Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

居場所の物語 〜 この世界の片隅に・最後の考察

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このコラムだけでなくいろんな媒体で何回も書いているけれど、11月から、映画「この世界の片隅に」に完全にハマってます。

 

 

実はこれまで、すでに8回も観に行ってしまった。自身の人生で、同じ映画をこんなに何回も観に行くなんてもちろん初めて。

12月には、とうとう舞台である広島にも行って来た。物語に出てくる江波や呉を歩き倒し、実際にまだ残っているロケ地を巡って歩いた。

 

このコラムでも2回「この世界の片隅に」を自分なりに考察したけれど、今回は新たに感じた部分を加えました。ネタバレもありありですので、あくまでも自己責任でご覧下さいませ。

すでに映画を観た人ならば「あぁ…っ!」てなってくれるとこ、多いと思うけど…


はてさて、どうじゃろか。

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すずさんは背中で語る。
・子供の頃、中島本町をワクワクしながら歩く背中
・江波山で、水原を見つめる背中
・広島が恋しくなり、段々畑で小さく座る背中
・会いに来てくれた水原を、もう会えないかもと思いながら見送る背中
・周作に助けられ、側溝の中で感情を閉ざし、へたり込む背中

小さく丸まったすずさんの背中を思い出すだけで、もう泣けてしまう。。

 

16歳の時、広島の街でアサリを売りながら、すごく短くなっている青い鉛筆で絵を描いている。あの時、江波山で水原からもらった青い鉛筆。きっと、ずっと大切に使っていたのだろう。

 

「うちは、よう ぼーっとした子じゃぁ言われとって」
子どもの頃、あんなにほんわか、のほほんとしていたすずさんは、周りに流されるまま嫁に行かされ、まだ子どものままでいたいのに、いつの間にか大人にされ、時代の波に揺られ続ける。それでもすずさんは、明るく日常を紡いでいく。

 

「姿が見えなくなれば、言葉は届かん」(すずさん)きっと、水原に自分の想いを言えなかった後悔もあったのだろう。
電車の中で周作に怒るすずさん。頭巾を外してる。これから本音を話すという表れ。
対する周作は、旗色が悪く言い訳もするので、ヘルメットを深くかぶる。

 

戦争によって大切な人やものを失い続けながらも、明るく生きていくすずさん。

しかし自身の「ある部分」を失ってからその感情に変化が表れ、自身のこれまでと、今と…の間で葛藤し、だんだんと心を歪めていく。
家の中に落ちて燃えている焼夷弾を睨んで涙を流し、感情のまま炎に飛びつく。自らの歪んだ心を必死に消そうとしているようで、このシーンを観るのは本当につらい。

 

空襲に遭った時、海から逃げてきたサギを見つけ「ここに来ちゃいかん、あっちへ逃げ!あの山を越えたら広島じゃ!」とサギを追いかける。
サギは水原との思い出の象徴。江波、羽根ペン…
この空襲があった日、軍艦・青葉は米軍の攻撃で海に沈んでいる(これは史実に基づいている)つまりこの日、水原は…

 

子どもの頃、船に揺られてあんなに嬉しそうにふわふわと川に浮かんでいたすずさんが、
大人になり大事なものを失い、この空襲に撃たれる寸前で周作に助けられ、側溝の中に落ち、水の上にへたり込みながら、とうとう心を壊して周作に対しても感情を閉ざす。

同じ水の上。この残酷なコントラスト。この時のすずさんの小さな背中を見て、僕はいつも号泣してしまう。

 

あのサギは、水原が最後にもう一度、すずさんを迎えに来たということだったのでは。それをすずさんも感じとって、引き止める周作に対して強情に「広島に帰る!」と言い張ったのだろうか。

 

径子さんの言葉と、周りの優しさ。自身の中でようやく居場所を取り戻し、北条家に留まる決心をしたすずさん。しかし終戦の日、その感情を爆発させる。
この国は正義だと思っていたのに。そんなものなのだと思っていたことが、だから我慢していたことが…全て飛び去っていく虚しさ。


自分達は暴力に屈していたことを知り、そしてそれは知らないうちに自分もその暴力に加担していたのと同じことなのだと悟り、今度もまた、他国の暴力に屈するのかと。

「何も考えんと、ぼーっとしたままのうちで死にたかったなぁ…」と、号泣するすずさん。

 

