Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

スポーツは教育の取引材料じゃない

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前からずっと思っていたことだけれど、サッカーを(スポーツを)教育の取引材料にする人が多すぎる。

勉強の成績が下がったからサッカーやらせない
何か悪さをしたらサッカー行かせない、部活停止
家での生活態度が悪いからサッカーを取り上げる


家で起きたことは家で解決すればいいし、勉強の成績が下がったのなら先生や親の責任。
ご自分の教育の失敗、拙さ、その補完ツールとして、サッカーを使われる。
サッカーを、子どもとの取引材料に使う大人。学校の先生も、親も。


サッカーに行く時間を削ったって、勉強やらない。
部活に行けなくなったって、そしたらなおさら遊ぶよ。


サッカーを取り上げられたくないなら勉強しっかりやれ、品行方正に生活しろ
これは動機付けとして間違ってる。


これを続けていくと
お父さんに怒られたくないから仕方なく勉強する、先生に睨まれたくないから真面目を演じる、サッカーを取り上げられたくないから勉強する、お父さんの言うことを聞く、その他…


これは悪名高きキラーワード【外発的動機】そのもの。
何か目に見える対価がないと頑張れず、評価されたい、叱られたくない、罰を受けたくない、好きなサッカーを取り上げられたくないから勉強をやる、言うことを聞く…


ご自分の子どもを、ご自分の生徒を、そうさせたいのだろうか。


勉強は勉強、サッカーはサッカー。二兎を追う者は一兎をも得ずと言うけれど、それは二兎を追う勇気のなく、その時間のコーディネートや自分のデザインをできなかった者の言い訳だし、子どもを操作し管理したい、自分もそうだったんだからと思い込んでいる大人の常套句だ。


二兎を追うものだけにしか、二兎を得るチャンスはない。


もし勉強の成績が下がったり、生活態度(これ自体も変な言葉だけど)が悪くなったのだとしたら、そこでサッカーを取り上げるのではなく(だって関係ないもん)
「お前、今日のサッカーを誰よりもしっかりやって来い。話はそれからだ」
と言うべきじゃないか。


ましてやサッカーはチームスポーツなので、そこにはチームメイトがいるからね。
決して親にはわからない、選手同士、選手⇆コーチだけの世界がある。
そこに立ち入る資格は、親には一切ない。


もちろん学校の先生も
部活を自分の教育の拙さを補完する道具に使うのは、もう本当にやめてほしい。


この辺のスポーツの捉え方を整理しないと、日本にスポーツが文化として根付くのは難しいと思います。

 

 

ドリ練をする理由、ドリ練の意味

うちのクラブでは、いわゆる「ドリ練」多くやります。相手つけずに。


「スペインではそんなドリブル練習もリフティング練習もしませんよ」という、通称・スペイン帰りの指導者の方の声を、よーく聞きます。


「ハイそうですね、でも僕は日本人で、そのスペインにいつか勝ちたいと思ってるのでスペイン人がやらないならラッキー、なおさらドリ練やろうと思います」といつでも答える用意はできてるんだけど、実際に自分はまだ面と向かって言われたことがないからいつか言われたい…w

 

まぁそれは置いといて…

無駄に論争をしても仕方ないので、ここで、僕が考えるドリ練の意味を書いてみたいと思います。


メッシのようなドリブルをさせたい!とか

ネイマールのような華麗な技をさせたい!とか

どうせそんなことを考えてドリ練させてるんだろという浅はかな誤解は、解いておきたい。

 

ドリ練をする意味、を書く上で前提になるのが、

『サッカーにおけるプレーは、一つ一つの切り張りではなく、全てセットで考えよう』というフェーズ。ここから、順を追って書いていきますね。


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【 セット ① ~ 攻撃と守備の同時進行 】


サッカーは、相手よりもスコアで上回れば勝てるスポーツ。ならば、目的はふたつ。

・相手よりも多くゴールを奪うこと

・失点を一点でも少なくすること

この両方を セットで考えるべき で、攻撃的、守備的 とサッカースタイルを分けること自体がナンセンス。


守備をしやすい攻撃 と、攻撃に移りやすい守備。

攻撃中に守備のことを考え、守備してる間に、攻撃に移る準備をしておく。

 

