昨今話題の塚本幼稚園、あの園で行われている愛国教育は、偏狂的といってもいい。
あそこまでいくと、もはや教育ではなく、洗脳だ。
サッカーの育成年代でも「ひとつのstyle」を押し付け、それこそが唯一の正解かのように指導しているチームをよく見かけるが、それも、僕から言わせれば塚本幼稚園の偏狂的な愛国洗脳と同じである。
教育とは
「違いを認める多様性、海へ出て行く冒険心、弱者の側に立つ優しさ」
「人と人の中で生き、その中でも埋没せず、自分の力で生きていく強さ」
これらのベースをつくることだと思う。
そして
信じる心と疑う心を持ち、取捨選択の力を養うこと
理解と納得の違い、事実と真実の違いを知ること。
サッカーの育成年代での指導も、根本は同じ。これらのスタンスを持ちながら、目の前の選手達が「大切なもの」を自ら感じ取るように導いていくべきだ。
そのためには、常にフラットでいたい。フラットでいるからこそ何にも縛られず、見えないものが見えてくる。
ピッチ上での原理原則は不変。
【 受ける、離す、奪う、拾う 】この中に、ほぼ全てが含まれる。
ここから逆算して、ベース(自分なりの捉え方、考え方、体現する術)を身につけていき、どんな世界(チーム、指導者)に飛び込んでも自分を失くさず、なおかつ孤立せず、
人と人の間でプレーが出来るために
そのチームや指導者なりの方法で、選手達と協同探求していくことが必要だろう。
繰り返すが
これが正解!これが全て!これがうちの拘り!と、指導者の趣好でひとつのstyleを押し付けるのは、塚本幼稚園の偏狂な愛国教育と全く同じなのである。
指導者自身が、もっと自由にならないといけない。
何にも縛られず、フラットで、ニュートラルで在り続けること。それでいて初めて、
サッカーをより深く、幅広く捉えることが出来る。
これこそ、大切なものを選手達に自ら感じ取ってもらうためには不可欠な、
指導者の在り方なのだと思う。