幸せとは、この世界の片隅でほんの少しの居場所を見つけること
前回のコラムで『この世界の片隅に』がどれだけ素晴らしい作品か、を書きました。
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同じ映画館に、すでに3回も観に行ってしまった。
年内には必ず広島に行こうと思ってる。それほど、この作品の素晴らしさとすずさんの愛おしさに、完全に心を奪われてしまった。
あまりにも素晴らしすぎて、それをどう上手に表現すればいいのか、その術が未だになかなか見つからない。なので人に薦める時には「とにかく観て!本当に良いから!」などと、陳腐な勧め文句になってしまっている自分が情けなくなってきてしまうのけれど…
だから今回のコラムでも、感じたままを、ほとんど自分の独り言のように並べただけになってしまってます。
なのでこれを読んだ皆さんはそのぶん想像をたくさん膨らませて、そしてぜひ映画館に足を運んで、この素晴らしくて美しくて愛おしい作品に会いに行ってほしいと思うのです。
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冒頭に流れる主題歌『 悲しくてやりきれない 』
この映画に出てくる登場人物のほとんどが、この曲の歌詞にあるような「悲しくてやりきれない」気持ちを表に出さず、明るく普通に生きている。
この曲を主題歌にしたのは、表に出さない(出せない)その悲しみを、代弁してあげるためなんじゃないか。僕はそう推測しているのだけれど。
すずさんの口癖「ありゃー」「弱ったねぇ」「困ったねぇ」
何か困ったことがあって、観ているこっちが心配してしまうところを、すずさんが苦笑いしながらほんわかつぶやく「ありゃー」「弱ったねぇ」「困ったねぇ」で、僕らがほんわか安心してしまう。
きっと周りの人達をも、すずさんはこの言葉でいつも安心させていたのだろう。
でも本当は…
悲しくてやりきれなかった、のかも。そのやりきれない心情が伝ってくるからこそ、僕らはすずさんにこれほど感情移入してしまうのだと思う。
幼い頃、すずさんと周作はどこで出会っていたのか。僕は最後に「あぁっ…!」とようやく気づいた。勘の鋭い人は、もっと前に気づいていたのだろうけど。
3回目を観て、ようやくもっと前に分かった。キャラメルの匂い…
子供の頃、おばあちゃんの家で寝転び天井を見ながら呟いた
「色々あるが、子供でいるのも悪くはない」
しかし
子供のままでいたかったすずさんなのに、流されるまま、いつの間にか大人にさせられてしまった。
そして大人になったすずさんは、戦争によって、大切な人やものをたくさん失う。
何を失くしたのかを具体的に書いてしまうとネタバレになってしまうから書かないけれど、それでもすずさんは、この世界の片隅で、毎日を普通に生きていこうとする。
「悲しくてやりきれない」気持ちを、表に出さずに。
物語の最後のほう、病に伏す妹・すみを見舞い、すみの横に寝転び一緒に天井を眺めながら、死んだ兄を思い返すシーン。子供の頃、おばあちゃんの家で一緒に寝転んだあの時に戻ったかのよう。このシーン、喋り方も子供の頃に戻ってる。すみといる時は、子供に戻れる時間だったのだろう。個人的には、ここが一番せつなくてつらかった。
兄にも、そのお嫁さんにも、最後に会える(よく観てればわかる)
この部分はファンタジーだけど、きっとすずさんには見えた。そう思うと、何だか嬉しい。
このNHKの特集でもわかるように、ディテールな描写にこだわり抜いた片渕監督の執念、作品に対する愛、そして、きっとすずさんみたいな人が多くいたであろう、あの時代を生きていた人達への敬意が、見事に描かれている。
だからこそ「感動した」というより、今はただ、ただただ愛おしい。すずさんだけでなく、登場人物全てが本当に愛おしく思えて仕方ないのだ。
まな板をバイオリンに見立て、楽しそうに料理をするすずさん。食糧難の中でも、工夫しながら毎日を少しでも楽しく「普通に」生きていこうとしているけなげさと、強さ。
本当に愛おしい。
僕の今の待ち受けはこれ。だから毎日がとっても平和に過ごせている。何か困ったことやムカつくことがあっても、ひと息ついて「弱ったねぇ」と口ずさめば、たいてい解決してしまうものだ。
この画像だけでなくとも、すずさんの画像を見るたび、いや、思い出すたびに「すずさんロス」状態に陥ってしまう。すぐにでもまた観に行きたい。今すぐにでも、すずさんに会いに行きたい。
そう、また観に行きたいというよりも「また会いに行きたい」と、心から思わせる作品なんです。
哲が最後に言い残していった言葉
「すず、お前だけは、この世界でまともでおってくれ。普通でおってくれ」
傷心のすずが広島の実家に帰る日の朝、義姉も優しくすずに言う。
「すずさんの居場所はここでもいいし、自分で決めたらえぇ」
例え世界の片隅でも「あなたの居場所はここでいいんだよ」って言ってくれる人がいること。何もなくていい、何かができなくてもいい。この世界の片隅で、人間らしさを失わず生きていること。普通でもいいから、とにかく生きていくこと。人と人の間で。
その尊さを、この作品は強烈に教えてくれる。それが幸せということなのだろうし、人間らしさそのものなのだということなのだろう。僕は、そう感じている。
日本の映画史にずっと語り継がれていく、不朽の名作になりうる作品だと思います。
