Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

まるで別の映画のよう 〜 君の名は。を観に行ってきた

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今さらだけど、ようやく『君の名は。』を観てきた。

男女が入れ替わる物語 くらいの予備知識だけ。それ以外の設定やあらすじを全く知らない状態で観に行ったので、物語についていくのが精一杯だった。それでも充分胸を打たれる物語だったのだけれど、時系列の細かい変化や設定、情景や背景などを一回だけでは理解しきれず、でも何故かこのままでは終わらせたくない衝動もあって、たまらず、原作本を買って読んでみた。

 

原作を読んで、いろいろなことがようやく理解できた。主人公ふたりの背景、時系列の変化の仕組み、あの時…瀧は、三葉は、こういう想いからあの行動に走ったのか…とか。全て含めて情景を理解することができた。
で、やっぱりたまらず、もう一度改めて映画を観に行った。同じ映画を二度も観に行くのは、中学生の時に観た Back To The Future 以来だ。それだけ、僕はこの物語の世界観に強く惹かれてしまった。

 

 


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上でも書いたけど、映画では表すことができない、瀧や三葉がその時に想っていた心の声や、様々なプロットなどが原作を読むことで理解できていたから「えっと、さっきのシーンは…」などと思い起こして考える必要がない分、そのまま物語がスッと胸に入ってきて、頭ではなく心で観ることが出来たんだと思う。最初に観た時にはそれほど何も感じなかったシーンで泣きそうになってしまったり、実際に涙してしまったり。何だか不思議ですね。

まるで、最初に観に行った映画とは別の映画を観ているようで。観ている最中、そして観終わった後も、胸がいっぱいになった。こんな感情は久しぶりだ。

 

そういえば…1.2年前、ある方の話を聴いて、後でそれを全て文字起こしするという作業をよくしていた時期がある。その時、一回聴いた話なのに、文字起こししてみて初めて気づくことが結構あった。言葉の真意とか、その人が本当に伝えたかったこととか、行間に含まれる、文字にならない言葉とか。

文字起こしをしたあの時によく感じていた「あぁ、これってこういう意味だったんだ」という想像と、感動。そこには自分なりの解釈も含まれるけれど、話を聴くだけでなく、文字に起こしてみて初めてわかることがあり、そのほうがさらに心にスッと入ってくる。

映画を観てから原作を読んで、そしてまた映画を観る。今回それで感じた「まるで初めて観る映画のようだ」っていうこの感覚は、あの『文字起こしで感じていた感覚』に似てるなと思う。

なので

映画→原作→映画。この流れ、すごく良いかも。これからこのパターンで映画を観ようかな。

 

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まだ観ていない人もいるだろうから物語の設定もあらすじも結末もここではもちろん書かないけれど、個人的には、三葉の純粋さとけなげさが、もうたまらなくて。三葉の声を演じた上白石萌音さんの魅力的な声も最高だよね。

たぶん、また観に行ってしまう。いや、絶対に観に行く。次は、一葉お婆ちゃんの言葉の意味をもっと噛みしめながら観てみようかな。結び、組紐、時間…

また違った情景が表れて、新たな感動が心に響いてきそうな気がする。

 

どうやら完全にハマってしまった。そのうち聖地巡礼しそうな自分が怖い 笑

・・・たぶんする。飛騨高山、行ってみたい。糸守湖のモデルと言われる諏訪湖にも行きたい。四谷の須賀神社の階段や信濃町の歩道橋なら、いつでも行けるな…

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前世とか、パラレルワールドとか…僕は結構、信じてる。夢で見たこと、それは実は夢ではなくて、自分が住んでるもう一つの世界、まさにパラレルワールドなんじゃないかとも、かなり真剣に信じてるんです。

ごく少数の人にしか言っていないけれど、子どもの頃、僕は戦時中に空襲で逃げ回っている記憶がずっとあった。東京が大空襲を受けたことなんて勉強で知るずぅっと前の、小さい頃から。今でも、その記憶の断片は少しなら思い出せる。

それだけじゃない。江戸時代に、お侍さんに刀で斬られるんじゃないかってビクビクしながら町を歩いている記憶や

自分が年老いて、なんとなく余命も悟って病院のベッドに一人寂しく横たわってるだけの映像の記憶も、小さい頃からずっとあった。それは決して夢ではなく。

変人と思われるかもしれないが、本当にあった。こういう人って実は結構いるんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。

 

だから何なんだってことではなくて、前世やもう一つの世界の記憶、やっぱりそれは夢だった、でもいいけど

君の名は。』がなぜこんなにヒットしたのか。それはその世界観が決して架空のファンタジーだけではなくて、どこか僕らも「ひょっとしたら違う世界を生きてるんじゃないか」とか「まだ出逢っていない、本当に逢うべき人を探さなくちゃいけないんじゃないか」っていう想いが心の中にあって、それが、多くの人の琴線に触れたんじゃないかって、勝手に妄想したりしてる。

こんなこと真剣に書くと、やっぱりおかしいと思われるかな。単純!とか。

 

ところで…最初に観に行った時、『君の名は。』を観に行ってきたよーってFacebookに書いたら「やっぱり日本人は凄い!」というコメントをくれた方がいました。

この映画を観て「日本人は凄い!」っていう発想になってそれを人のFBに平気でコメントしちゃう感覚が、何とも残念というか。日頃から相当に右寄りな発言をされてる方だし、逆に僕が相当な左側だということも知ってる方からのコメントだったので、なおさら恣意的なものを感じてしまった。

繊細なアニメーションのタッチだとか日本ならではの情景などを観て「日本人は凄い!」ってなったのかもしれないけれど、日本人が凄い!んじゃなくて、新海誠さんのチームが素晴らしかったわけで。この作品が例え中国や韓国の映画だったとしても、僕はもちろん何度も観に行くし。

せっかくの美しい映画を汚された気がして、とても不快に思ってしまった。なぜ純粋に、一つの作品として観れないんだろうか。

「国籍は関係ないと思います」とコメント返したけど、その後は返信なかった。

 

国や国籍や人種に何かの価値を見出だしたり、差別化したり、賞賛したり批判したり、僕はそうはなりたくない。美しい作品を観た後だけに、余計にそう思わされる出来事だった。

