Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

民主主義思考とパスの意味

先日初めて会った池川君が、教員生活で一度も教科書を使わなかったという樋渡直哉先生の「平凡な自由」という本をプレゼントしてくれたことを、前の記事で書きました。

 

neutralfootball.hatenablog.com

 

それを彼が樋渡先生にも知らせてくれたらしい。
そしてそれに対する返信が先生から届いたそうで、僕に教えてくれた。池川くんありがとう。

「久保田さんはおもしろそうな人だね。女の子に指導を任せて石拾いに専念する姿は映画のシーンのようだ」(樋渡先生より)

園児のお姉ちゃんに指導を任せた話を、Facebookかブログで見てくれたのだろうか。

suertedream.pokebras.jp

自分はチームを強くするとか選手を上手くすることよりも、彼らと過ごす日常の中で、たまに起こるふとしたイレギュラーな出来事に楽しさを感じて、その時間を共有できることに嬉しさを感じてしまうので、あの出来事を「映画のよう」と評して下さるところが、何だかとても嬉しくて。そんな風に言ってくれる人は、なかなかいない。

「サッカー関係者に民主主義的思考の人が多いのは、パスという動作のもたらすところだろうか。独占しない、パスした先の仲間を信頼しなければならない。」(樋渡先生より)

パスと民主主義的思考の考察。ここで言われているパスの意味(意義)を、僕は選手達にどう伝えるかというところにいつも重点を置いているので、何だか心が軽くなった気が。

先生はサッカー関係者に民主主義的思考の人が多い…と言ってくれている。
確かに自分の周りにはそういう人が多い。多様性を当たり前のように認め、サッカーを活かしてそれを伝え、選手達の個性や自然体を、最大限に生かそうとしている人。

正しさよりも楽しさ。整然よりも逸脱。少数派こそ希望、という視点。
この最低限のラインを、僕も、一生守り続けたい。

でも
そんな思考や視点からは正反対の人が、最近のサッカー関係者に多いのも事実。
全体主義を愛し、それを選手にも乱用し、多様性も逸脱も許さない人。
歴史を改竄しようとし、中国や韓国を蔑視し卑下する優生思想の人。そんな人が、自分の周りにも、SNS界隈にも最近増えている。

そういう人が、パスに込められる意味を理解できるのだろうか。
そういう人が、サッカーの本質を理解できるのだろうか。
そういう人が、子ども達にサッカーを指導できるのだろうか。

そういう人がサッカー関係者の中に最近とっても多い、という矛盾とも戦っていかなければならないのだと、最近特に、強く感じている。

樋渡先生、ありがとうございました。