まだ観ていない方は、絶対に観に行ったほうがいいです。
【 こっから先はややネタバレ。まだ観ていない人は、もうPC閉じてください 】
↓↓
哲はすずのことが好きだった。すずの代わりに集めたコクバの上に、花を乗せて渡した哲。
周作との結婚について悩む時、哲と過ごしたあの海に来るすず。
作品内では、いくつもの【対比】【デジャブ】が描かれている。
・あの時、コクバのカゴをすずの頭に乗っけて渡した哲。
・哲が北条家に泊まりに来た時、灰皿を哲の頭に乗っけて、照れ隠しに怒ったすず。
・幼い頃、兄弟3人で一緒に寝転びながら、天井を指差した右手。
・すみと一緒に、お兄ちゃんを思い出しながら寝転び天井を指す、今はもうない右手。
・幼い頃、突然現れたリンに新しいスイカと着物を用意してあげた、すずの優しさ。
・死んだ母とすずを重ね合わせ、拾った海苔巻きをすずにあげようとする孤児の優しさ。
本当は自分が食べたくて仕方ないはずなのに。
・右手を失くして亡くなった孤児の母。
・すずの右手をずっと離さない、孤児。
この世界の片隅に
映画『この世界の片隅に』を観てきました。
木曜日、雪で練習が中止になり、急に時間ができた。ずっと気になっていたけれど時間がなくてなかなか観にいけてなかったこの映画を観に行こう、とすぐに決めた。
胸がいっぱいになった。なかなか席から立てなくて、家に帰る前に本屋行って原作(漫画)を買って一気に読んで、そして翌日、練習前にまた改めて2回目を観に行ってきた。
映画 → 原作 → 映画
このサイクルで映画を2回見ると、同じ映画なのにまた違う見方ができ、違う感動を味わい、新たな発見が必ずある。
『 君の名は。』でもそうだった。
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さて『 この世界の片隅に 』
自分が今まで観てきた中でNo.1の映画は『Life is beautiful』だったけど、でも『この世界の片隅に』が、それを塗り替ました。それくらい、この映画は素晴らしいです。
僕のそばの席で見ていた初老の男性も、ハンカチ片手にズルズル泣いていた。
いろんな人に観て欲しいのでネタバレ的なことはここでは書かないけれど
この世界で普通に生きていくこと、自分の居場所があること、あなたはここにいていいんだよ、って言ってくれる人がいることこそが幸せそのものなんだということを、悲しみの中でも明るく気丈に、そして普通に生きようとする「すずさん」が教えてくれる。
笑えるシーンもたくさんあるし、戦時中の話だからって重苦しく考えないで、是非皆さん気軽に観に行って欲しい。戦争映画のようで、戦争映画ではないし。
気軽に観に行って、気軽には帰って来れないことは間違いないけど…
本当に、胸に沁みます。
僕と関わりのある全ての人達に、本気で薦めたくなる至極の作品です。
そして主人公・すずさんの声を演じた能年玲奈さん(あえてこう呼ぶ)が、とにかくいい。すずさんそのもの。やっぱり彼女は天才だった。
そんな彼女から本名を奪い、活躍する場所を奪い、圧力をかけこの映画のことをTVでは全スルーさせている芸能界の汚い大人達にギャフンと言わせるためにも、そして彼女がこの映画をきっかけにまたスポットライトを浴びれるように。頼むからみんな観に行って!
「金なら俺が出す。だからお願い、観に行ってくれ」
って言って周りに薦めてる人が多いらしい(笑)この気持ち、ものすごくわかる。僕も本当にそう思う。
ホントに金なら出すからさ、だからこの映画だけは、本当に絶対観に行ってほしい。
冒頭、小銭を握りしめて、お兄ちゃんと妹に何をお土産で買って帰ろうか…って嬉しそうに想像してるすずさんの姿がもう、本当に愛おしくて。
始まって数分で、この主人公が悲しい思いをするストーリーじゃありませんように、と心から願った。それくらい、すずさんにあっという間に感情移入できた。
映画を思い出すだけで、今すぐ、すずさんを抱きしめたい気分になってしまう。この気持ち、観た人なら絶対わかってくれると思う。
胸がいっぱいになること、必ず保証します。
この幸せそうな顏。普通の日常の尊さ。あぁ、既にすずロス状態。
とにかく
これくらいでしかこの作品の良さを表現できない自分の語彙力のなさを恨むしかないけれど…
これだけは言える。ずっとずっと大切にしたい、素晴らしい作品に出会えて今はとても幸せな気持ちになっています。
舞台となった広島の地で、3回目を観たい。作品に登場した実際の風景や建物がいくつも残っているらしいし。もちろん、原爆ドームも。
そして広島には、とても会いたい人がいるし。
次回のコラムではネタバレも含みながら、この作品を自分なりに少しだけ考察してみたいと思います。
無意識を超えるプレーが最強
たぶんこの人も、ほとんどのプレーを覚えてなかったんだと思う。
「練習とは、意識すれば出来ることを、無意識でも出来るようにしていくこと」なんて、よく言われる。僕もこれ言うし。実際その通りでしょう。
意識しても出来ないことが、そのうち意識すれば出来るようになり、意識しなければ出来ないことを、意識しなくても出来るように。
僕は、さらにその上があると思ってます。
『そのプレーをやったかどうかすら、覚えてない状態』
この領域が、たぶん最強だと思う。
実は土曜の夜に都立国際女子サッカー部でコーチしていた頃の教え子に会って、飲みながらたっぷり話す機会があった。彼女は今、大学3年生。
