Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

指導の仕方は違って当たり前 〜 吉田都さんの話

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バレエダンサー、吉田都さんの話

 

日本に比べたら、ロイヤルなんてもうバッラバラ。一人ひとりの主張が激しくて、その意思というかエネルギーが強く出てしまうのです。一方、日本人の鼓舞が美しいのは、形を真似るのが上手いからです。

Q)外国人バレエダンサーは、真似はそこまで上手くないんですか?

とにかく真似るより、自分の踊りがしたいのです。自己主張が激しい分、教える側もすべて論理的に説明していきます。

日本人は練習時間が短くても、いま申し上げたように形を真似る力が高いから技術的なことはどんどんできちゃいます。その分、内側から湧き上がるような表現力というのはなかなか教えられないので、苦労するのです。

週刊文春阿川佐和子のこの人に会いたい」より)

 

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その人の内部から滲み出る魂であったり情熱であったり、悲しみ、喜び、欲求、煩悩…それらを表現することが、スポーツや音楽、アートの最終目標なんだと思う。勝敗や優劣はその結果の数字でしかなく。
だから、それら「何かを表現する」もの全てにおいて、そのやり方や指導方法に決められた正解があるわけじゃない。

僕らサッカーコーチからすれば、目の前にいる選手が全て。日本人とスペイン人ならば指導方法に違いがあって当たり前。同じ日本人同士だって、本来バラバラなはず。だから指導の仕方は違いがあって当たり前。


海外ではこうだから…と画一的な原理原則をどこでも同じように当てはめるのではなく、
いま目の前にいる選手に合わせて、自分の中の信じた正解をいかようにも疑ってかかり、時には捨てて、発する言葉も接し方も指導のアプローチも、柔軟に変えていく姿勢が何より大切なんだと思う。

「スペインではこうでした。だからサッカーはこうあるべきです」
とあっさり断言してる人が日本人の子どもにサッカーを指導するのって、とても危険だと思うよ。おおよその日本人はどういうメンタリティーを持っているか、そして良くも悪くもどういう教育を受けているかを、もっと草の根から這いつくばって肌で痛感してから、自分の中の正解を見つけた方がいいと思うけど。そこから外れる例外的な子達にも、目を向けながら。

 

サッカーは自由なスポーツなのに、もっといろんな考えがあっていいはずなのに、そして自分で新たな概念を生み出したっていいはずなのに、答えを最初から決めつけてしまう人が多い。そして悲しいことに、それをあっさり信じてしまう人はもっと多い。だって、大人子ども問わずほとんどの日本人は、教えられたことに対して、そして教えてくれる人、にはとても素直で従順なんだから。

 

やっぱり、大人がもっと自由にならなければいけないんだと思う。