終戦の夜、とっておいた白米を炊いてみんなで食べる時、径子さんだけは食べようとしない。晴美ちゃんのことを思ってたんだろう。

 

原爆の後、お母ちゃんを探しに行った妹すみちゃんとお父ちゃん。そこでいわゆる「入市被曝」をしてしまい、お父ちゃんは死に、妹のすみちゃんは病に伏してしまう。
すみちゃんを見舞いに行った時、一緒に寝転びながら天井を眺め、子供の頃を思い出し、お兄ちゃんの南洋冒険記を楽しそうに想像して話す。この時のすずさんは、子供の頃の話し方に戻ってる。
きっとすみちゃんと一緒にいる時は、子供の頃に戻れる時間だったんだろう。

この2人のシーンは劇中に何度か登場するけれど、どこもすごく好き。すみちゃんが病気から回復して、その後すずさんと一緒に幸せな人生を歩んでいてほしい、と心から願わずにはいられないのだ。

 

原爆で母を失い、5ヶ月もたった一人で街を放浪していた孤児・ヨーコ(映画では名前は出ないが、ノベライズ本ではヨーコと記されてる)
ヨーコのお母さんは、原爆でガラスの破片がたくさん刺さり右手を失っていた。

広島駅でたまたま周作とすずさんに出くわし、すずさんが落とした海苔巻き(江波巻き)を拾う。お腹が空いて食べたくて仕方ないはずなのに、すずさんに自身の母を投影して、その海苔巻きを返そうとするヨーコ。このシーンで泣かない人はいないだろう。
「えぇよ、食べんさい」と優しく言うすずさんの声、この時のすずさんの話し方は、すっかりお母さんのようになってる。

 

周作におぶられながら、ずっとすずさんの右腕を離さないヨーコ。

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これは「居場所」の物語

・嫁入りの日「よろしくね、すずさん」とお母さんに優しく言われた時の、嬉しそうな顔。
・風呂に入ってる時の、すずさんの幸せそうな顔。それで僕らはホッとする。
・おつかい(街に行くこと)が好きだったすずさん。これも居場所。
・径子さんが料理を全てやってしまって居場所を見出せず、塞ぎ込んでいるすずさん。
・自分が料理をやれる時の、張り切るすずさん。
・「わしは必ず帰って来るけぇの、すずさんのとこへ」と周作さんに言われた時の、嬉しそうなすずさんの顔。周作さんの居場所になれた、と思えたんじゃないだろうか。

・死んでいった人達の居場所に自分がなる、と決めたすずさん。
「うちはずっと、笑顔の入れ物なんです」
・孤児を見つけてあげて、その子の居場所をつくってあげたすずさん

 

幸せとは…この世界の片隅にでも、ほんの少しでも居場所があることなんだ。

居場所がないから人は悲しみ
居場所がないのだと絶望して人は死ぬ。
居場所を見つけて喜び、居場所があるから安堵し、居場所があるから希望を持つ。

 

人の居場所を作ってあげる人になる。自らが、人の居場所になってあげられる人になりたい。この作品を観て、心からそう思えるようになった。

 

居場所って人間の本質。幸せそのものなんだろう。だからこそこの映画は何とも説明しがたい感動を得られ、万感の想いを抱かせてくれるのではないか。

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この映画は、リピーターがとても多いという。僕もすでに8回観に行た。たぶんこれからも行く。
きっとすずさんの気持ちを理解してあげたくて、何回も観に行ってしまうのだろう。

 

すずさん、あなたの人生は幸せなんだよって言ってあげたくて、僕らが理解者になってあげたい、そんな衝動に駆られて、何回もすずさんに会いに行ってしまう。

そう、これは観に行くのではなく、会いに行く作品なんだ。

 

まだ観ていない方。いや、まだすずさんに会いに行ってない方は、ぜひ、本当にぜひ。
一度、すずさん会いに行ってみて下さい。

 

この世界の片隅に聖地巡礼編 へ続く。

 

 

 

 

『少し前』のワクワク感

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その日最後に聴いた音楽が、ずっと頭の中を巡っていることがよくある。
知らぬ間に鼻歌になってたり、口笛吹いてたり。