《 攻撃中に、守備の準備しちゃお 》


・奪われ方はこっちが決める。どういう形になると奪われやすいか、相手よりも味方のほうが知っている。だから、奪われる想定の陣形を先にとっておく。

・奪われることを想定していればすぐに奪い返せる。さらにチャンスが深まる。

・すぐに奪い返せる距離までサポートが来るまでは、仕掛けない。攻めない。


「もう奪われてもOK!むしろ奪われてほしい 笑」(奪い返して逆襲する気満々)

「今はまだ奪われないで!準備できてないしー」

これにより、ファーストタッチの質、ボールの持ち方、ボールの動かし方、が変わってくる

 

《 守備中に、攻撃の準備しちゃお 》


・相手ボールを奪いに行く際は、ふたりで行く。そこで奪えば、そのふたりのコンビで攻撃を始められる。だからそのコンビは、相性の良いふたりを組ませる。


・奪ってもすぐ奪われるのが一番嫌な形。なのでこちらで一番巧い選手(もしくはコンビ)が、相手からボールを奪えるような形をつくる。そうすれば、すぐには奪い返されない。

その一番巧い選手(コンビ)のところで奪えるように、相手ボールを誘導する。


もちろん、そんなにうまくいくことも多くないので、奪ってすぐに奪われない、巧い選手を多く育てることが、一番の守備強化なのだけれど。

守備を強化するために、巧い選手を育てるんです。


・守備のため(すぐ奪い返されないため)に、奪った後のボールの持ち出し方を練習する。これは、ドリ練の大きな目的の一つ。3タッチ以内にトップスピードに乗る。


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【 セット ② ~ ドリブルとパスも、全てセット 】


ゲームにおいて起こること … 受ける、拾う、奪う、離す

「持つ」という項目はない。「持つ」は、あくまでも「離す」までの手段。


「奪われる」のも「離す」の一つ。受けたり、拾ったり、奪ったりした後の持ち方がヘタだから奪われる。そして「無駄に持つ」から狙われやすくなり、奪われる。

 

「持つ」(ドリブル、フェイント)は何のためか … 次のパス(離す)のため。


① 一人目を抜いた後は、二人目が必ずカバーに来る。その二人目が本来いた場所にボールを入れてチャンスを広げる、ためのドリブル


② フェイントやボールのズラしで、相手の足のすぐ横をパスを通してく。日本がUAEのオマルにやられまくったやつ。


③ センスとはタイミング。今、この瞬間しかない、というタイミングでジャストなパスを通すのが、技術でありセンス。その意味で、メッシは世界最高のパサー。

その「最高のパスを出したい瞬間」に、相手よりも必ず先に触れる場所にボールがある(自分がいる)こと。それを可能にするボディーバランスも含め、これが ドリ練の最大の目的。


上記の①~③とも、ドリとパスが全てセット。

 

ドリとパスがセットということは … 「持つ、離す、受ける」これらも全てセットであり、これらのどれか一つでも、疎かにすることはできない。全て同じ価値を持つ、大切な「技術」である。持つことを武器にしたいのなら「離す、受ける」も同じくらいの密度と量で練習すべき。


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【 セット ③ ~ 先取りジャンケン 】


例. 1 )

タッチライン際で相手を抜いた後、その抜かれた相手は必ず内側を通って奪い返しに来る。

それなのに、そのタイミングでインサイドを使って内側に切り返してその相手に引っ掛けてしまうとか、Jレベルでもよく見られる。


そこを通って来ることは、予想や想定や経験則を遥かに超えた、人間の行動心理学や物理学のレベル。間違いなくわかっているはずなのに、それに対してミスるなよ、と。


例. 2  )

エリア内でシュートモーションをすれば、相手は必ず足を広げて防ぎに来る。

日本人はその相手を見てシュートをやめてしまうが、外国人選手は、躊躇なくシュートを打つ。打とうとすれば相手は必ず足を広げ、その足の間が空く、ということをセットで考えているから。日本人では、大迫もこれが出来る。


例. 3 )

