続けた聖和のドリブルは、決してドリブルだけじゃ終わらない。ただ魅せるだけのサーカスでもない。頭と目と身体が連動してしなやかに早く動き、野洲よりも先手、先手を打っている。奪われた後にすぐ2人目が囲んでまた奪い返してしまう、奪われることありきの距離感も、この日はほぼ完璧と言えるくらいの絶妙な間合いで連なっていた。そして、野洲の背後を取る「見えない味方」のことも、頭で見えていた。

もう一度「いつでも裏は取れるぞ!」(聖和GK)

この日の聖和のこと(野洲のことも)を「ドリブルだけ」と簡単に評していた人が何人かいたけれど、うーん、いったい何を見ていたんだろうか。目に見える現象だけしか見えないのならば、本質は決して見えない。事実と真実は違う。目に見えないもの、その現象の行間に流れてる「見えないもの」に想像力を働かせれば、この両チームが繰り広げた、攻守にわたるハイレベルな「時間の奪い合い」が、おぼろげながらでも見えてくると思うのだけれど。

パスの巧みさ、守備の巧さ、早さ、強さ、賢さ、シュートの巧さ。
ドリブルという拳銃は、それらが伴って、初めて殺傷能力が生まれる。空砲ではなく、拳銃(ドリブル)に弾を込める。この日の聖和にはそれが全て備わっていた。だからこそ聖和は野洲を撃ち抜き、あそこまで観客を引きつけた。

そして忘れてはならないのが、野洲が、聖和の魅力を引き出したということ。対戦相手が野洲じゃなかったら、聖和の魅力があれ程までにあぶり出されることもなかったんじゃないか。
野洲がリトリートするわけにはいかない」みたいなことを、山本監督が試合後に言っていたらしい。野洲にとってはその意地とプライドが、逆に仇となったのかも。でも野洲にとってそこだけは、決して譲れない一線だったのだろう。そこを嘲笑したり批判することは、誰にも出来ない。

野洲の10番・村上魁の野生味も、とても魅力的だった。牙を剥く闘争心と、少しでも歯車が外れたら崩壊してしまいそうな繊細さが同居しているようだった。だからこその魅力。生で観たのは初めてだったけれど、評判通り、彼には心奪われてしまった。これからの彼を、追っていきたいくらい。

繰り返すけど、高校サッカー史上に残る満員札止め、そしてあの雰囲気。刺激的なフットボールの香りが臭いすぎたあの三ツ沢の様相は、しばらく忘れられそうにない。

通路に人がはじき出されるほどにスタンドを埋め、隣接する団地にまで人を溢れさせ、超満員の観客を魅了したというこの事実こそ。
聖和と野洲。両チームともに、この試合の勝者だったのだと思う。

両チームともに圧倒的な魅力。簡単に「スタイル」なんて言葉で片付けるほどの生半可なレベルじゃない。野洲はもちろんのこと、聖和もあそこまで拘りを貫き高めてきたその過程では、あらゆる波風や高く厚い壁に何度も邪魔されてきただろう。後ろ指も刺されたに違いない。でもそこで挫けず妥協せず、自らの信じるものを捨てずに貫いてきた姿勢は、好きな服を好きな色で選び着飾るだけの「スタイル」なんていう、陳腐な言葉では片付けられないはず。

野洲も聖和も、あそこまでいけばもはや 生き方 の領域。生き方は、誰にも批判できないし真似もできない。口も挟んじゃいけない。

魅力的なサッカーを追求しながら選手を育て、人を育て、ましてやそれがたくさんの人を魅了する。
僕ら育成現場の指導者達が目指すべき、ひとつの理想でもあった。

 

埼玉の拘り集団、昔からお世話になっているFC Cano・菊地さんのFB投稿より
↓↓
「繊細で美しい様式美を誇る、日本の茶道で使われる『茶碗』
その昔戦国の世では、領地を貰うに等しいとまで言われた。

聖和 vs 野洲 … まさに『名器茶碗』対決でした。

お互いが同質のぶつかり合いをして全力で正面衝突したので、片方が壊れてしまった…
美しく、繊細なモノ同士(同志)だからこそ起きてしまった「7-1」

多分、異質なモノとの対決ならば、柔らかく包んでしまえたであろうに…
(結果はわからないですが、あの様な完全崩壊には絶対にならなかった)

美しいモノとは、かくも儚きモノなのか。
まぁ、つい先だってのクラシコでも、あのレアルでさえ崩壊したのだから、高校生の真っ直ぐなプライドならば、尚更致し方ないのだと感じた」