彼女が現役当時に書いていたサッカーノートの話になって、彼女が言ってたのは
「私、ゲーム中のプレーなんて、終わった後はいつもほとんど覚えてなかったんですよね。だからサッカーノートで振り返れと言われても、それが出来ない 笑」って。
あぁ…彼女にそう言われるまで、こんなとてもシンプルなことに今までまるで気づいていなかった。
確かに、僕はいつも自分でも選手達にそう言ってる。
「試合中にとっさに無意識で出来るようになれば、それは本当に身についた技術ってことだかんな」って。
【 よくありがちな会話 】
「お前さっきのプレー凄かったな!あれ、狙ってやった?」
「いや、狙ってない」もしくは「覚えてない」
選手がそう答えた時に
「なーんだ、偶然かよ。まぐれか」となるのか、それとも
「おぉ、覚えてないってことは無意識で身体が勝手に動いたってことだから、それ、本当に技術が身についたことよ。スゲーな!」となるのか。
もちろん、僕は後者。無意識で出来たってことは、普段の練習で妄想を重ねながらやっていたことの積み重ねであり、頭で考えるより身体が先に勝手に動くということは、頭だけでなく身体がわかっている、ということだから。本当の習得。
10月の試合でも、そういうことがあった。
We can be adlibler:U-12・VIVAIO戦 〜 ふたつの無意識プレー
つまり僕に話してくれた彼女は、いつもそういう領域でプレーしていたということ。実際、当時はそんな会話いっぱいしてたしなぁ。
そして彼女はもちろん、僕が今まで教えた選手の中で断トツにスーパーなファンタジスタだったわけです。
【久保田コラム】全国大会で優勝するほどの才能を持っているのに、サッカーの楽しさを見失っていた女の子のはなし | FootballEDGE
そんな選手に「サッカーノート書いてプレーを振り返れ」って言っても無理だよ、って話ですよね。だってそういう選手は、頭で考えて決める前の、0.2秒の自由意志の中でプレーしているのだから。
あのプレーはこうだった、あぁだった、だからこうすればよかった…なんて書けるってことは、まだまだ頭だけでプレーしてる状態ということ。頭でっかち、と言ってもいいかも。頭でっかちな選手にしちゃいかん。そう思います。
頭でっかちな指導者が多いからそういう選手が多く育ってしまうわけで、だから僕はせめて、頭でっかちにならないようにしたい。
彼女の話が、また大切なことを思わせてくれた。やっぱり選手に教わることのほうが、圧倒的に多いのだ。そして僕はやっぱり、あいつには一生頭が上がらない。
枝を切るならその責任を持て
こんなちっちゃな盆栽を、ここからどう育てていくか。
サッカー専門サイト フットボールエッジ にコラムを連載させてもらってます。
その最新コラムが、アップされました。
トレセンや8人制サッカーで垣間見える、指導者の“余裕のなさ”のはなし【久保田コラム】 | FootballEDGE
ゆとりのない指導者が、この国のサッカーの成長を妨げる一番の弊害になっていること。今回はそんな思いを書かせてもらってます。
その原文、ここに載っけときます。
つい最近『◯◯トレセン』というチームがたくさん集まる大会(小5)を間近でたっぷり観る機会があった。主審も2試合させてもらって。
トレセンというくらいだから各地域の能力ある子が選抜されて来てるわけで、ならばその能力の『定義』って何なのさという話になるのだけれど、小5の段階で能力の優劣を判断するとしたらそれはどういう基準でなされているのか、また率いる指導者は、試合の場でその『能力ある子達』に何を求めてるのかなど、自分なりに興味深く観てました。
簡単に言えば、各地域の指導者が持つ基準、そして質が、よく表れていたなと。
ピッチ上で見られた、その基準や質。それはそのまま現在の日本における少年サッカーの問題点を如実に表しているのではと、僕は試合を観ながら(指導者の声を聴きながら)感じていた。
ひとことで言えば。余裕がない。選手にも指導者にも。
ゲームがせわしない。リズムの抑揚がなく、常に一本調子で無駄に速い往復サッカーが続く。ミスをしないようにしないように、ボールを失わないように、より安全に。だからまずは広い場所へ!まずはサイドのスペースへ!そして最後はスピードスターに決めさせる。あとは相手のミス待ち。そんなサッカーが多く見られた。
ボールがない時の駆け引きや狙いを持った動き出しも、まるで見られない。全てボールを持ってからヨーイドンで何かが始まる、一か八かの「一発勝負」ばかり。パスもドリブルも。
トレセンなのに、能力高い選手が集まってるはずなのに、化け物みたいな選手や凄ぇ!っていう選手は、とうとう一人も見つけられなかった。
だから主審をしていても、騙されることがないんですよ。いい意味で裏切られることがない。次のプレーがほぼ100%予測できるから、ポジショニングが楽。もっと、こちらの予測や想像を上回る選手がいてもいいと思うのだけれど。
なぜ、こうなってしまうのか。本当ならば一番自由度が高くていいはずのジュニア年代。その自由さ、突飛な発想、突き抜けた個性がまるで姿を消してしまうのはなぜなのか。
答えは簡単。指導者の質に尽きる。
上述したトレセン大会はあくまでも一つの例だが、それ以外の普段グラスルーツで行われているジュニア年代のあらゆる試合を観ても、とにかく感じるのが『8人制』のせわしなさ。