ドリブルの回でも記述したが、相手を一人抜けば、二人目が必ずカバーに来る。

「それ、分かってるし」と心で舌を出し、ノールックでそこにパスを入れていけばいい。

それは受ける側も一緒。味方が一人目を抜いたら、二人目がいる場所を攻略して受けにいけばいい。目と目が合わなくても、声をかけなくても、そこにパスは出て来る。


他にもいろいろ …

「こうすればどういうことが起きる」「間違いなく相手はこうしてくる」という事象の例を、チーム内、選手同士で考えて挙げてみるのも楽しいのでは。

上述したが、人間の行動心理学をもとに考えると、いろいろ出てくるはずです。


「そばに味方がいると、どちらも自分からは何もしない」とか

「人間は反射の生き物」とかとか…

 

そういった局面の捉え方をチームで共有していれば、無駄なアイコンタクトも声も要らなくなるし、相手よりも早くプレーが出来る。


サッカーでは「後出しジャンケン」ができれば最強、とよく言うけれど、本当に最強なのは、相手が何を出すか、最初からわかってること。つまり局面をセットで考えれば、

「先取りジャンケン」が出来る。


後出しジャンケン

・相手の動きを見て、プレーを決める → 起きたことに対して反応している

プレーが遅くなる


先取りジャンケン

・相手の動きが、最初からわかっていてプレーする → 起こることがわかってる

プレーが早くなる

 

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【 セット ④ ~ 局面もセットで考える 】


今、自分がボールを持って相手と対峙している局面だとしましょう。この時

・目は、目の前の相手を見ず

・頭も、目の前の相手に縛られない

この状態でいたい。


自分が相手と対峙している時、同時進行で起きていること(味方が起こしていること)が分かってる、頭で見えてる、心で繋がっている。これこそがチームプレー。


実際、この時に味方が同時進行で起こしておくべきのもの

・受ける動き(一人目、二人目、スイッチ、ミラーパス、スルーパス

・守備の先取り~拾う準備、奪い返す準備


これらを味方が起こしてくれているんだ、という認識を必ず「セット」で持ちながら、相手と対峙することが大切。


受ける動きに対しては … 

「ジャストなタイミングでのパス」はもちろんのこと、

「それをフェイクにしてのドリ」そして「相手が一瞬パスを忘れた時のパス」


守備の先取りに関しては … 

「奪われて良い時かそうでない時か」により、持ち方、持ち出し方、パスの質を決める。


今、自分が置かれている状況 と、これから起き得る状況

これを必ずセットで考えること。

でもでも

ボールを持ちながら考えるのって大変。ボールを持ちながら味方の動きを認知するのはもっと大変。


だ、か、ら、こ、そ!

ボールなんか見ないでも、ボールがある場所が分かり、相手よりも先に触れるようにしておかないといけない。だからドリ練をするし、ボールタッチの練習をする。

 

以上です。

つまり質の高いドリ練を徹底していけば、そのうち「タッチ数の少ないサッカー」を自然とするようになります。ヘイ!とかいうパスを呼ぶ声も皆無になる。


僕が考える『ドリ練をする理由、ドリ練をする意味』でした。

 

 

 

指導・練習という言葉を捨てる。日本を変える

youtu.be

4〜6歳の彼ら彼女らが自分達で集まって、チームを分けて、ボール4個出して始まったゲーム。

自由、カオス、遊び、戦い、自治。自分の意思で、タイミングを見計らって水分補給をしに行く6歳。

手前ミソだけど、幼少期の育成に警鐘と提案を投げかける動画だと思います。

任せれば、必ずできる。

 

指導という名の自己満、指導という名の管理、指導という名の操作。

指導者という響きに勘違いを起こす、いけない大人。

指導という言葉から、そろそろ脱却しなければいけないと本気で思います。

特に、今の日本では。

もちろん自分も、もう「指導者です」なんて名乗らない。

 

この園児クラスでは「練習」という言葉を使いません。練習するよー、じゃなく「サッカーするよ」って言ってる。

「サッカー = 練習」という暗示をかけたくない。植え付けたくない。サッカーはサッカーだ。それ以上でもそれ以下でもない。

何かを概念づけて香ばしいトレーニングをするのは、もっと先で充分だよ。

 

コーチの笛や集合!という声で集まるのがサッカー、と思ってほしくない。

自然に集まりゃいいし、集まった子だけでやればいい。

スポーツは本来、遊びのはず。

一体いつから、スポーツ = 教育、鍛錬、訓練の道具になったんだ。いつから、サッカーは大人の自己満足のための道具になったんだ。僕らは子どもの頃、そんなサッカーを好きになった覚えはない。