両チームに理解の深い菊地さんならではの、美しい例えですよね。さすがです。

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名器同士の繊細な対決(©ゲキサカ)

聖和 対 野洲、誰かがあげてた動画(スタンド目線)
http://youtu.be/zc-cMNyGBkM

スポナビ『“7-1” が日本サッカー界に与える影響 〜 聖和学園野洲に完勝した意味』

http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201512310004-spnavi

 

終わった瞬間、すぐにボールを蹴りたくなった。いや、蹴りたいというよりも、ボールにさわりたいという感覚だろうか。実際、試合後に三ツ沢の広場でボールを触ってる人ミニゲームをしている人がたくさんいた。その数は間違いなくいつもより多かった。みんなウズウズしてしまい、すぐにボールをさわりたくなったんだろう。

こんな繰り返しと日常で、サッカーは少しづつ文化として根付いていくのだと思う。

 

年が明けて1月2日、聖和の「続き」を観に行ってきた。「青森山田聖和学園

(等々力競技場)

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青森山田が《強か(したたか)》なサッカーで覆いかぶさってくるその前に聖和がトントーンと点を取ってしまい、試合を決定づけてしまってほしい。そう思いながら観戦していた。
1回戦では野洲も地上の局地戦を真っ向から挑んできたから、聖和の「2人目」の距離感が尚更ハマり機能して、そのドリブルがさらに生きていた。
でもそれには青森山田は付き合わないだろう。それを聖和がどう攻略するのか、その興味もすごくあった。

僕は聖和にこのまま優勝してほしいと思っていたし、野洲に勝ったのならば、こんなところでは絶対に負けてほしくないと思っていた。

ただ単に巧さで圧倒すればいいのではなくて、あくまでもこのサッカーで勝つ、日本一を獲るという「結果」をも一緒に持ってくることで、その正しさも万人に証明される。異端を選ぶならば、そこにはいつも「証明するための戦い」が付きまとう。そこに本気で挑む聖和が見たかった。
野洲はそれを、10年前に成し遂げたのだから。

しかし、青森山田が粉砕した。あまりにも《したたか》に、粉砕した。まさに漢字でいう「強か」だった。
聖和が自らの武器を振りかざし青森山田陣内に飛び込めば飛び込むほどに、青森山田の強かさが余計に威力を増して、カウンターの餌食となってしまった。
ドリブルで2.3人抜いた後、そこで今スルーパスを出せばラインを破れる、というシーンでもドリブルを選びボールを奪われ、そのまま失点という場面もあった(確か4点目)

証明しよう、と気負い過ぎたことで冷静さを失ったのか、それとも青森山田が単にそれをもやらせなかったほどに強かったのか、それとも、結果よりも巧さを見せられればいいと思っていたのか(決してそんなことはないと思う)
そこは、外野の僕には決してわからない。でもひとつ思ったことは、きっと聖和の選手達はとても純粋なんだろうなと。自分達の武器を信じてそれを振りかざし頼りにして最後まで戦っていた姿は、下衆な大人の僕からしてみたら「もう少し、狡さと悪さがあれば…」とつい思ってしまうのだけれど、そんな邪神すら挟めないほどに、彼らは自分達の武器である技術を信じ、特に絶対の自信を持つドリブルで、この巨大で「強か」すぎる相手にも勝とう、と思っていたのかなって。

刀は毎日欠かさず磨いて、鋭く光らせておく。常に携える。でも
「俺がどんな思いで毎日この刀を磨いてると思ってるんだ。お前ごときに簡単に使うほど安い値打ちじゃねぇよ」という状態で、武器を使わずして勝つ。
これが、理想の「武器との付き合い方」だと僕は思う。いつでも使えるように磨き、鍛錬は欠かさない。そしていずれ、いざという時に満を持して使う。
仲間のために使うのもいいし、自分を守るためでもいい。武器の使い方に、その人間の本性が出るのだとも思う。

でもそんな僕の戯言すら、彼らの真っ直ぐさと純粋無垢さにはキラーンと跳ね返されてしまいそう。そんな潔さも感じた、彼らの武器の使い方。それも眩しい。高校生らしい真っ直ぐさ、それを制御できずに敗れてしまったのかな。勝手な見方だけど、そう思った。

また見てみたい。素直にそう思える、人の心を揺さぶる、素晴らしいチームでした。

 

(この記事は、筆者が持つBlog『We can be adlibler 』にて2016年1月3日に掲載した内容を、再編集したものです)