一つのミスが即・失点につながりやすく、まずはサイド、というサイド偏重攻撃ばかりで最後は一人のスピードスターで何とかなってしまう8人制。目先の試合に追われ、8人制に勝つにはこう、負けないようにするにはこう、という手っ取り早い方法ばかりに目を眩まされ、子供達が身につけるべきものを失わせている指導者が非常に多い。
ジュニア年代に蔓延る『中より外、狭より広、緩より強、遅より早』ワールド。
中央は悪、狭いのなんてもってのほか、とにかく強く!速く! ばかりで。
そんなに急がせてばかりで、この子達をどうさせたいのか。
初めからそんなに危機回避ばかりさせて、数年後、この子達にどうなってほしいのか。
効率よく、危機回避。多くの人にとってはこれが最大の目的だから、攻撃時はまず相手がいない、安全な場所ばかりを選ばせる。中央でボールを受けると、ファーストタッチで半自動的に必ず外を向く選手が、最近は本当に多い。いやいや、今、相手センターバックの間が空いてるやん、というシーンが多々あるのに。
相手がいない安全な場所。実はそこは『相手にとっても安全な場所』ということに、指導者自身が気づいていない。「お前にとって安全ってことは、相手から見ても、お前は安全な選手ってことだかんな」と、本来ならば言ってあげなければいけないはず。
自分のことをマークしている相手のそばで受けて、足元でその相手を剥がせばそれが最大のフリー。その自信があるのなら、例え相手が最初からそばにいたって元来フリーなはず。
ボールを受ける時、相手が「あ、奪える」と思って寄せてくる、足を出してくる、その足のわずか先にコントロール出来るのが本当の技術だし、その足のわずか先を抜けていけるのが本当のドリブル。
自由にできれば、どこでもフリーなんですよ。川崎フロンターレの風間監督も、フロンターレの選手達に対し同じようなことを言っている。
そんなギリギリの駆け引きや技術の斬り合い、相手との間合いを感じながら味方とタイミングを合わせてリズムを変えていく。そんな判断を繰り返していくチャレンジを、ゲームの中でもっと練習させてあげましょうよ。まずは無駄なく!手っ取り早く!効率よく!危機回避!なんて大人のバイアスを、子ども達にかけないでほしい。
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練習試合の相手を募集するマッチングサイトなどでの投稿を見ても、
「市大会を控えているので8人制でお願いします」
「県大会を控えているので11人制でお願いします」
というのをよく見かける。
公式戦を控えてるから◯人制… 基準はそこなんでしょか。
今、こういう技術を身につけさせたいから8人制をどうしてもやりたい
今はこういう練習をしたいから、あえて11人制でやりたい
8人制の公式戦を控えてはいるけれど、今はそこに重きをおかず、それ以上にこういう練習がしたいから、9人制でやりたい
本来ならばこういった基準で、試合のレギュレーションを決めていくべきなのでは?
「市大会を控えているので8人制で〜」
多くの指導者が何にプライオリティを置いているのか、この一文だけでよくわかる。
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子供の頃から、効率よく、無駄なく、無茶をさせず…みたいなことを教育することが、本当に正しいんでしょうか。もっと好奇心もたせて、無茶をさせて、チャレンジさせて、冒険させて。その中から、子ども達が自分なりの正しさや自分なりの流儀、やり方みたいなものを見つけていく。これは子どもに許された特権だと思うのだけれど、サッカーではそれすら許されないのだろうか。
教育しよう、教えなければいけない、勝たなければいけない、という大人の余計なお節介によって、結果として、子ども達から本当に大切なものを失わせてはいないだろうか。
僕らは目の前の選手達の数年後に触れている。その視点を持って指導している人が、一体どれくらいいるんだろう。
自分が尊敬する岩谷篤人氏が、以前、育成を盆栽に例えて話をしてくれたことがある。
『枝を切って切って、自分のいいように修正して、こじんまりとした盆栽を作って満足してないか。自分の作品です〜、とか言うて』
『あの枝を切らなかったら、どういう育ち方をしていたんだろう、と。
枝を切るなら、切る責任を持たなアカン』
みんな長生きしたい。でもだからって、ただただ健康に気を使って、本当に食べたいものを我慢して節制し、味気ない毎日を過ごすのか
みんなお金が欲しい。大金持ちになりたい。だからって、金を稼げるならば手段を選ばず、どんな方法でもいいのか
寒さをしのぐためなら服を何枚も重ね着すればいい。でも、どうせ服を着るなら、自分のセンスでオシャレに着こなしたいじゃないですか。
空腹をしのぐためならただただ白飯を食えばいい。でもそれだけじゃ栄養が取れないから野菜をとるし、それだけじゃ味気ないから、いろんなおかずを食べる。彩りにも気を使う。
みんな勝ちたい。でも…
この後に続く言葉を、指導者が自分だけの言葉で表現すべきなのだろうと僕は思う。
それは、生き方をサッカーを通じて伝えることにもつながる。子ども達がそれぞれの生き方を自分で見つけ、そこに自分なりの彩りをつけていく。そのきっかけがサッカーだった。最初に出会ったコーチだった。本当の指導者は、それができる人なのだと。
ジュニア年代の指導者の方々、もう少し、のんびりやりません?