とにかく

君の名は。』は素晴らしい作品です。これ以上でもこれ以下でもない。まだ観ていない方、DVD化を待たずに、是非スクリーンで観るのをお勧めします。

 

何!? 君の名は。展 が長野で開かれてるって?…行くしかないじゃないか。

 

 

 

伝え方を考え出したらキリがない。けど、探求は止められない

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表現主義とは、人生というものを具体的な形ではなく雰囲気で映し出すアート・フォームなんだ。これこそ自分の進む道だと思ったね」(デビッド・ボウイ

 

普段の練習で、子ども達にプレーについて何かを伝える時、言葉の使い方にはいつも気を使う。いつも悩んでる。常に試行錯誤の繰り返し。


例えば
「ボール【を】見ろ」ではなく「ボール【も】見ろ」という言葉は、感性豊かな子なら「ボールから目を離せ」という意味でも同時に受け取ってくれる。もちろん、ボールも見えてる(わかってる)状態なうえで。
このギリギリすれすれの感覚で、僕は練習をしていきたい。このニュアンス伝わるかな…


指導者がただただストレートに言葉を発し、選手はそれに従ってプレーするだけでは、良いプレーは決して生み出せないと思う。
プレーに関して何かを伝えようとしてそれをそのままストレートに言葉にすると、まさしくそのままにしか伝わらない。そのまま伝わるならいーじゃんと思われるかもしれないが、こちらの言葉が選手達にそのまま伝わることは、僕は良いことではないと思ってる。


同じその場にいて、お互いの表情、熱、前後の文脈とかその場の雰囲気とか、これまで一緒に紡いできたものとか…それらの要素やニュアンスが全て含まれて、後にも先にもその瞬間にしかない、そしてその場にいる者同士にしかわからない、たったひとつの『言の葉』となる。ペップ風に言えば、そのチームだけの「イデオマ」になる。


しかしたったひとつの言の葉でも、ひとつひとつのプレーは具体的にではなく抽象的に伝えるほうがいい。抽象的でも、肝の部分は伝わる。だから抽象的に伝えれば、共有したい肝の部分はあまりズレずに、そこにいる選手の数の分だけ、その肝をどう表現するかのバリエーションが広がる。このほうが選手側の発想を引き出し広げられると、僕は思ってる。


言われたことをそのまま受け取りそのまま実行する(させられる)ことに慣れている日本人に指導するならば尚更のこと。そんな『ザ・日本人マインド』は、サッカーではぶっ壊さなけりゃならないんだ。
例えば
『見ろ』とは言わない。『見ようとするな。見えてればいい』と言う。
「見る」と「見えてる」この大きな違い、感じて頂けますか?


「ボールを信頼しよう」
ボールを信頼できるのが技術。小学生でも、このニュアンスは感じ取ってくれる。


「見えてればいい」「ボールを信頼しよう」
この言葉の真意が分かったら、練習の場で言ってみて下さい。子ども達のプレーがきっと変わってきます。まずは目線の位置が、大きく変わってくるはず。


そして何より、そんなこちらの想定より遥か上のトンデモない発想をするやつが、必ず出てくる。そんな瞬間がたまにあるから、コーチをやめられないんだけども。


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最近、最も重要視して伝えていることがある。

それは『極力、考えることを省いていく』こと。


考えることが悪いとか、約束事や決まり事をガチガチに決めてプレーを自動化していくとか、そういうことではなくて
『考えることを省いていく』ことの意味は、大まかに言えばふたつ。
ひとつは
『試合の場で考えてる暇はない。そのために、練習の場で妄想を重ねていく』こと。


練習で妄想、試合で閃き。あるサイトで知ったことだが、人間の自由意思は0.2秒だけ存在するらしい。脳で「こうしよう」と命令しそれに基づいた行動が自由意思と思われがちだけれど実はそうではなく、脳で「こうしよう」と決める前に、身体が勝手に動く0.2秒の世界があるらしい。
閃きとは、まさに0.2秒の自由意思の世界なのではないかと。学術的にはそういう意味じゃないのよ久保田くん、と言われるかもしれないけど、まぁ僕は今、勝手にそう解釈してる。


閃きを出すために、練習では妄想を重ねていく。相手をつけないボールタッチの練習の時は、例えば右からはダビド・ルイスが寄せに来てる、左からはチアゴが来てる、ならばこうタッチしてボールを守って、こっちに運んで、その間に味方は逆サイドを必ず走ってくれてる…という具合に、ひたすら妄想しろと。妄想を重ねていきそれに伴ったプレーをしていくことで、試合の場で、相手の影や足音、気配を感じた時にとっさの閃きが出る。…と、僕は今は思ってる。


そして『考えることを極力省いていく』ことのもう一つが、とても重要で。
この最大の意味は
『最初からわかってることに対してはミスらず、必ず上回れ』ということ。これが今、選手達に一番伝えているところ。
ゲームの中で、いちいち見なくても、いちいち考えなくても「相手がこうしてくる、ここにいつ来る」のが【最初からわかってる】瞬間って、実は結構多いんです。
でもこれ、カテゴリー問わず、ほとんどの選手が気づいていない。気づいていないというか、そこに対して平気でミスってる選手が多い。


「最初からわかってる」をもう少し言い換えると
折り込み済み
計算済み
みたいなニュアンス。


例えばタッチライン際で相手を抜いた後、その抜かれた相手はどこを通ってもう一度追っかけてくるかといえば、間違いなく100パー、内側を通ってくるわけです。これはいちいち見なくてもいちいち考えなくても、最初から『折り込み済み』なはず。
それなのに、インサイドで内側に切り返してその相手に引っ掛けちゃうとか、プロの試合でもよく見かける。
見なくても「そろそろ…来.る.よ.ね」の「ね!」の瞬間にアウトでターンしてそいつをいなすとか簡単にさばくとか、それくらいは見ないでヤンなきゃダメだよと。これはもう考えるとか判断のレベルじゃない。折り込み済みなんだからそれを利用して上回るべきこと。


ゴール前でこちらがシュートモーションをすれば、相手は100パー足を出してくる。これも、折り込み済みなこと。万が一出してこなけりゃ、そのまま打てばいいんだし。
100パー足を出してくるんだから、簡単に切り返すこともできる。だって折り込み済みだから(しつこい)
だからシュートモーションから切り返しまでをワンセットでやれる。考える必要も、見る必要もない。