調べてみたら、こんな記事を見つけた。

wired.jp

記事によると【 INMI(Involuntary Musical Imagery)無意識的音楽イメージ 】という科学的な名前もあるらしい。初めて知った。

無意識的に、その日聴いた音楽をイメージしてしまう…
ならば音楽じゃなくても、試合前とか、練習の最後とか、、その日最後にコーチに言われた言葉って、無意識に頭の中に残ってしまうんじゃないだろうか、ってふと思った。
言葉だけじゃなく、その時のコーチの表情とかも。

それがもしネガティヴな言葉や表情だったら、たまんないよね。試合前なら尚更のこと。その言葉が試合中もずっと頭の中をループしたりして。それで良いプレーなんか出来るわけないよなぁ。

言葉だけじゃなく、表情や、姿、立ち振る舞いも。
マイチェアーにどかっと座ってるコーチを見て「頑張ろう」とは決して思えないだろうし。

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話は変わるけど、僕は映画館に映画を観にいくのがとても好き。

映画館のロビーに入った瞬間、外の世界とは雰囲気が変わるあの感じが大好き。ポップコーンの匂いも。
映画だけでなく、何かが始まるのを『待つ』時間が好きなんだと思う。
映画館、飛行機に乗る前、新幹線のホーム、Liveが始まる前、照明が落ちて真っ暗になり、Liveが始まる瞬間も。

このワクワク感。
これらに共通するのは、これから『非日常の世界に行く』ということ。
非日常へ連れてってくれる、少し前の時間や場所。

だから普段の練習でも、選手達にはそんなワクワク感を持って練習に来てほしい。今日は何が起こるんだろう、っていう。
そのワクワク感は僕らが創り出さなきゃいけないんだけど、こうやって書いてる自分が、まだまだ全然そこに辿り着いていない。優れた演出家、そしてイベントプロデューサーになっていくために、もっと自身の感性磨かなきゃと、強く思う。

ということで、これからもやっぱり映画たくさん観に行こう…

 

少しは考えましょう

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僕はサッカーコーチです。だからいつもサッカーのことを考えてる。

でもその反面、サッカーのことだけを考えてるわけには、決していかない。

どういう指導をすべきとか、戦術とか、技術とか…を考えることはもちろん大事だけど、
でも指導者としてという以前に、子ども達のそばにいる大人として子ども達のことを本気で想うならば、彼らが将来大人になった時にどんな社会になっているのか、どういう社会にしていくべきなのかを、僕らはもっと日常から真剣に本気で考えるべきだと思う。

政治や社会問題に関心がない指導者は、間違いなく指導者失格だと思う。
今回はそんなコラムです。

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【 日本すげぇ!の恥ずかしさ 】

最近やたらと見かけるのが、何でもすぐに「国籍で価値観を図る」人。

「これだから韓国は、中国は…」などと汚い言葉を吐き、その言葉の裏には「日本の方が優れている」という虚栄心が隠れてる。隠すどころか、それを恥ずかしげもなくそのまま口にする人も、最近は多くなっているけどね。

大ヒット映画『 君の名は。』を観て、僕がその感想をFacebookに投稿した時のこと。その投稿に対して「やっぱり日本人は凄い!」ってコメントをして来た人がいた。
映画を観てそういう発想が真っ先に来る貧相な感覚と、そして嬉しそうに人のSNSに土足でコメントしてくる無礼な感覚にガッカリ。愚かすぎる。作品を冒涜してるよ。

あくまでも作品が素晴らしいのだし、新海誠監督のチームが素晴らしかったわけで。素晴らしい作品への評価や感想を、なぜ「国」という価値観でしか表せないんだろうか。指導者そして教育者でもあるのにその程度の発想の狭さかよ、可哀想だなと思って「国籍は関係ないと思いますけど」と返信したら、その後は返事なかった。
まぁ、そんな程度なんだろう。


先日、ある事情で日本に来て働いてる中国人の青年に会った。彼、めちゃめちゃ真面目に日本語勉強してましたよ。

彼「こっちが、ミギ?…こっちはシダリ…?」
僕「うぅん、ヒ・ダ・リ」
彼「おぉ、ヒダリ…!」なんて。

まだ日本に来てひと月しか経ってないそうなのに、つかえながらでも、片言の日本語でたくさん話しかけてくれた。1時間程度しか一緒にいなかったけれど、僕は彼のファンになった。
日本人だからとか、中国人だからとかじゃない。人間同士として、男同士として、彼のファンになっただけのことだ。