まるで別の映画のよう 〜 君の名は。を観に行ってきた
今さらだけど、ようやく『君の名は。』を観てきた。
男女が入れ替わる物語 くらいの予備知識だけ。それ以外の設定やあらすじを全く知らない状態で観に行ったので、物語についていくのが精一杯だった。それでも充分胸を打たれる物語だったのだけれど、時系列の細かい変化や設定、情景や背景などを一回だけでは理解しきれず、でも何故かこのままでは終わらせたくない衝動もあって、たまらず、原作本を買って読んでみた。
原作を読んで、いろいろなことがようやく理解できた。主人公ふたりの背景、時系列の変化の仕組み、あの時…瀧は、三葉は、こういう想いからあの行動に走ったのか…とか。全て含めて情景を理解することができた。
で、やっぱりたまらず、もう一度改めて映画を観に行った。同じ映画を二度も観に行くのは、中学生の時に観た Back To The Future 以来だ。それだけ、僕はこの物語の世界観に強く惹かれてしまった。
上でも書いたけど、映画では表すことができない、瀧や三葉がその時に想っていた心の声や、様々なプロットなどが原作を読むことで理解できていたから「えっと、さっきのシーンは…」などと思い起こして考える必要がない分、そのまま物語がスッと胸に入ってきて、頭ではなく心で観ることが出来たんだと思う。最初に観た時にはそれほど何も感じなかったシーンで泣きそうになってしまったり、実際に涙してしまったり。何だか不思議ですね。
まるで、最初に観に行った映画とは別の映画を観ているようで。観ている最中、そして観終わった後も、胸がいっぱいになった。こんな感情は久しぶりだ。
そういえば…1.2年前、ある方の話を聴いて、後でそれを全て文字起こしするという作業をよくしていた時期がある。その時、一回聴いた話なのに、文字起こししてみて初めて気づくことが結構あった。言葉の真意とか、その人が本当に伝えたかったこととか、行間に含まれる、文字にならない言葉とか。
文字起こしをしたあの時によく感じていた「あぁ、これってこういう意味だったんだ」という想像と、感動。そこには自分なりの解釈も含まれるけれど、話を聴くだけでなく、文字に起こしてみて初めてわかることがあり、そのほうがさらに心にスッと入ってくる。
映画を観てから原作を読んで、そしてまた映画を観る。今回それで感じた「まるで初めて観る映画のようだ」っていうこの感覚は、あの『文字起こしで感じていた感覚』に似てるなと思う。
なので
映画→原作→映画。この流れ、すごく良いかも。これからこのパターンで映画を観ようかな。
まだ観ていない人もいるだろうから物語の設定もあらすじも結末もここではもちろん書かないけれど、個人的には、三葉の純粋さとけなげさが、もうたまらなくて。三葉の声を演じた上白石萌音さんの魅力的な声も最高だよね。
たぶん、また観に行ってしまう。いや、絶対に観に行く。次は、一葉お婆ちゃんの言葉の意味をもっと噛みしめながら観てみようかな。結び、組紐、時間…
また違った情景が表れて、新たな感動が心に響いてきそうな気がする。
どうやら完全にハマってしまった。そのうち聖地巡礼しそうな自分が怖い 笑
・・・たぶんする。飛騨高山、行ってみたい。糸守湖のモデルと言われる諏訪湖にも行きたい。四谷の須賀神社の階段や信濃町の歩道橋なら、いつでも行けるな…
前世とか、パラレルワールドとか…僕は結構、信じてる。夢で見たこと、それは実は夢ではなくて、自分が住んでるもう一つの世界、まさにパラレルワールドなんじゃないかとも、かなり真剣に信じてるんです。
ごく少数の人にしか言っていないけれど、子どもの頃、僕は戦時中に空襲で逃げ回っている記憶がずっとあった。東京が大空襲を受けたことなんて勉強で知るずぅっと前の、小さい頃から。今でも、その記憶の断片は少しなら思い出せる。
それだけじゃない。江戸時代に、お侍さんに刀で斬られるんじゃないかってビクビクしながら町を歩いている記憶や
自分が年老いて、なんとなく余命も悟って病院のベッドに一人寂しく横たわってるだけの映像の記憶も、小さい頃からずっとあった。それは決して夢ではなく。
変人と思われるかもしれないが、本当にあった。こういう人って実は結構いるんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。
だから何なんだってことではなくて、前世やもう一つの世界の記憶、やっぱりそれは夢だった、でもいいけど
『君の名は。』がなぜこんなにヒットしたのか。それはその世界観が決して架空のファンタジーだけではなくて、どこか僕らも「ひょっとしたら違う世界を生きてるんじゃないか」とか「まだ出逢っていない、本当に逢うべき人を探さなくちゃいけないんじゃないか」っていう想いが心の中にあって、それが、多くの人の琴線に触れたんじゃないかって、勝手に妄想したりしてる。
こんなこと真剣に書くと、やっぱりおかしいと思われるかな。単純!とか。
ところで…最初に観に行った時、『君の名は。』を観に行ってきたよーってFacebookに書いたら「やっぱり日本人は凄い!」というコメントをくれた方がいました。
この映画を観て「日本人は凄い!」っていう発想になってそれを人のFBに平気でコメントしちゃう感覚が、何とも残念というか。日頃から相当に右寄りな発言をされてる方だし、逆に僕が相当な左側だということも知ってる方からのコメントだったので、なおさら恣意的なものを感じてしまった。