相手を一人抜けば、ほぼ、2人目が最初のスペースを捨ててカバーに来ることも折り込み済み。だから寄せてくる2人目を見なくても頭で考えなくても、ハイやっぱり来たね、の「ね!」のタイミングで、そのカバー役が最初いたスペースにノールックでパスを入れてくとか。
これら全て、考えなくてもわかること。考えなくても出来ること。例に挙げたのはごく一例だけど、他にも『折り込み済み』なシーンはいくらでもある。


ほぼ100パー、相手がここにこのタイミングでこう来る = 最初から折り込み済み


「それに対してはもう、考えてプレーとかじゃないから。見なくても考えなくてもわかってるんだから。ミスっちゃダメなんだぜ」と、その『折り込み済み』を増やし、考えなくてもやれる、考えなくても勝手に上回れる場面を増やすんだと、手を替え品を替え、最近は伝えてる真っ最中なのです。


伝えるって難しいけど、探求し始めると、面白いし奥深いよね。


ところで漢字
折り込み済み…で合ってるんだろか。織り込み済み、かな

乃木坂46とは、生田絵梨花のことである

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勝手に『 乃木坂46の素晴らしさを語り尽くす 』シリーズ

「お前はサッカーのことだけ真面目に書いてればいいんだよ!」というクソ真面目な人にはこのコラムは向いてませんので、ごめんなさい。前回も書いたけれど、ジャンルや先入観だけで垣根を作ってしまうのはもったいないよ。そういうのを全て取っ払って、リミッターも外して、僕は面白おかしく生きていたいのだ。

 

さて 前回は、卒業&芸能界引退 を発表した橋本奈々未の潔さと、その魅力について書きました。

今回は、乃木坂46というグループ全体が持つ、稀有な魅力に焦点を当てます。

自分が乃木坂LOVEということは以前から色々な媒体で公言してるし、もう好き過ぎて、FootballEDGE にも「チームづくりと乃木坂46」として、2回もコラムを書かせてもらったほど。

なぜ、こうまで乃木坂46に惹かれてしまうのか。コラムだけでは書き切れないその魅力を、僕なりに語り尽くしたいと思う。前回と同じく、サッカーのことは一切書きませぬ。

FootballEDGE のコラム内にも書いたけれど

乃木坂46とは、◯◯◯のことである』と評する時、この◯◯◯にメンバーそれぞれの名前を入れるとすると、僕はそのメンバーの数だけ、それぞれ違う見方と文脈で乃木坂46というグループ魅力を語ることができる。それはきっと僕だけではないはず。これが今、乃木坂46の魅力を表すには一番わかりやすい方法のような気がする。

 

つまり乃木坂の魅力はメンバーそれぞれの多様性であり、その多様性が交わり一つのチームとなった時に発する圧倒的な魅力に、僕らファンは虜になってしまう。
一つのチームになる時、その主役は様々。メンバーそれぞれに違う個性と魅力があるので、乃木坂は入れ替わり立ち替わりで主役を替えられる。その都度、他のメンバーがその主役を引き立てるためにうまく脇を固め、また違う色と魅力を発していく。

中でも

僕が乃木坂にハマるきっかけにもなった『いくちゃん』こと生田絵梨花のことだけは、どうしても真っ先に書かなければならぬ。

 

乃木坂46とは、生田絵梨花のことである 』

彼女は乃木坂が誇る天才。ドイツ生まれ、ピアノで東京都代表になるほどの才能の持ち主であり、現在は某音大に通う19歳。もちろんピアノだけでなくその歌唱力は本物で、彼女がピアノの弾き語りで歌った『君の名は希望』は本当に美しく、これは一聴の価値がある。

ちなみにこの『君の名は希望』のサビメロディーが、今春から東京メトロ乃木坂駅の発車ベルにもなっている。これも、彼女がピアノで弾いたもの。通勤や通学で乃木坂駅を利用している人は、彼女のピアノを毎日聴いてることになる。いーなー。

…と

彼女の音楽的才能をあげたらキリがないのだけれど、それ以上に彼女が天才的なのは、その独特な感性と、面白いことを面白いと思わず、真剣にやりきってしまうところ。このセンスがもう… 最高で。大袈裟でもなく、彼女は本物のエンターテイナー。うまく説明できないのだけれど、一度観たら、誰もが彼女にハマると思う。そして毎回毎回、彼女には笑いの神が降りてくる。

例えばこれとか。顔…w
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いくちゃんのことを語り出したら止まらないのでもうこの辺で止めておくけれど(ホントはもっと語りたい)彼女の面白い動画は他にもいっぱいあるので、興味を持った人はご自分でググるYouTube検索を。

とにかく、彼女はもっと『知られるべき』逸材なのだ。

 

こんな天才いくちゃんを筆頭に、他にも多種多様な個性あるメンバーが多数。前回登場させた橋本奈々未、そして西野七瀬白石麻衣齋藤飛鳥堀未央奈生駒里奈高山一実若月佑美、北野日菜子、中元日芽香…まだまだいるけどクドくなるのでやめておこう(ちなみに中元日芽香の妹は、BABYMETALの中元すず香である)

メンバーそれぞれの魅力を一人ずつ語り出したらそれこそ超絶に長い文章となるので、苦渋を飲んで、次に移ります。

 

バナナマンの存在。

乃木坂ファンのほぼ全員が同意してくれると思うのだが、この多様性をうまく交じ合わせるためにどうしても欠かせない存在が、人気お笑いコンビのバナナマン。これは Football EDGE のコラムにもしつこいくらい書いたので、こちらを参照して下さい。

 

【久保田コラム】チームづくりと、乃木坂46 のはなし | FootballEDGE

【久保田コラム】乃木坂46とバナナマンの関係性に見る、育成年代の指導者の理想的なあり方 | FootballEDGE

 

コラム内で繰り返しているように、バナナマンの2人が、乃木坂46メンバー達の個性や魅力を存分に引き出していてるんですよ。乃木坂がここまで人気者になった、最大の立役者。

 

ほんの一例たち

↓↓


 

このようにキャラをつくったりいじったりして面白くしてあげるだけでなく、彼女達への愛情、優しさを惜しげもなく見せることもあるし、時には熱くなることもあった。

 