 

でも今の日本では、ほぼそんな感じになっちゃってる。

 

園児だけでなく、小学生も中学生も、これから徐々に「練習」という言葉をなくしていきたい。集合の概念も消していく。

指導するつもりなど、もうサラサラない。あの子らと一緒に、サッカーをする。

そうしてサッカーをしていくことで、結果的に、あの子たちが魅力的な大人になっていくための手助けになればいい。

人と人の間で生きていく上で大切なことはほぼ、サッカーで伝えられるし身につけられる。

 

サッカーという魅力的な遊びを共有しながら、遊び心が満載で、正義感を持ち、人に優しく、多様性を受け入れ、違いを違いと思わない、そして常にリベラルであり続ける

そんな魅力的な大人を、一人でも多く社会に送り出したい。

 

横浜のはずれにある小さな街クラブから、日本を変えていく。それくらいの覚悟が、僕にはある。

 

思うと想うの違い

「思う」と「想う」の違い


《思う》
思の字の上部分にある『田』は、人間の脳を表すらしい。
脳、つまり自分で思うこと。自分の思い、自分はこうしたい、こう考える、という意味での
「思う」


対して
《想う》
この上部分にあるのは『相』という字。
言わずもがな… 自分ではなく、まず「相手」のことを想うこと。


自分のことよりも、まず相手の心を想う、相手の幸せを想う
自分よりも矢印が相手に向かっているのが
「想う」


つまり本当の友情や愛情は「思」ではなく「想う」なのだと、昔この漢字を発明した人は、そう語っている。漢字ってうまくできてるよね、ほんと。


自分ひとりで完結するのが「思い」で、
自分よりも相手のことを大事にする思いこそが「想い」ということなのだろう。


誰かにプレゼントをあげたくて、それを選んでる時間ってすごく楽しいじゃないですか。
楽しくて、幸せな時間。
「この服、あの子に似合うかなぁ」とか
「喜んでくれるかなぁ」とか
「渡したらどんな顔してくれるかなぁ」とか


純粋にその相手のことをただ「想っている」時間だから、きっと幸せに感じるんだと思う。


好き、大好き、付き合いたい、キスしたい!やりたい!
これは自分の片思いで欲求で願望だけだから、単なる思い。


付き合えなくても、例え自分のことを好きになってくれなくても、一緒にいれなくても
もしあの人が幸せでいてくれるなら、それだけで嬉しい。
これが本当の「想い」だろうし、究極の愛情。


もちろん恋愛対象だけでなく、家族や親友に対しても、同じように想えるのだろう。


こんな話を、サッカー部の外部コーチとして関わっている学校で、中学生と高校生に真剣に話をしてしまった。あー恥ずかしい。


ピッチ上では「思う」より「想う」こと


味方のことを想う。自分のパスが通ればいいのではなくて、そのパスを受けた味方が次のプレーを成功できるようなジャストなタイミングを見計らって最良の質で渡してあげるのが良いパスであり、それには、味方の状況や頭の中を覗ける、想像できることが必須になる。


つまり『想える』こと。それをボールに乗せて表現できる選手が、きっと良い選手ということなのだと思う。


そしてその状況を創り出せるようにあえてドリブルを使うとか、オフザボールの時にスペースメイクのために走ったりするのも、想うプレーのひとつだろう。もちろん他にもたくさんある。
総じてそれらこそが本当の意味での技術であり、インテリジェンスであり、巧いと言い換えてあげればいいんじゃないかと、最新の自分の中では結論がつき始めてるとこです。


「思い」と「想い」の違いを選手達が感じ取ってくれたらそれだけで頭の中が変わるし、目を向ける先も時間も変わってくるし、心の持ちようも変わる。
つまり、プレーが変わる。

それまで「思う」ことだけを優先してきたけれど、少しずつ「想い」の意味を知りそれを体現しようとする過程の中で、少年は少しずつ大人になっていく。

その文脈を皆で共有してそれをそれぞれなりに表現して合わしていく『行間サッカー』を、選手達が体現し始めていく。今、ロボスのジュニアユースがまさにそんな感じになってる。
(行間サッカーについては、後日たっぷり)