最近はコンビニなどでも韓国や中国をはじめ東南アジアからの留学生がたくさんバイトしてる。彼ら彼女ら、一生懸命働いてるでしょ?レジで彼らに当たった時、応対が少しぎこちなかったとしても、普通許せるでしょ。少しの時間ロスしたって、全然待てるよね。

あんなに真面目に一生懸命働いてる彼ら彼女らを目の前にしたとしても、普段から他国をヘイトしたり嘲笑したりしてる「日本だけが大好き」な人達(SNSなどにそういう投稿してる指導者や教員の人、結構いるよねぇ)が、レジの前で「チっ」って舌打ちし、イラついて彼らに突っかかる人がいるという。そういう行為や思考自体が、自分の価値を貶めていることに早く気づけるといいね。

 

 

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今年の3月まで、僕は都立国際高校という高校のサッカー部で11年間、コーチをしていた。
この学校は帰国子女がとても多い学校で、韓国、北朝鮮、中国、アメリカ、その他…何カ国もの国籍の生徒達がいる。隣の席には普通に外国籍の子が座ってる。
心の狭い大人が口を出す隙なんて、1ミクロンもない。

この学校の3年前の卒業式に、乙武洋匡氏が来賓として来た。その時に乙武さんが話してくれた言葉が、とても印象的だった。
「この舞台の上に、卒業生の皆さんの国の国旗が並べられてるけど、決して日の丸がドーンと真ん中にないのがいい。あくまでも、数ある国旗の中の一つとして、さりげなく並べられてるのが、素晴らしいですね」と。

そういうことですよね。僕らは国という価値観の中で縛られて生きてるわけではなくて、あくまでも人間同士として生きてるんだから。

この学校では良いこともそうでないこともたくさんあったけれど、でも、僕はこの学校の生徒達をずっと見てきて、大切なことをたくさん学んだ。

しかし。
社会にはまだまだ、卑屈で卑怯な大人が腐るほどいる。

安倍晋三自民党を支持し(別にそれは自由だからいいけど)
でも…
それらが繰り出す愚行も差別も何でも盲目的に全て擁護し、原発は賛成、放射能被害なんて一切ないと反対派を罵倒し嘲笑し、南京大虐殺慰安婦問題もなかったことにして、あれは侵略ではない、日本は悪くない、いいこともたくさんしたんだと歴史を捻じ曲げ、他国を差別し、罵詈雑言を浴びせ、沖縄の人達の歴史も気持ちも踏み躙る。そんな自称「愛国者」達を、僕はとても軽蔑してる。

 

そういう人達って、つまり『寄らば大樹の陰』『虎の威を借る狐』ってことなんだと思う。

彼らは虚栄心だけは強いんだけど、それを自分で証明できない。だから国、権威、権力といった【虎の威】を借りなければ、自らの虚栄心どころか自尊心すら保てない。

だから常に強い側、権力側にいたい、勝ち馬に乗っていたいという言動になり、反対側にいる者達を嘲笑し、冷笑し、罵倒するという発想や言動になるんだろうなと、僕の中では勝手に結論づけてます。哀れで可哀想な人達なんだなって。

でも最後に権力側に利用されるのは、結局はこういう人達なんだよね。それは歴史が証明してる。歴史から学べない愚かさに、早く気づけるといいね。

 

仲間いなけりゃドキドキ

仲間探せばニコニコ

急に強気でオラオラ

BOØWY / London Game)

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ところで沖縄の高江で繰り広げられている、米軍のヘリパッド建設反対運動。これ、なぜほとんど報道されないの?
そしてここでも彼らは安倍様、アメリカ様と尻を振る。抗議している反対派を、中国の手先だと罵倒しながら。そうまでして強い側にい続けたいんだねと、やっぱり可哀想になってくる。

そんな中で起こった、大阪府警から派遣された機動隊員による「土人」発言。
案の定、それを擁護するネトウヨ達。反対派の言動が酷かったから仕方ない、という彼らの理屈。
公権力を要する権力側の警官と市民を同列に扱って論じてる時点でナンセンスだし、相当に頭が悪い。逮捕もできる力を持つ公権力側が、目の前の市民に向かって公然と差別用語を吐いてぶつけたという事実の重大さは、もっと語られていいと思うけどな。

 

しかし…それを思いきり擁護する、大阪府知事。この上司にしてあの部下あり。 

 

そしてそれをまた擁護する、沖縄担当大臣。

www.huffingtonpost.jp

 