いかがでしょうか。このように『乃木坂46とは、バナナマンのことである』
と評したとしても、乃木坂46についての説明がほぼ出来る。それくらい、乃木坂とバナナマンの結びつきは深い。
バナナマンがいなかったら、乃木坂がここまで人気者になることはなかったんじゃないかな。これ、ファンの人達はほぼ同意してくれるはず。

 

興味を持った方は『乃木坂工事中』を是非ご覧下さいませ。

次に

バナナマンと並んで、乃木坂を語る上で絶対に欠かせないのが、楽曲とMV(Music Video)のクオリティの高さ。

ニューアルバムに収録された『きっかけ』は、Mr.Childrenの桜井さんがLiveでカバーしたほど。

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そして前述した『君の名は希望』は、彼女達の代表曲とも言える曲で、昨年初出場した紅白歌合戦でも披露された。

これらだけでなく全体的にクオリティーは高いのだけれど、他に強いて挙げるとするならば

『何度目の青空か』『今、話したい誰かがいる』『僕がいる場所』

『失いたくないから』『羽根の記憶』『気づいたら片想い』…

うーん、絞りきれない。

 

MVに関して言えば、乃木坂のMVは「曲そのもののMusic Video」というよりも、その曲の世界観をモチーフにして創られる独立した一つの作品、と言えるもの。これまでも、その作品づくりには新進気鋭の映像作家が名を連ねてきた。

 

新曲『 サヨナラの意味 』

感情の起伏により体に棘が浮き出るという架空の人種『棘人』と、その村に暮らす人間達が、偏見や垣根を越えて次第に心を通わせていくという物語。曲の魅力をさらに膨らませる、美しく壮大な世界観のドラマになっている。

必見。

他にお薦めを少し挙げるとすれば

・彼女達の天真爛漫な魅力を堪能したいのならば『夏のFree&Easy』

・コメディエンヌとしての彼女達を楽しみたいのなら『そんなバカな』

・映画のような世界観に浸りたいのならば『何度目の青空か』
・女優としての彼女達を観たいのならば『月の大きさ』か『立ち直り中』

・完成された映像作品を観たいのならば『無口なライオン』

 

乃木坂46論 | 青弓社

第6回 乃木坂46が紡ぐ「個人PV」という織物 | 青弓社

 

最後に

いつか終わりが来ることへの寂しさ。

今年6月には深川麻衣が卒業し大きな変革期を迎えた。そして前回も書いたように、結成時からグループを支えてきた主力中の主力、橋本奈々未も卒業そして芸能界からも引退するという。


乃木坂46には、今、22〜24歳になる初期からの主要メンバーが数名いる。

今回の『橋本奈々未の卒業』という大きな出来事をきっかけにして、これら初期メンバー達の卒業が、あと1.2年のうちに相次ぐのではないか。もちろんそれは仕方のないことだしその日がいずれ来ることはわかってはいるのだけれど、想像すると、なんだかとても切ない。間違いなくそうなることも、わかっては、いるのだけれど。

 

冒頭で「乃木坂46の魅力を僕なりに語り尽くしてみたい」とか書いたくせに、結局、僕の拙い文章力ではとてもとても書き切れない。あれもこれも…ともっとたくさん書きたくなってしまうのだけれど(もう充分、書き過ぎだろ、と言われるだろうが)思いつくことを全て書こうと思ったらキリがないし誰も読んでくれなくなるので、もう止めておきます。

前回と併せ、このコラムをきっかけに少しでも興味を持った人がもしいてくれたら。その人がそれぞれなりに、彼女達の新しい魅力を見つけてくれればいいと思う。きっとたくさんの見つけられるよ。

 

 

サヨナラの意味

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日本で一番、乃木坂46のことが大好きなサッカーコーチは誰か。はい、僕です。
日本で一番ということは世界で一番。つまり僕よりも乃木坂46のことを大好きで愛しているサッカーコーチは、間違いなくこの世にいないということである。

 

ジャンルを問わず、良いものは良い。自分が何歳だろうが、おじさんだろうが若者であろうが関係ない。アイドルだろうが演歌だろうがRockだろうがjazzだろうがbluesだろうが何だろうが、心の琴線に触れて揺さぶられ、胸に残るものに対しては素直に「良い」と言える感性でいたい。歳を重ねれば重ねるほど、僕はそのハードルがどんどん低くなっている。
どんなジャンルでも、何に対しても 「いいね」「好き」「もっと知りたい」と思えることって、幸せなことだと思う。

というわけで

このコラムは別にサッカーだけのことを書くわけではなく、自分の感性に基づいて社会のことを何でもNeutralに書くと決めているので、今回はサッカーは一切出てきません。悪しからず。

乃木坂46の稀有な魅力と素晴らしさ、なぜここまで惹かれてしまうのかということを、僕なりに掘り下げて書いてみたい。こうしてアウトプットでもしなきゃ、もう好き過ぎて頭がパンクしそうなのだ。

 

好き過ぎるので二回に分けて書くけれど、第一回目の今回は、先日卒業を発表した

橋本奈々未さん 』のこと。

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橋本奈々未。初期からの主力中の主力で、グループの顔とも言える大きな存在の一人。

彼女は乃木坂46を卒業するだけではなく、なんと芸能界も引退するという。

このニュースを聞いた時、やっぱりか…というショックな気持ちと、彼女らしくて潔いな、という気持ちの両方が浮かんだ。他のメンバーとは違う独特な世界観や価値観を持っている人だなというのを、彼女の言動や佇まいから、僕らファンはいつも感じていたから。

 

彼女はいわゆる『アイドル』という器だけには到底収まりきらず、掴みどころのない不思議な魅力がずっとあった。他のメンバーが『動』だとしたら彼女は『静』。常にどこかクールな一面を醸し出し、その美しいルックスはもちろんのこと、頭の回転の速さと頭脳明晰な知的さ。小学生時代には、全国模試で一位を獲ったこともあるらしい。


高校卒業後に上京し奨学金で大学に入り、学費と生活費は全てアルバイト代でまかなっていたという。その頃の生活が苦しくて、毎日おにぎり一つという日が続くことも多かったらしい。