繊細なアニメーションのタッチだとか日本ならではの情景などを観て「日本人は凄い!」ってなったのかもしれないけれど、日本人が凄い!んじゃなくて、新海誠さんのチームが素晴らしかったわけで。この作品が例え中国や韓国の映画だったとしても、僕はもちろん何度も観に行くし。
せっかくの美しい映画を汚された気がして、とても不快に思ってしまった。なぜ純粋に、一つの作品として観れないんだろうか。
「国籍は関係ないと思います」とコメント返したけど、その後は返信なかった。
国や国籍や人種に何かの価値を見出だしたり、差別化したり、賞賛したり批判したり、僕はそうはなりたくない。美しい作品を観た後だけに、余計にそう思わされる出来事だった。
とにかく
『君の名は。』は素晴らしい作品です。これ以上でもこれ以下でもない。まだ観ていない方、DVD化を待たずに、是非スクリーンで観るのをお勧めします。
何!? 君の名は。展 が長野で開かれてるって?…行くしかないじゃないか。
伝え方を考え出したらキリがない。けど、探求は止められない
「表現主義とは、人生というものを具体的な形ではなく雰囲気で映し出すアート・フォームなんだ。これこそ自分の進む道だと思ったね」(デビッド・ボウイ)
普段の練習で、子ども達にプレーについて何かを伝える時、言葉の使い方にはいつも気を使う。いつも悩んでる。常に試行錯誤の繰り返し。
例えば
「ボール【を】見ろ」ではなく「ボール【も】見ろ」という言葉は、感性豊かな子なら「ボールから目を離せ」という意味でも同時に受け取ってくれる。もちろん、ボールも見えてる(わかってる)状態なうえで。
このギリギリすれすれの感覚で、僕は練習をしていきたい。このニュアンス伝わるかな…
指導者がただただストレートに言葉を発し、選手はそれに従ってプレーするだけでは、良いプレーは決して生み出せないと思う。
プレーに関して何かを伝えようとしてそれをそのままストレートに言葉にすると、まさしくそのままにしか伝わらない。そのまま伝わるならいーじゃんと思われるかもしれないが、こちらの言葉が選手達にそのまま伝わることは、僕は良いことではないと思ってる。
同じその場にいて、お互いの表情、熱、前後の文脈とかその場の雰囲気とか、これまで一緒に紡いできたものとか…それらの要素やニュアンスが全て含まれて、後にも先にもその瞬間にしかない、そしてその場にいる者同士にしかわからない、たったひとつの『言の葉』となる。ペップ風に言えば、そのチームだけの「イデオマ」になる。
しかしたったひとつの言の葉でも、ひとつひとつのプレーは具体的にではなく抽象的に伝えるほうがいい。抽象的でも、肝の部分は伝わる。だから抽象的に伝えれば、共有したい肝の部分はあまりズレずに、そこにいる選手の数の分だけ、その肝をどう表現するかのバリエーションが広がる。このほうが選手側の発想を引き出し広げられると、僕は思ってる。
言われたことをそのまま受け取りそのまま実行する(させられる)ことに慣れている日本人に指導するならば尚更のこと。そんな『ザ・日本人マインド』は、サッカーではぶっ壊さなけりゃならないんだ。
例えば
『見ろ』とは言わない。『見ようとするな。見えてればいい』と言う。
「見る」と「見えてる」この大きな違い、感じて頂けますか?
「ボールを信頼しよう」
ボールを信頼できるのが技術。小学生でも、このニュアンスは感じ取ってくれる。
「見えてればいい」「ボールを信頼しよう」
この言葉の真意が分かったら、練習の場で言ってみて下さい。子ども達のプレーがきっと変わってきます。まずは目線の位置が、大きく変わってくるはず。
そして何より、そんなこちらの想定より遥か上のトンデモない発想をするやつが、必ず出てくる。そんな瞬間がたまにあるから、コーチをやめられないんだけども。
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最近、最も重要視して伝えていることがある。
それは『極力、考えることを省いていく』こと。
考えることが悪いとか、約束事や決まり事をガチガチに決めてプレーを自動化していくとか、そういうことではなくて
『考えることを省いていく』ことの意味は、大まかに言えばふたつ。
ひとつは
『試合の場で考えてる暇はない。そのために、練習の場で妄想を重ねていく』こと。
練習で妄想、試合で閃き。あるサイトで知ったことだが、人間の自由意思は0.2秒だけ存在するらしい。脳で「こうしよう」と命令しそれに基づいた行動が自由意思と思われがちだけれど実はそうではなく、脳で「こうしよう」と決める前に、身体が勝手に動く0.2秒の世界があるらしい。
閃きとは、まさに0.2秒の自由意思の世界なのではないかと。学術的にはそういう意味じゃないのよ久保田くん、と言われるかもしれないけど、まぁ僕は今、勝手にそう解釈してる。
閃きを出すために、練習では妄想を重ねていく。相手をつけないボールタッチの練習の時は、例えば右からはダビド・ルイスが寄せに来てる、左からはチアゴが来てる、ならばこうタッチしてボールを守って、こっちに運んで、その間に味方は逆サイドを必ず走ってくれてる…という具合に、ひたすら妄想しろと。妄想を重ねていきそれに伴ったプレーをしていくことで、試合の場で、相手の影や足音、気配を感じた時にとっさの閃きが出る。…と、僕は今は思ってる。
そして『考えることを極力省いていく』ことのもう一つが、とても重要で。
この最大の意味は