想いを馳せる、想いを寄せる、ただ、想う。届かないとしても。
そんな存在がいる毎日は幸せだ。

最近、特にそう思えるようになった。遅ぇー

 

戦術を語る前に、を書いて

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先月に書いた『戦術を語る前に』という記事が、結構バズりまして…反論や批判も多くいただきました。もちろん、それ以上の共感の声も沢山もらいました。皆さんありがとうございました。

 

 

ただ残念だったのは、反論や批判のほとんどが

「この人、絶対に全部読んでないやろ」と思えるものだったり

「文脈をちゃんと読んでくれれば、そうは伝わらないはずなんだけどなぁ」というものがほとんどだった。ムキになって食ってかかってくる人も多かった。

 

そこで、近々『戦術を語る前に Part.2』を書きたいと思ってます。

 

なので、まだ未見の方は、お暇な時にでも元記事を読んでみて下さい。久保田の指導スタンスの一端として、感じ取って頂けると思います。

 

今、なおさら思いを強めていることは、以下に尽きます。

「文脈も読めず、行間すら想像できない人が、戦術を子どもに指導するなんて到底無理じゃんか」

 

以上です。

 

奇跡はわりとよく起きる

今夏にTBSで放送されていたドラマ『義母と娘のブルース』を毎週欠かさず観ていたのだけれど、このドラマの重要テーマとしてストーリーの根本に流れていたのが
「奇跡はわりとよく起きる」というフレーズ。実際にセリフにもあった。

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『義母ムス』は小さな奇跡が積み重なっていく物語なのだけれど、ドラマの中だけの話でなく、実際に僕らが過ごす日常にも奇跡はわりとよく起きていて、大切なのはその奇跡に気づけるか、そしてそれを奇跡と思える感性やゆとりを持ち合わせているかなのだろうと思う。


最近、自分に起きた小さな奇跡


自分にとって特別な教え子が、この秋からコーチとしてクラブに帰ってきてくれた。
これは僕にとって、奇跡そのものだった。彼女には、そんなつもりはないのだろうけど。


10月に出席した、ある結婚パーティーの日。急いで駅のエレベーターに乗りこんだら、一緒に乗ったヤンキー風のお兄さんに、じっと見つめられた。
え、因縁つけられるかも…と思った束の間、肩をトントン、とされて
「スーツの襟、めくれてますよ」と優しく教えてくれた。


きっと僕が何かフォーマルな席に行くのであろうこと、時間もなくスーツを急いで着たであろうことも察してくれたんだろうということは、あの場に流れた一瞬の空気感やお兄さんとのアイコンタクトで伝わってきた。うまくは言えないけど、男同士でわかる一瞬の連帯感、なんかわかってくれますよね。
彼が教えてくれなかったら襟がめくれてたことにはきっと気づかず、会場で恥をかいていたかもしれない。
あの後、すごくほっこりした気持ちで電車に乗ることができた。


つい先週末、子ども達のゲームに混ざり足を怪我した。歩くこともできないくらいに激痛で、その後の練習どうしようと思っていたところに、その日来る予定のなかったSコーチ(冒頭に紹介した教え子)がいきなり「どーもー」「ちょっと来てみたー」と現れてくれた。あれには本当にびっくりした。結局そのあとは彼女がゲームに混ざってくれて、練習も問題なく終えることができた。

あれは本当に助かった… まさに小さな奇跡。嬉しい奇跡。

 

その日の夜、足の怪我を診てもらったのが、クラブに所属している選手のお父さん。地元で整骨院を運営されている。今までは試合会場で会うだけで、優しそうな人だなぁという印象しかなかったのだけれど、このお父さんに診てもらい施術してもらった結果、激痛で地面に足をつけるのもできなかったのが、次の日にはもう普通に歩けるようになっていた。原因も見抜かれ、足だけでなく身体の問題も指摘してくれて、これから定期的に診てもらうことになった。

こんな身近に「ゴッドハンド」がいた。奇跡そのもの。


月曜の夜、渋谷で飲んだ帰り
センター街を歩いていたらいきなり声をかけられた。誰かと思ったら、ここ数年まるで会えていなかった、ある教え子だった。
彼から声をかけてきてくれたことが、すごく嬉しくて。
その翌日はクラブ卒業生の集まりがある日で、そこには彼のご両親も来てくれた。