その生活苦から抜け出したくて「芸能人になればロケ弁を毎日食べられると思ったから」という理由で乃木坂46のオーディションを受けたというのは、有名な話。


そして次の目標は「弟の大学の学費を全額納入すること」と公言していた彼女。弟さんの学費だけでなく、お父さんの借金も彼女が完済したという。

その目標を達成しスパッと芸能界を引退する、というのがいかにも彼女らしいというか。それが一番の理由だと彼女が明言したわけではないので、もちろんそれが全てではないかもしれないが、間違いなく、大きな理由の一つではあるんだろう。


乃木坂を卒業してソロ活動したとしても、女優やタレント、モデルとしても間違いなく売れる。でも、そんな用意された道に甘んじずに芸能界自体をスパッと引退して新しい道に進むというこの潔さが、いかにも彼女らしくてカッコ良すぎる。
この異例とも言える決断も、彼女ならばやはり納得してしまう。聞くところによると、秘書の勉強もずっとしていたとか。

 

普通ならば憧れの対象であり、そこでずっと輝いていたい、脚光を浴びていたいと思うであろう『芸能界・有名人』というその場所に、彼女はそれほど価値も重きも置いていなかったんだと思う。冒頭にも書いたけれど、それは彼女が発する言動や佇まいから、何となく感じ取れていた。

きっとこれからやりたいことがいっぱいあるんだろう。もう会えなくなるし顔も姿もきっと見れなくなってしまうのだろうけど、僕らファンは、彼女の勇気と新しい人生を心から応援したいと思う。

そしてこの潔さを、素直に見習いたい。

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精魂尽くして颯爽たり、顧みるときの微笑み 

以前、彼女が新聞の取材で「好きな言葉」として紹介していたこの言葉を、自ら体現したんだね。

 

11月発売の16枚目シングル『サヨナラの意味』は、乃木坂46の過去16枚のシングルの中で屈指の名曲。そしてMusic Videoも、感情の起伏により体に棘が浮き出るという架空の人種『棘人』と、その村に暮らす人間達が、偏見や垣根を越えて次第に心を通わせていくという物語。曲の魅力をさらに膨らませる、美しく壮大な世界観のドラマになっている。

 

この『サヨナラの意味』で、いよいよ彼女が待望の初のセンターを務めることに。卒業まで時間もない。今回のニュースで初めて彼女のことを知ったという人も、これをきっかけに興味を持って見てもらえると、その唯一無二の魅力が伝わるかと思います。

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『 終わることためらって 人は皆立ち止まるけど

僕達は 抱き合ってた腕を離してもっと強くなる 』

 

 

 

 

小さい頃から戦術戦術!小さい頃ならドリドリ!について

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小さい頃から、戦術を教えなければいけない!

小さい頃なら、ドリブルだけやってればいい!

最近、こういう派閥同士の対決が各地で細々と行われているような。

 

僕はどちらでもない。どっちも大事だけど、ぶっちゃけ、どっちもそれほど大事じゃない。全部大事なんだから。

 

拘るのは大事なことだけれど、その拘りは本当に信念と言えるだけのものなのか。誰かの受け売りだけでなく、自分が迷って試行錯誤して苦しんで、子ども達と戦って子ども達から教わった上でようやく辿り着いた本物の言葉として、魂を込めて放てるものなのか。

 

『小さい頃から戦術戦術!小さい頃ならドリドリ!について』

このお題でコラムを書く前に、まず前提として、子ども達への指導に対して

「あくまでもチーム戦術の中で」とか
「こうあるべきなのです」とか

こう「エッヘン!」とばかりに主張する20代や30代の若い指導者の方が、なんだか多い。

お、おぅ、、ごもっともですね、でも…なんだかなぁという微妙な違和感を、最近感じてます。

 

いや、言ってることは確かにほぼ正しいし指導者として自信を持つのは大事だけど、なんだかこう…
誤解を恐れずに言えば、若いうちからそんなに達観しちゃうのはもったいないと思うんですよね。しかも丸い方向に悟っちゃうのが。それだと自分が丸くなるだけじゃなくて、子ども達も一緒に丸くさせちゃうというか。

 

自分自身もっと尖って、子ども達も尖らせて、気が鱗れて、気を鱗れさせて…と、ハチャメチャな若い指導者がもっとたくさんいてもいい。
あいつまだ青いな、何もわかっちゃいねーなと、頭の固い守旧派の年寄りから嘲笑されるくらいのエッジを持ったっていいんじゃないかと。いろんなものに手を出し、触れて、そしていろんな人に会い、たくさん迷って失敗して恥かいて、それで辿り着いた結論ならば説得力もあるけれど。

 

大きなお世話なのは重々承知だけど、若いうちから早くも悟った気になるのはもったいない。まだまだ違う可能性あるのに、早くもご意見番みたいなこと言うなよと。俺なんかこの歳になってもまだまだ迷ってるし尖ってるし、さんざん後ろ指さされとるわ。
(それはそれで問題ありかもだけど 泣)

 

『自分を守るのは何かを残した後だぜ 形にこだわっちゃ古びたものしか見えない』
『やたらと計算するのは 棺桶に近くなってからでも 充分できるさ Life is On My Beat』
BOØWY / ON MY BEAT)

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さて、ここからが本題。
まず【 小さい頃から戦術教えなきゃいけない!信奉に関して 】

 

もちろん、必要なことは教えるべきだと思います。でも教えすぎは絶対にダメだし、むしろ、戦術というよりも『相手、味方、局面』の見方、考え方、捉え方を教えて、頭の中で描ける戦略を増やしてあげることが必要かと。そこに技術を乗っけてくのだよと。

 

でもどうしてももっと教えたい!戦術教えたいんす!というのなら
・日本人の気質や特性を理解してるのか
・あなたが信じてるその戦術や原理原則は、本当に正しいのか
・あなたのマスターベーションではなく、目の前の子ども達に則したものなのか
という大前提の自問自答と試行錯誤が常に必要となる。

 

・海外ではこうだから!と画一的に言う人、それを信じ切ってしまう人
・考えが違う人達とは一生わかりあえない、時間の無駄と言い切ってしまう人
・他の見方や意見を尊重できず『それ以外の良薬』もあることを認められない人

 