そしてそんな大臣をも擁護する、安倍政権。
鶴保大臣「土人は差別ではない」発言「謝罪必要なし」を閣議決定

さすが安倍政権。つまり政権として差別発言を容認したと同じこと。そしてその首領である安倍総理は、これまで差別的発言を繰り返してきたドナルド・トランプがアメリカ大統領選に当選したらすぐに、外国首脳として一番初めに真っ先に会いに行った。まだオバマ氏が任期中だからそれは控えてくれとオバマ政権側から要望されたにもかかわらず、次期大統領に簡単に尻尾を振って会いに行く尻軽さ、浅はかさ、オバマ現大統領への無礼さ。
トランプ氏に、自分と同じ匂いでも感じたのだろうか。

matome.naver.jp

各国の首脳はまだほとんどトランプに会っていない。当然だろう。オバマ「現」大統領に失礼だ。そしてこれまで差別発言を繰り返してきたトランプと笑顔で握手をすることがどういうことか、世界にどう発信されてどういう印象を与えるかを、安倍とそれを支持する者達だけが、まるで分かっていない。世界中の笑い者だということに、早く気づけるといいね。

bylines.news.yahoo.co.jp

自身の出身大学の現役学生や教授から「恥」呼ばわりされるほどに軽薄な現・総理大臣。
そんな総理のもと、先日、南スーダン自衛隊が派遣された。派遣の日の映像見たけど、これいつの時代の映像だよ、って一瞬目を疑った。妻や子どもが泣いて別れを惜しむ「出征」そのものだったじゃないか。

toyokeizai.net

きっと南スーダン自衛隊員が犠牲になった時、安倍晋三はここぞとばかりに憲法改正の声を上げるのだろう。そんな卑屈な手に国民が騙されるとしたら、もう日本もおしまいだよ。
政権の犬と化した今の地上波メディアを信じ切ってしまう人がまだまだ多いから、その心配は尽きないけれど。みんな、早く気づいてください。

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最後に、作家の村上春樹氏がイスラエルの要人の前でメンチを切って披露した有名な「壁と卵」のスピーチ全文を、ここに載っけておきます。

 

【 常に弱者の側に 】『村上春樹「壁と卵」スピーチ全文』

kakiokosi.com

 

ずっと、どんな時でも。卵の側でいられる大人でありたい。

サッカーは自由なスポーツだということを理解していない指導者は、指導者失格だ。

常に壁の側に立ち、誰かを差別し、虎の威を借る狐のような人物が、指導者を名乗っている。教員を名乗っている。そんな指導者が自由なサッカーの楽しさを伝えられるわけがないし、それ以前にサッカーを教えてはいけないし、そんな教員が、子どもに関わってはいけないと思う。

しかしとても残念なことだけれど、僕はそういう人を何人も知っている。遠くにも、近くにも。
本人はその自覚すらないのだろうし、正しいと思い込んでいるのだろう。歴史から学ぶことを思い出してほしいけれど、その歴史すら、なかったことにしたいような人達だからなぁ。
痛い目に遭ってから気づくことに、ならなければいいね。

そんな人達と僕ら側とでは、この先も一生、平行線が続くのかもしれない。それも仕方ない。

もっと残念なのは、そういう人達がいるということや、社会全般のことに対して、まるで関心を示さない「無関心なサッカーバカ」の指導者が、とても多いということだ。

どんな社会にして子ども達に託し引き渡すのかは、今の大人である僕らの責任。
「サッカー以外の難しいことはよく分からないから、そういうのは政治家や役所任せで僕は知りませーん」なんて、もう通用しないんだよ。

 

幸せとは、この世界の片隅でほんの少しの居場所を見つけること

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前回のコラムで『この世界の片隅に』がどれだけ素晴らしい作品か、を書きました。

 

neutralfootball.hatenablog.com

 

同じ映画館に、すでに3回も観に行ってしまった。

年内には必ず広島に行こうと思ってる。それほど、この作品の素晴らしさとすずさんの愛おしさに、完全に心を奪われてしまった。

あまりにも素晴らしすぎて、それをどう上手に表現すればいいのか、その術が未だになかなか見つからない。なので人に薦める時には「とにかく観て!本当に良いから!」などと、陳腐な勧め文句になってしまっている自分が情けなくなってきてしまうのけれど…