『最初からわかってることに対してはミスらず、必ず上回れ』ということ。これが今、選手達に一番伝えているところ。
ゲームの中で、いちいち見なくても、いちいち考えなくても「相手がこうしてくる、ここにいつ来る」のが【最初からわかってる】瞬間って、実は結構多いんです。
でもこれ、カテゴリー問わず、ほとんどの選手が気づいていない。気づいていないというか、そこに対して平気でミスってる選手が多い。
「最初からわかってる」をもう少し言い換えると
折り込み済み
計算済み
みたいなニュアンス。
例えばタッチライン際で相手を抜いた後、その抜かれた相手はどこを通ってもう一度追っかけてくるかといえば、間違いなく100パー、内側を通ってくるわけです。これはいちいち見なくてもいちいち考えなくても、最初から『折り込み済み』なはず。
それなのに、インサイドで内側に切り返してその相手に引っ掛けちゃうとか、プロの試合でもよく見かける。
見なくても「そろそろ…来.る.よ.ね」の「ね!」の瞬間にアウトでターンしてそいつをいなすとか簡単にさばくとか、それくらいは見ないでヤンなきゃダメだよと。これはもう考えるとか判断のレベルじゃない。折り込み済みなんだからそれを利用して上回るべきこと。
ゴール前でこちらがシュートモーションをすれば、相手は100パー足を出してくる。これも、折り込み済みなこと。万が一出してこなけりゃ、そのまま打てばいいんだし。
100パー足を出してくるんだから、簡単に切り返すこともできる。だって折り込み済みだから(しつこい)
だからシュートモーションから切り返しまでをワンセットでやれる。考える必要も、見る必要もない。
相手を一人抜けば、ほぼ、2人目が最初のスペースを捨ててカバーに来ることも折り込み済み。だから寄せてくる2人目を見なくても頭で考えなくても、ハイやっぱり来たね、の「ね!」のタイミングで、そのカバー役が最初いたスペースにノールックでパスを入れてくとか。
これら全て、考えなくてもわかること。考えなくても出来ること。例に挙げたのはごく一例だけど、他にも『折り込み済み』なシーンはいくらでもある。
ほぼ100パー、相手がここにこのタイミングでこう来る = 最初から折り込み済み
「それに対してはもう、考えてプレーとかじゃないから。見なくても考えなくてもわかってるんだから。ミスっちゃダメなんだぜ」と、その『折り込み済み』を増やし、考えなくてもやれる、考えなくても勝手に上回れる場面を増やすんだと、手を替え品を替え、最近は伝えてる真っ最中なのです。
伝えるって難しいけど、探求し始めると、面白いし奥深いよね。
ところで漢字
折り込み済み…で合ってるんだろか。織り込み済み、かな
乃木坂46とは、生田絵梨花のことである
勝手に『 乃木坂46の素晴らしさを語り尽くす 』シリーズ
「お前はサッカーのことだけ真面目に書いてればいいんだよ!」というクソ真面目な人にはこのコラムは向いてませんので、ごめんなさい。前回も書いたけれど、ジャンルや先入観だけで垣根を作ってしまうのはもったいないよ。そういうのを全て取っ払って、リミッターも外して、僕は面白おかしく生きていたいのだ。
さて 前回は、卒業&芸能界引退 を発表した橋本奈々未の潔さと、その魅力について書きました。
今回は、乃木坂46というグループ全体が持つ、稀有な魅力に焦点を当てます。
自分が乃木坂LOVEということは以前から色々な媒体で公言してるし、もう好き過ぎて、FootballEDGE にも「チームづくりと乃木坂46」として、2回もコラムを書かせてもらったほど。
なぜ、こうまで乃木坂46に惹かれてしまうのか。コラムだけでは書き切れないその魅力を、僕なりに語り尽くしたいと思う。前回と同じく、サッカーのことは一切書きませぬ。
FootballEDGE のコラム内にも書いたけれど
『乃木坂46とは、◯◯◯のことである』と評する時、この◯◯◯にメンバーそれぞれの名前を入れるとすると、僕はそのメンバーの数だけ、それぞれ違う見方と文脈で乃木坂46というグループ魅力を語ることができる。それはきっと僕だけではないはず。これが今、乃木坂46の魅力を表すには一番わかりやすい方法のような気がする。
つまり乃木坂の魅力はメンバーそれぞれの多様性であり、その多様性が交わり一つのチームとなった時に発する圧倒的な魅力に、僕らファンは虜になってしまう。
一つのチームになる時、その主役は様々。メンバーそれぞれに違う個性と魅力があるので、乃木坂は入れ替わり立ち替わりで主役を替えられる。その都度、他のメンバーがその主役を引き立てるためにうまく脇を固め、また違う色と魅力を発していく。
中でも
僕が乃木坂にハマるきっかけにもなった『いくちゃん』こと生田絵梨花のことだけは、どうしても真っ先に書かなければならぬ。
彼女は乃木坂が誇る天才。ドイツ生まれ、ピアノで東京都代表になるほどの才能の持ち主であり、現在は某音大に通う19歳。もちろんピアノだけでなくその歌唱力は本物で、彼女がピアノの弾き語りで歌った『君の名は希望』は本当に美しく、これは一聴の価値がある。
ちなみにこの『君の名は希望』のサビメロディーが、今春から東京メトロ乃木坂駅の発車ベルにもなっている。これも、彼女がピアノで弾いたもの。通勤や通学で乃木坂駅を利用している人は、彼女のピアノを毎日聴いてることになる。いーなー。
…と