これらは典型的な日本人のマインドとも言える(と、僕は思ってる)のだけれど、そのような人達が「これが正しい、こうすべき」と子ども達に『戦術』(と思い込んでるもの)を教えることこそ、本末転倒で悲劇になる可能性が大。どこを切っても同じ、その状況なら必ずそれやるよねという金太郎飴がきっとたくさん生産されるよ。てか、もう大量生産され続けてる。

「ここではこのやり方、ここではこう。でもそれを踏まえて、状況によって自分で他のアイデアを出してもいいよ」と、口ではみんな言う。

「型がないのは型なし。型破りとは違う」
「まず型をつくり、型にハメて、そこから飛び出せる個性こそが型破り」
・・・とか、聞き飽きたわもう。

確かにその通りですよ、でも
その指導者の性根かDNAのレベルで、その《型破り》を許せない人がほとんど。日本人なら特に。そういう人、僕は今までたくさん見てきた。

ハミ出そうとする八重歯の存在を、端正しようとしてしまう。無意識にでも、それが口調や所作、振る舞いに表れる。

そして大人から言われたことに対し「なぜ?」「僕はそうは思わない」「僕はこうした方がいいと思ったからこうしたんだ」と言える日本人の子どもが、さてどれだけいるか。これはもう学校教育の領域にもなるけれど、そんな子ども、まだほとんどいないでしょう。ごく稀に、たまにいるけど。
大人側の意識や教育環境が変わり、そんな子どもの方が圧倒的に数が多くなれば、戦術、ガンガン仕込んで教えるべきだとは思います。

 

でも現実は選手にハミ出されることを許容できない指導者がまだ多く、ある一つの方向性や見方、やり方へと子ども達を押し込んでしまうニュアンスを、自らの声がけや導き方の中に込めてしまう。発問形式のコーチングがいいというけれど、ほとんどの人は誘導尋問してるだけ。資格取得講習会や指導者講習会に行くと、気持ち悪くニヤニヤしながらの誘導尋問が横行してる。

 

全体で同じことをやらせたい、全体で同じ向きを向かせたい、一糸乱れず…
平均的な日本人はこれが大好き。これに縛られていて、逃れられない人が多い。

子どもは、そういうコーチの姿や「在り方」を敏感に察知する才能を持っている。空気を読む天才だかんね。自分の思ったことを自粛して、そのコーチが喜ぶような方法を取ってしまう。
そうさせたらダメなんですよ。僕も自分のそんな弱さといつも戦って、敗れて、の繰り返しだけれど。人のことは言えないかもしれない。

だから
戦術を教えるなら、自由の本当の価値と意味を知るリベラルな人間であり、変人と言われるくらいの人が丁度いい。あのオッちゃんが一番自由だわ、と言われるくらいがいい。

「お前らに、格好の戦術教えたる。でもな、これに背くのも全然アリなんやで」
これを、心の底から本気で言える人。そしてそれを本当に許容できる人、子どもが放つ《型破り》をワクワクしながら見ていられる人こそが、目の前の子ども達に合った戦術を教えるべきなんだと思います。

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そして僕のスタンスはハッキリしてます。こうすべき、という『やり方』以上に、魅力的で、美しくて、カッコ良くて…という『在り方』を子ども達自身が見つけ表現できるように、自分の自由さを見せながら、サッカーの楽しさとともに伝えていきたいんすよね。理想論と言われるかもしれないけれど、理想を持たなければ、そこには一歩も近づけない。

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【 スペインと日本の違い 】

スペインでは育成年代でも週末の試合のためにトレーニングするスタンスがほとんどらしいが、だからといって日本もそうすべきだろうか。それは違うと思う。

 

バルセロナ水戸ホーリーホック、つまりスペインと日本の育成年代両方で指導経験がある村松尚登さんの言葉が、この問題を端的に表している。

「スペインでは、その選手が爆発的に伸びること、つまり《化ける》ことは期待されていないし、それが指導によって出来るとも思われていない。選手の成長は、他の選手やチームとの相互作用によってのみ生まれると思われている」

「しかし日本では、目の前の普通の選手を《化けさせる》ことができると信じて指導している指導者が多いし、実際に化けている選手も多い。そのためのノウハウも日本の方が多い。スペインには、そういった考えはない」

 

これは、日本の指導者の誇れる部分の一つなんじゃないだろか。

スペインと日本の両方で指導をし、両国の子ども達(指導者も)が持つ気質の違いを肌で感じた、村松さんならではの視点だろう。

だからどっちが正解でどっちが間違っているということではないし、わかりあえないということも決してない。海外と日本の良さ、うまくミックスすればいいじゃないですか。それこそ、日本人の得意分野じゃなかったっけ。

 

「サッカーには不向きな気質の日本人の子ども達にサッカーを教えてくということが、どれだけ難しいことか。スペインやオランダの指導者には出来ないことを俺らはやってる。俺らはプロ中のプロなんやで。もっと誇りを持っていい」(岩谷篤人氏)

 

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【 小さい頃ならドリドリだけでいい!信奉に関して 】

 

「小さい頃なら、ドリやボール扱いのテクニックだけでいい!」ってのも違う。

「小さい頃だからこそ、それをまず最優先して教えた方がいい」と言うのならわかるけど、
「それだけでいい」と頑なになるのは、サッカーが持つ自由さとは正反対。指導者の好みの押し付けそのものだ。それこそ、金太郎飴が出来上がる。

 

つい最近、試合の場でこういうことがあった。
ボールを持ったらどんな局面だろうが相手との間合いがどんなだろうが、必ず下を向いてボールをコネコネ。味方も相手も見ないでボールに触り、股抜きとヒールリフトばかり狙ってくる。
残念ながらうちの子達もそういう相手は慣れてるから、1人目で抜かれても2人目で必ず捕まえるんだけど、そしたら露骨に後ろから腕引っ張ってくる。おいおい。

相手なんか関係ない、自分達さえ楽しめればいい、俺達こんなに技術に拘ってるんだぜカッコいいだろ、ウェーイ!ってやつ。僕から言わせたらあんなのドリブルでもないし技術でもないんだけど、まぁ、きっとわからないんだろう。
水たまりがたくさん出来ていたグランド。こちらにボールを奪われたら、水をバシャーンと蹴って水をかけてふざけたり。それ見てる指導者も何も言わない。ウェーイ!を生み出してる張本人だから、それも仕方ないか。

 