だから今回のコラムでも、感じたままを、ほとんど自分の独り言のように並べただけになってしまってます。
なのでこれを読んだ皆さんはそのぶん想像をたくさん膨らませて、そしてぜひ映画館に足を運んで、この素晴らしくて美しくて愛おしい作品に会いに行ってほしいと思うのです。

konosekai.jp

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冒頭に流れる主題歌『 悲しくてやりきれない 』

この映画に出てくる登場人物のほとんどが、この曲の歌詞にあるような「悲しくてやりきれない」気持ちを表に出さず、明るく普通に生きている。
この曲を主題歌にしたのは、表に出さない(出せない)その悲しみを、代弁してあげるためなんじゃないか。僕はそう推測しているのだけれど。


すずさんの口癖「ありゃー」「弱ったねぇ」「困ったねぇ」

何か困ったことがあって、観ているこっちが心配してしまうところを、すずさんが苦笑いしながらほんわかつぶやく「ありゃー」「弱ったねぇ」「困ったねぇ」で、僕らがほんわか安心してしまう。
きっと周りの人達をも、すずさんはこの言葉でいつも安心させていたのだろう。
でも本当は…
悲しくてやりきれなかった、のかも。そのやりきれない心情が伝ってくるからこそ、僕らはすずさんにこれほど感情移入してしまうのだと思う。


幼い頃、すずさんと周作はどこで出会っていたのか。僕は最後に「あぁっ…!」とようやく気づいた。勘の鋭い人は、もっと前に気づいていたのだろうけど。
3回目を観て、ようやくもっと前に分かった。キャラメルの匂い…


子供の頃、おばあちゃんの家で寝転び天井を見ながら呟いた
「色々あるが、子供でいるのも悪くはない」
しかし
子供のままでいたかったすずさんなのに、流されるまま、いつの間にか大人にさせられてしまった。
そして大人になったすずさんは、戦争によって、大切な人やものをたくさん失う。
何を失くしたのかを具体的に書いてしまうとネタバレになってしまうから書かないけれど、それでもすずさんは、この世界の片隅で、毎日を普通に生きていこうとする。
「悲しくてやりきれない」気持ちを、表に出さずに。

 

物語の最後のほう、病に伏す妹・すみを見舞い、すみの横に寝転び一緒に天井を眺めながら、死んだ兄を思い返すシーン。子供の頃、おばあちゃんの家で一緒に寝転んだあの時に戻ったかのよう。このシーン、喋り方も子供の頃に戻ってる。すみといる時は、子供に戻れる時間だったのだろう。個人的には、ここが一番せつなくてつらかった。

兄にも、そのお嫁さんにも、最後に会える(よく観てればわかる)
この部分はファンタジーだけど、きっとすずさんには見えた。そう思うと、何だか嬉しい。

 


このNHKの特集でもわかるように、ディテールな描写にこだわり抜いた片渕監督の執念、作品に対する愛、そして、きっとすずさんみたいな人が多くいたであろう、あの時代を生きていた人達への敬意が、見事に描かれている。

だからこそ「感動した」というより、今はただ、ただただ愛おしい。すずさんだけでなく、登場人物全てが本当に愛おしく思えて仕方ないのだ。

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まな板をバイオリンに見立て、楽しそうに料理をするすずさん。食糧難の中でも、工夫しながら毎日を少しでも楽しく「普通に」生きていこうとしているけなげさと、強さ。
本当に愛おしい。

僕の今の待ち受けはこれ。だから毎日がとっても平和に過ごせている。何か困ったことやムカつくことがあっても、ひと息ついて「弱ったねぇ」と口ずさめば、たいてい解決してしまうものだ。
この画像だけでなくとも、すずさんの画像を見るたび、いや、思い出すたびに「すずさんロス」状態に陥ってしまう。すぐにでもまた観に行きたい。今すぐにでも、すずさんに会いに行きたい。


そう、また観に行きたいというよりも「また会いに行きたい」と、心から思わせる作品なんです。

 

哲が最後に言い残していった言葉
「すず、お前だけは、この世界でまともでおってくれ。普通でおってくれ」

傷心のすずが広島の実家に帰る日の朝、義姉も優しくすずに言う。
「すずさんの居場所はここでもいいし、自分で決めたらえぇ」

 

例え世界の片隅でも「あなたの居場所はここでいいんだよ」って言ってくれる人がいること。何もなくていい、何かができなくてもいい。この世界の片隅で、人間らしさを失わず生きていること。普通でもいいから、とにかく生きていくこと。人と人の間で。