実はこのセンター街での再会の時にもっとすごい奇跡があったのだけれど、それはあまりにもすんごいことだったので、ここには書かないでおくけども
(その場に一緒にいた連れだけが、真相を知っている。本当に書けない)


ここに書いたのは、全てここ1ヶ月の間に起きたこと。たった1ヶ月だけでこんなに小さな奇跡があるのだから、一年の間には、きっともっとたくさんの奇跡に出会えるんだろう。
その奇跡を、見逃さない自分でいたい。

 

奇跡はわりとよく起きる。
そう考えると、毎日が少しだけ楽しくなるし、嬉しくなるよね。

 

と、、この文章を今スタバで書いているのだけども、中央のテーブル席に赤ちゃん連れのお母さんが座っていて、赤ちゃんがいきなり大きな声で泣き出した。自分は赤ちゃんの泣き声とかむしろ最高のBGMだと思うのでいつも全然気にしないんだけど、それまでわりと静かな店内だったので、あーこれ嫌な顔するオッサンとかいるのかな、そういうのよく聞くし…と不安に思っていたら

まず、その赤ちゃんの向かいに座っている大学生カップルの2人が、赤ちゃんに向かって変顔大作戦を始めた!しかもその変顔のクオリティーが高い。思わずこっちが笑っちゃいそうになったじゃないか。

 

なんだよこの美男美女、性格も最高なカップル…逆に嫉妬すら覚えるレベルの完璧さ。

 

そしたら隣に座っている初老のおじさんもお母さんに何か優しく話しかけたり、赤ちゃんをあやしたり。お母さんも安心したように、笑顔で応えてた。次第に、赤ちゃんも泣くのをやめてしまった。

 

こういうのも、日常に溢れる奇跡だよなぁ。きっとあのお母さん、今日一日はとてもハッピーな気分で過ごせるんだと思う。

小さな奇跡は、自分達で作り出せるものでもあるんですよね。

 

 

戦術を語る前に

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この夏、ある試合会場で対戦したチームに「スペイン帰り」という肩書きを持つ指導者の人がいた。その方はツイッター上では知っていたのだけれど、面識はなく。
その方のツイッターを覗くと、その多くの投稿で「スペインでは」という枕詞がついて、つまりスペインの良さを強調すると同時に、日本の育成事情へのダメ出しがニュアンスとして含まれている投稿が多かった。その多くは、戦術について。


この方に限らず、最近はWeb上やSNSなどで戦術に言及する、いわゆる《戦術クラスタ》の方々がとても増えてきている印象がある。


もちろんそれ自体はいいことだと思うし、日本サッカー、特に育成年代での戦術指導、戦略の共有、そこから逆算した技術指導やコーチングなど日本は明らかに遅れているから、その意味で、戦術クラスタの方々が多く現れてきているのは別に悪いことじゃない。
むしろいい傾向だと思います。サッカーを知らない、サッカーを自分の言葉で語れない指導者が、日本にはまだまだ多いし。


ただ、それを自分の趣味だけで楽しむ戦術マニアの人ならばいいけれど、指導者となると話は変わってくる。それを現場の選手達に自分の言葉で伝えられないのならば、それこそ、それは単なる《戦術マニア、戦術オタク》の人、で終わってしまうわけです。


サッカーは机上でやるわけじゃない。戦術だけでも語れない。
机上の論理では片付けられないファジーで抽象的な事象がたくさん出てくるし、いくら戦術を落とし込もうとしても、それを表現するのは生身の人間。育成年代ならば、子ども達。
ましてやJ下部に入るようなエリートの子どもはごくごく一部だけなのであって、それ以外の「その辺の子ども達」と、僕らは付き合うわけです。


選手は一人一人違う。体格も性格も成長スピードも、家庭環境も生い立ちも、その日学校でどう過ごしてどんな悩みを持っているかも、全て違う。当たり前だけど。


目の前にいるのは、作戦ボード上に張り付くマグネットじゃない。
感情を持った、日ごとに心が揺れ動く生身の人間を相手にしているという認識がない人が結構多くなってきてる。そんな肌感覚がある。錯覚ならばいいけれど。