そんなチームとの試合、リードして前半を終えて帰ってきたうちの選手達が口を揃えて何と言っていたか。「もうこのチームと試合したくない。ふざけてるよ」と。
もちろんその通りだが、仕方ないから後半はこちらの練習のみに切り替えることにした。ボールのあるところに大量に群がって来る相手だから、奪った後、ボールをどう持ち出すかの練習にしよう、と。本当は、真剣勝負の中でいろんな練習をしたかったのだけれど。

このチームだけが極端なのではなくて、こういうチームが結構増えてる。そして同じ趣向の指導者同士が常に群がる。こういうチームは「技術に特化してる」と評するには値しない。本質を無視した大まかな言葉で、サッカーの本質を捉えていないチームと一緒にするのはやめてほしいものだ。

 

味方も相手も見ないドリブルなんか、ただの自己満で偽物のドリブル。技術のギの字もない偽ドリブラー。このチームと試合することは、もう当分ないだろう。

また、それとは少し毛色の違う話だが、3年前、女子サッカーの名門・東京の十文字中学校でコーチをしていた頃の話。
中2と中1の選手達を連れて、千葉県へと練習試合に出かけた日のこと。相手はドリブルと個人技に特化したスタイルで有名なチームだった。東京の中学年代でそういうスタイルのチームはないからうちの選手達も最初のうちは少し戸惑っていたのだけれど、時間が経つにつれ、だんだんと順応していく。

しばらく何も言わず見ていたら、相手のドリブルに対し、うちの選手達が同じようにドリブルと個人技主体のプレーで、相手に応酬し始めた。
最初はある一人がそれをし始めたんだけど、それが他の子達にも波及して、数分間の間、ドリブルと個人技のやり合いが続いた。みんな、少し意地になっているかのような表情だった。
私達だってやろうと思えばこれくらい出来るし、と言わんばかりに、まるでサッカーを始めた頃のサッカー少女そのものの顔で。

 

数分間の応酬を終え、落ち着きを取り戻したのか、うちの選手達は従来の「速く的確なプレー」に戻り、相手をさらに凌駕していった…という試合だった。
私達だってやろうと思えばあれくらい出来る、でも今は違うことを出来るようになるために、このチームで認められるために、大きくなるために必死に練習してるんだ、という彼女達の見えない意地。彼女達が数分間だけ垣間見せた本能と、でもそれを理性で抑えて相手をさらに超えていったあの姿を見て、彼女達のことがそれまでよりもさらに愛おしく感じた、今でもたまに思い出す、忘れられない試合。

 

あの子達は今、高2と高1になっている。どれだけ成長したか、今度久しぶりに試合を観に行こうと思ってる。

この例で僕が何を言いたいか、感じ取ってもらえる人は多いはずです。

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オマケ
【 フットサルの導入に関して 】

 

Jr年代でフットサルを推奨するのはとてもいいと思う。
しかしこの『サッカーのためにJr年代でフットサルを多く導入する』というファクターだけでも、戦術信仰派閥とテクニック信仰派閥によって、その考え方は分かれてる気がする。

足元の技術だけでフットサルの良さを捉えてしまうと、たぶんサッカーには繋がらない。局面の捉え方から、オフザボールも含めた個人&グループ戦術の使い方へと選手の中で拡がるように指導し、そこに足元の技術を乗っけていけるようにしてこそ、フットサルはとてもいい題材になると思う。

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【 結論。Jr年代の指導に関して、僕の考え方 ① 】

 

週末の試合に勝たせることが目的ではない。

Jr年代の指導者の役目は2つ。
・サッカーをもっと続けたい、と思って卒業させること
・中学や高校でのプレーの基礎となる土台を作ってあげること。

土台って何 〜 土台とは3つ。個人戦術、技術、しなやかな身体。
・サッカーというスポーツの捉え方、局面の捉え方、考え方
・味方の中でプレーすることを知る、攻守両方の個人戦
・それらを可能にする技術、頭と身体のしなやかさ。
これらで充分かと。

 

ちなみに
【 例えば・① 〜 技術とは 】

技術とは護身術。しかし最後は、味方のために使うもの。

ボールの扱い方だけではなく、状況察知(による使い分け)、閃き、ボディーバランスを全て複合したのが技術。これらを高いレベルでリンクさせられるのが巧い選手。

一人では出来ても、二人になると難しいことが多い。でも、そこを磨く。ジャストなタイミングでパスをつなぐことがサッカーの本質の一つでもあるから、そのためにも個人の技術が必要になる。
合わせたいタイミングで動けること。その時、相手よりも必ず先に触れる位置にボールがあること。これが真の技術。

 

相手を抜くためにドリブルをするのではなくて、良いパスをするためにドリブルやボールタッチを磨く。
メッシはドリブラーではなく、世界一のパサー。うちではこれが共通認識。

うちでは、そのために『ドリ練に見える練習』をやっている。でも子ども達の頭の中は、第三者が外から見るのとは全く違う回路で動いてるし、全く違う所を観て、遠くと先を感じながらやっている。
表面だけを見て、それを『マーカーやコーン相手にやってるただのドリブル練習』としか思えない人にはこの練習の意味はなかなかわかってもらえないだろうし、そんな表面的な見方しか出来ない人に『ドリブル教えるのは意味がない』とか、言われたくないってことです。


【 例えば・② 〜 守備への入り方について 】

うちでは《攻守の切り替え》とか言うの禁止。切り替えなんてしてちゃダメ。攻守は一体で、ずっと続いてるもの。
奪われ方はこっちが決める。奪われる場所、奪われる選手、どうなればほぼ奪われる?
これを先に知っておけば、相手よりも先に守備に入りやすくするための攻撃が出来る。

気づいてないようで気づいておく、気づいていないように相手に見せておいてインターセプトするとか、気づいていることを出し手に見せて、そこへのパスを諦めさせるとか。

↑↑
これくらいは、小学生でもガンガン教えてます。これを戦術というのなら、うちはめっちゃ戦術教える派閥に入っちゃうけど。

 

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【 結論。Jr年代の指導に関して、僕の考え方 ② 】

 

僕の理想は明治神宮聖徳太子。めっちゃ日本的やで!