彼女の音楽的才能をあげたらキリがないのだけれど、それ以上に彼女が天才的なのは、その独特な感性と、面白いことを面白いと思わず、真剣にやりきってしまうところ。このセンスがもう… 最高で。大袈裟でもなく、彼女は本物のエンターテイナー。うまく説明できないのだけれど、一度観たら、誰もが彼女にハマると思う。そして毎回毎回、彼女には笑いの神が降りてくる。
例えばこれとか。顔…w
↓↓
いくちゃんのことを語り出したら止まらないのでもうこの辺で止めておくけれど(ホントはもっと語りたい)彼女の面白い動画は他にもいっぱいあるので、興味を持った人はご自分でググるかYouTube検索を。
とにかく、彼女はもっと『知られるべき』逸材なのだ。
こんな天才いくちゃんを筆頭に、他にも多種多様な個性あるメンバーが多数。前回登場させた橋本奈々未、そして西野七瀬、白石麻衣、齋藤飛鳥、堀未央奈、生駒里奈、高山一実、若月佑美、北野日菜子、中元日芽香…まだまだいるけどクドくなるのでやめておこう(ちなみに中元日芽香の妹は、BABYMETALの中元すず香である)
メンバーそれぞれの魅力を一人ずつ語り出したらそれこそ超絶に長い文章となるので、苦渋を飲んで、次に移ります。
バナナマンの存在。
乃木坂ファンのほぼ全員が同意してくれると思うのだが、この多様性をうまく交じ合わせるためにどうしても欠かせない存在が、人気お笑いコンビのバナナマン。これは Football EDGE のコラムにもしつこいくらい書いたので、こちらを参照して下さい。
【久保田コラム】チームづくりと、乃木坂46 のはなし | FootballEDGE
【久保田コラム】乃木坂46とバナナマンの関係性に見る、育成年代の指導者の理想的なあり方 | FootballEDGE
コラム内で繰り返しているように、バナナマンの2人が、乃木坂46メンバー達の個性や魅力を存分に引き出していてるんですよ。乃木坂がここまで人気者になった、最大の立役者。
ほんの一例たち
↓↓
このようにキャラをつくったりいじったりして面白くしてあげるだけでなく、彼女達への愛情、優しさを惜しげもなく見せることもあるし、時には熱くなることもあった。
いかがでしょうか。このように『乃木坂46とは、バナナマンのことである』
と評したとしても、乃木坂46についての説明がほぼ出来る。それくらい、乃木坂とバナナマンの結びつきは深い。
バナナマンがいなかったら、乃木坂がここまで人気者になることはなかったんじゃないかな。これ、ファンの人達はほぼ同意してくれるはず。
興味を持った方は『乃木坂工事中』を是非ご覧下さいませ。
次に
バナナマンと並んで、乃木坂を語る上で絶対に欠かせないのが、楽曲とMV(Music Video)のクオリティの高さ。
ニューアルバムに収録された『きっかけ』は、Mr.Childrenの桜井さんがLiveでカバーしたほど。
そして前述した『君の名は希望』は、彼女達の代表曲とも言える曲で、昨年初出場した紅白歌合戦でも披露された。
これらだけでなく全体的にクオリティーは高いのだけれど、他に強いて挙げるとするならば
『何度目の青空か』『今、話したい誰かがいる』『僕がいる場所』
『失いたくないから』『羽根の記憶』『気づいたら片想い』…
うーん、絞りきれない。
MVに関して言えば、乃木坂のMVは「曲そのもののMusic Video」というよりも、その曲の世界観をモチーフにして創られる独立した一つの作品、と言えるもの。これまでも、その作品づくりには新進気鋭の映像作家が名を連ねてきた。
新曲『 サヨナラの意味 』
感情の起伏により体に棘が浮き出るという架空の人種『棘人』と、その村に暮らす人間達が、偏見や垣根を越えて次第に心を通わせていくという物語。曲の魅力をさらに膨らませる、美しく壮大な世界観のドラマになっている。
必見。
他にお薦めを少し挙げるとすれば
・彼女達の天真爛漫な魅力を堪能したいのならば『夏のFree&Easy』
・コメディエンヌとしての彼女達を楽しみたいのなら『そんなバカな』
・映画のような世界観に浸りたいのならば『何度目の青空か』
・女優としての彼女達を観たいのならば『月の大きさ』か『立ち直り中』
・完成された映像作品を観たいのならば『無口なライオン』
最後に
いつか終わりが来ることへの寂しさ。
今年6月には深川麻衣が卒業し大きな変革期を迎えた。そして前回も書いたように、結成時からグループを支えてきた主力中の主力、橋本奈々未も卒業そして芸能界からも引退するという。
乃木坂46には、今、22〜24歳になる初期からの主要メンバーが数名いる。
今回の『橋本奈々未の卒業』という大きな出来事をきっかけにして、これら初期メンバー達の卒業が、あと1.2年のうちに相次ぐのではないか。もちろんそれは仕方のないことだしその日がいずれ来ることはわかってはいるのだけれど、想像すると、なんだかとても切ない。間違いなくそうなることも、わかっては、いるのだけれど。
冒頭で「乃木坂46の魅力を僕なりに語り尽くしてみたい」とか書いたくせに、結局、僕の拙い文章力ではとてもとても書き切れない。あれもこれも…ともっとたくさん書きたくなってしまうのだけれど(もう充分、書き過ぎだろ、と言われるだろうが)思いつくことを全て書こうと思ったらキリがないし誰も読んでくれなくなるので、もう止めておきます。
前回と併せ、このコラムをきっかけに少しでも興味を持った人がもしいてくれたら。その人がそれぞれなりに、彼女達の新しい魅力を見つけてくれればいいと思う。きっとたくさんの見つけられるよ。