その尊さを、この作品は強烈に教えてくれる。それが幸せということなのだろうし、人間らしさそのものなのだということなのだろう。僕は、そう感じている。

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日本の映画史にずっと語り継がれていく、不朽の名作になりうる作品だと思います。
まだ観ていない方は、絶対に観に行ったほうがいいです。

matome.naver.jp

 

【 こっから先はややネタバレ。まだ観ていない人は、もうPC閉じてください 】
↓↓

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哲はすずのことが好きだった。すずの代わりに集めたコクバの上に、花を乗せて渡した哲。

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周作との結婚について悩む時、哲と過ごしたあの海に来るすず。

 

作品内では、いくつもの【対比】【デジャブ】が描かれている。
・あの時、コクバのカゴをすずの頭に乗っけて渡した哲。
・哲が北条家に泊まりに来た時、灰皿を哲の頭に乗っけて、照れ隠しに怒ったすず。

・幼い頃、兄弟3人で一緒に寝転びながら、天井を指差した右手。
・すみと一緒に、お兄ちゃんを思い出しながら寝転び天井を指す、今はもうない右手。

・幼い頃、突然現れたリンに新しいスイカと着物を用意してあげた、すずの優しさ。
・死んだ母とすずを重ね合わせ、拾った海苔巻きをすずにあげようとする孤児の優しさ。
本当は自分が食べたくて仕方ないはずなのに。

 

・右手を失くして亡くなった孤児の母。
・すずの右手をずっと離さない、孤児。

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この世界の片隅に

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映画『この世界の片隅に』を観てきました。

 

konosekai.jp

 

木曜日、雪で練習が中止になり、急に時間ができた。ずっと気になっていたけれど時間がなくてなかなか観にいけてなかったこの映画を観に行こう、とすぐに決めた。

胸がいっぱいになった。なかなか席から立てなくて、家に帰る前に本屋行って原作(漫画)を買って一気に読んで、そして翌日、練習前にまた改めて2回目を観に行ってきた。

映画 → 原作 → 映画
このサイクルで映画を2回見ると、同じ映画なのにまた違う見方ができ、違う感動を味わい、新たな発見が必ずある。


君の名は。』でもそうだった。

 

neutralfootball.hatenablog.com

 

さて『 この世界の片隅に

自分が今まで観てきた中でNo.1の映画は『Life is beautiful』だったけど、でも『この世界の片隅に』が、それを塗り替ました。それくらい、この映画は素晴らしいです。


僕のそばの席で見ていた初老の男性も、ハンカチ片手にズルズル泣いていた。

 

いろんな人に観て欲しいのでネタバレ的なことはここでは書かないけれど

この世界で普通に生きていくこと、自分の居場所があること、あなたはここにいていいんだよ、って言ってくれる人がいることこそが幸せそのものなんだということを、悲しみの中でも明るく気丈に、そして普通に生きようとする「すずさん」が教えてくれる。

 

笑えるシーンもたくさんあるし、戦時中の話だからって重苦しく考えないで、是非皆さん気軽に観に行って欲しい。戦争映画のようで、戦争映画ではないし。

 

気軽に観に行って、気軽には帰って来れないことは間違いないけど…

本当に、胸に沁みます。

 

僕と関わりのある全ての人達に、本気で薦めたくなる至極の作品です。

そして主人公・すずさんの声を演じた能年玲奈さん(あえてこう呼ぶ)が、とにかくいい。すずさんそのもの。やっぱり彼女は天才だった。

そんな彼女から本名を奪い、活躍する場所を奪い、圧力をかけこの映画のことをTVでは全スルーさせている芸能界の汚い大人達にギャフンと言わせるためにも、そして彼女がこの映画をきっかけにまたスポットライトを浴びれるように。頼むからみんな観に行って!