冒頭に挙げたスペイン帰りの方が、まさにそういう感じだった。


その日の試合は8人制。次の試合で対戦する相手の試合を観たその方が、嬉しそうに自チームの選手達を集め、作戦ボードを持って戦術ミーティングを始めた。
興味があったので僕もさりげなくその光景を見ていたのだが


ここでお前①がこう動いて、そしたらお前②はここに下がる、それでお前③がこう動けば相手はこう付いてくるからここにスペースが出来て、そこにお前④が入り込んできたところにボールをつけて、その間にお前⑤が、、


と、一人でずっと、マグネットを動かしながら嬉しそうに喋り続けている。
子ども達は体育座り、そしてただただ


「ぽかーん」


そんな光景だった。


そりゃそうなる。話す内容は多くて言葉も多いけれど、正直、何一つ伝わってない。
目の前にいるのはスペイン人でもなく、プロ選手でも高校生でもなく、J下部のエリート達でもなく、街クラブの小学生。マグネットでもない。


いや、そんなの無理やん
て、大人の僕でも思った。あんないっぺんに言われても、1ミリも理解できないっす、と。


その後、そのチームの試合を観たらやっぱり「戦術」どころではない。そんなゲーム。
もちろん、子ども達は必死にやっていたけれど。


繰り返しになるかもしれないが、サッカーは戦術だけでは語れない。
もちろん技術だけでも語れない。ポジショニングだけでも、フィジカルだけでも、気持ちだけでも。
その全てが合わさって、チームメート同士でうまく落とし所をつけて、合わせて、でもみな同じには表現できなくて、時には気持ちだけで数分持たせたり…だって、ある。


以前、スペイン人の指導者にこう言われたことがある。
「気持ちが原因で勝つ試合なんて無いし、気持ちが原因で負ける試合なんていっぺんたりとも無い」と。


もちろん、それも一理あるでしょう。気持ちが第一!精神論万歳!なんて自分も言いたくないし、間違ってると思うし。


でも、時には気持ちが体を動かす。気持ちがボールを呼ぶ。気持ちがサイクルとなって、最初と最後の一歩が出ることもあるし、届かないと思っていたボールに届く。
そんなことが、サッカーにはたくさんあるじゃないですか。


これは僕の妄想でしかないのですが
ロシアW杯初戦のコロンビア戦、その直前に日本では大阪で大地震があり、悲しいことに死者も出てしまった。そのニュースは、きっとロシアの日本選手達にも届いていたはず。


東日本大地震のこともあり、日本人はどうしても、地震にはセンシティブで特別な感情を持ってしまう。あの大阪での大地震の直後に大一番を迎えた日本代表の選手達にとって、その心と体をもう一歩先へと動かす理由の一端にはなったんじゃないか。
今日だけは負けられない。日本国民に勇気を与えるニュースを届けようじゃないか、って。


あのコロンビア戦、キックオフを迎える日本選手達の表情は今までに見たことのないくらいの高揚感と覚悟が溢れていて、実際、試合の入りは尋常じゃないくらいに最高のものだった。
そして開始早々、あの大迫の抜け出しと香川のロングシュートが生まれ、コロンビアの選手を退場に追いやるという漫画のような展開に繋がった。

もちろん、ハリルホジッチ監督が解任された騒動もあったことから、下手な試合はできない、という責任感と悲壮感も、間違いなくあっただろう。

 

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あの日の日本選手達の心理状態は、コロンビアの分析班にはまるで想定外だったはずだ。

あくまでも、妄想だけど。


サッカーは生身の人間がやるもの。そのことを頭と心でわかっている人が戦術を多く語り、選手達に「戦術、超大事。でも、それと同じくらいに大事なものがある」と伝えられる人じゃないと、戦術指導はしちゃダメなんじゃないかな。


そしてもちろん、目の前にいる選手達の「ニーズ」に合わせてそれをうまく伝えられる人じゃないと、本末転倒だろう。


戦術クラスタを名乗る指導者の皆さん、作戦ボードを持ちマグネットを動かす前に、まずは子ども達の心の中を覗くことから始めませんか。

 

(文中の画像は、全て 文春オンライン から)

 

bunshun.jp