 

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「金なら俺が出す。だからお願い、観に行ってくれ」
って言って周りに薦めてる人が多いらしい(笑)この気持ち、ものすごくわかる。僕も本当にそう思う。

ホントに金なら出すからさ、だからこの映画だけは、本当に絶対観に行ってほしい。

 

冒頭、小銭を握りしめて、お兄ちゃんと妹に何をお土産で買って帰ろうか…って嬉しそうに想像してるすずさんの姿がもう、本当に愛おしくて。

始まって数分で、この主人公が悲しい思いをするストーリーじゃありませんように、と心から願った。それくらい、すずさんにあっという間に感情移入できた。

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映画を思い出すだけで、今すぐ、すずさんを抱きしめたい気分になってしまう。この気持ち、観た人なら絶対わかってくれると思う。
胸がいっぱいになること、必ず保証します。

 

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この幸せそうな顏。普通の日常の尊さ。あぁ、既にすずロス状態。

 

とにかく

これくらいでしかこの作品の良さを表現できない自分の語彙力のなさを恨むしかないけれど…

これだけは言える。ずっとずっと大切にしたい、素晴らしい作品に出会えて今はとても幸せな気持ちになっています。

 

youtu.be

 

舞台となった広島の地で、3回目を観たい。作品に登場した実際の風景や建物がいくつも残っているらしいし。もちろん、原爆ドームも。

そして広島には、とても会いたい人がいるし。

 

次回のコラムではネタバレも含みながら、この作品を自分なりに少しだけ考察してみたいと思います。

 

無意識を超えるプレーが最強

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たぶんこの人も、ほとんどのプレーを覚えてなかったんだと思う。

 

「練習とは、意識すれば出来ることを、無意識でも出来るようにしていくこと」なんて、よく言われる。僕もこれ言うし。実際その通りでしょう。

意識しても出来ないことが、そのうち意識すれば出来るようになり、意識しなければ出来ないことを、意識しなくても出来るように。

僕は、さらにその上があると思ってます。
『そのプレーをやったかどうかすら、覚えてない状態』
この領域が、たぶん最強だと思う。

 

実は土曜の夜に都立国際女子サッカー部でコーチしていた頃の教え子に会って、飲みながらたっぷり話す機会があった。彼女は今、大学3年生。
彼女が現役当時に書いていたサッカーノートの話になって、彼女が言ってたのは
「私、ゲーム中のプレーなんて、終わった後はいつもほとんど覚えてなかったんですよね。だからサッカーノートで振り返れと言われても、それが出来ない 笑」って。

あぁ…彼女にそう言われるまで、こんなとてもシンプルなことに今までまるで気づいていなかった。

確かに、僕はいつも自分でも選手達にそう言ってる。
「試合中にとっさに無意識で出来るようになれば、それは本当に身についた技術ってことだかんな」って。

 

【 よくありがちな会話 】

「お前さっきのプレー凄かったな!あれ、狙ってやった?」
「いや、狙ってない」もしくは「覚えてない」

選手がそう答えた時に
「なーんだ、偶然かよ。まぐれか」となるのか、それとも
「おぉ、覚えてないってことは無意識で身体が勝手に動いたってことだから、それ、本当に技術が身についたことよ。スゲーな!」となるのか。

もちろん、僕は後者。無意識で出来たってことは、普段の練習で妄想を重ねながらやっていたことの積み重ねであり、頭で考えるより身体が先に勝手に動くということは、頭だけでなく身体がわかっている、ということだから。本当の習得。
10月の試合でも、そういうことがあった。

We can be adlibler:U-12・VIVAIO戦 〜 ふたつの無意識プレー

 

つまり僕に話してくれた彼女は、いつもそういう領域でプレーしていたということ。実際、当時はそんな会話いっぱいしてたしなぁ。

そして彼女はもちろん、僕が今まで教えた選手の中で断トツにスーパーなファンタジスタだったわけです。

 

【久保田コラム】全国大会で優勝するほどの才能を持っているのに、サッカーの楽しさを見失っていた女の子のはなし | FootballEDGE

 

そんな選手に「サッカーノート書いてプレーを振り返れ」って言っても無理だよ、って話ですよね。だってそういう選手は、頭で考えて決める前の、0.2秒の自由意志の中でプレーしているのだから。

 

wired.jp

あのプレーはこうだった、あぁだった、だからこうすればよかった…なんて書けるってことは、まだまだ頭だけでプレーしてる状態ということ。頭でっかち、と言ってもいいかも。頭でっかちな選手にしちゃいかん。そう思います。

 

頭でっかちな指導者が多いからそういう選手が多く育ってしまうわけで、だから僕はせめて、頭でっかちにならないようにしたい。
彼女の話が、また大切なことを思わせてくれた。やっぱり選手に教わることのほうが、圧倒的に多いのだ。そして僕はやっぱり、あいつには一生頭が上がらない。