為末大さんが言っていたのだが、明治神宮の様式美は、計算された無作為らしい。一見バラバラな造りの建物ばかりでただの寄せ集めなのだけれど、全体として見ると、あるコンセプトが浮き出て見える。これは東洋ならではのカッコ良さ。

そして
みんなが勝手にやっていながら合う。それが聖徳太子の【和】だという。
対して、みんな同じことをするのは【同】。

君子は【和】をし、小人は【同】をする。
君子は【周(調和)】し、小人は【比(前の人と同じことを)】をする…

和して同せず。僕は《バラバラな個性が和していく》チームづくりを目指したい。

 

決められた統一感や、仕込まれハメられたやり方ではなく、選手それぞれの特徴が交わり活かされた結果、そのチームならでは(そのチームゆえ)のコンセプトが浮き出て見えるように。無理矢理ではなく、あくまで自然にそうなる姿が美しい。そう持っていくのが、指導者の腕の見せどころではないか。

Mr.Childrenの曲『Pieces』の歌詞中にある、この一節を忘れずにいたい
「僕らは一つ。でも、一つ一つ」

 

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【 最後にオマケ。コーチとしての気概 】

 

指導者ならば、勉強はたくさんすべき。でも、きっとほとんどの選手は『僕のコーチは世界一や』って信じてくれてる。

人と同じ本ばかりを読み、人の教えや考えを有り難がって
「こんな本を読んでます!」
「こんなに勉強してます!」
「こんなにすごい人と関わってます!」ってアピールする前に、まず自分でやるべきことがあるはず。自己研鑽は隠れてやらなきゃ。勉強してることをあからさまに誇るのはカッコ悪い。子ども達は、そういう姿もちゃんと見てるよ。見られてないようで、めっちゃ見られてる。

虎の威を借る狐 にならぬよう、自戒を込めて。

 

・・・

とツラツラと偉そうに書いてしまったけれど、結局何が言いたいかというと、この文章の内容だってあくまでも僕の意見やスタンスであり一つの見方でしかないし、僕がこれまで紆余曲折を経て恥ずかしい思いもして修羅場もくぐってようやくこの程度に辿り着いたものでしかないのだから、この文章を読んで「そうだ!その通りだ!俺もそうする!」となびいてしまう人は、戦術なんか絶対に教えちゃダメだよってことです。

 

自分で決められることの大切さ ② 〜 ストイコビッチが教えてくれること

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前回『自分で決められることの大切さ』という記事を書いて、少しばかりの反響をいただきました。 

その記事内にも登場させたストイコビッチの映像を見直してたら、あぁまさにこの人、自分で決めてる よと、改めて驚嘆するわけです。それも高い次元で。

そして思ったのが、自分で決められるということはつまり、身体が 何でもできる状態 にあるということ。

例えばこれ。天皇杯のキックフェイント3連続。

ストイコビッチ 超フェイントゴール 2000/1/1 Dragan Stojković /amazing feint goal

解説の木村和司さん「何でもできる体勢ですよね」
まさに。そして体勢だけでなく 何でもできる心、でもあったんだろう。プレーを決めつけてない。おそらくストイコビッチは、これまでのFootball人生で、強制と矯正をされていない。

 

何にも縛られてない。自由ってこういうことだ。

身体が何でもできるようなニュートラルな状態でいるだけでなく、心 も《何でもできる》ような、ニュートラルでフラットな状態にあるということ。見ての通り、めちゃくちゃ楽しそう!

 

つまり選手にプレーさせる立場の我々指導者としては、ここが一番大事なポイントなんだろうと、ストイコビッチが教えてくれてる。自由に動ける身体づくりと、発想を体現できる技術をつけること、そして何より、心を縛らないこと。

 

ワールドカップという大舞台でスペインDFを手玉に取り尻餅をつかせて奪ったマジカルなゴールも、まさにそれ。

歴史に残るようなスーパーゴールは、身体と心が 何でもできる 自由な状態にあったからこそ生まれたんだ。


1990 World Cup Yugoslavia vs Spain (Dragan Stojkovic)

ゴールは2:20頃〜

 

子ども達の心をガチガチに縛ってしまっている大人が、未だに多い。当然、心を縛られたら身体も固まるのは当たり前。技術を発揮できないし閃きも出てこない。
自分で選ぶ、自分で決められることの大切さをまずは指導者自身がもっともっと自覚しないと。特に日本人の子どもを指導するならば。


心を縛らず自由にさせてあげること。許容し、促すように。
そのためには僕ら大人が、もっと自由になる、自由でいることが大切なんだよな。

 

そしてこの人はやはり、大人になっても現役を終えて監督になってからも、自由な身体と心を持ち続けていた人だった(喜)


横浜F・マリノスvs名古屋グランパス・ストイコビッチ監督ボレーシュート

最高。心も身体も自由な人。少年の心を未だ保ち続けている人。いつかまた、日本に帰ってきてほしい。僕らにもっと、本当のサッカーを教えてほしい。

 

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好きなだけ鮎食べられるよ!早く帰って来てー

 

 

強く望むことが世代を越えていつしか形になるならこの命も無駄じゃない

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『Fútbol & Cafe mf』が9月いっぱいで閉店してしまった。
裏原宿のそのまた奥、原宿とは思えない静かな場所で静かに時間を過ごせるこのmfが僕は大好きだった。とは言いつつそんな頻繁に通ってたわけではないけれど、地方から来たサッカー仲間や「この人とゆっくり話したい」みたいな時は、まずmfを選んで連れて行ったなぁ。

mfの魅力は、店長を務めていた有坂さんが熟成させたもの。店のゆったりした雰囲気、でもラテンの熱い香り。ゆったりと熱さが実に良い感じで混ざり合う、mfでしか味わえない独特な雰囲気を有坂さんが熟成させていったんだろうなと。僕も含め多くの人は「mfにお茶しに行く」というよりも「なんとなく、有坂さんに会いに行きたい」という感覚で店を訪れた人が多かったと思う。

閉店にあたり、その有坂さんのインタビューが Football EDGE に掲載されてます。
こちら → http://www.footballedge.jp/lead/5843

で、mf閉店から5日後の先週水曜日に、渋谷で有坂さんと二人で飲む機会を作ってもらった。今後しばらくの間ご夫婦で中南米を旅する予定とのことなので、その前に、二人でゆっくり話せて本当に良かった。

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色々なことを話した。

サッカーは自由なスポーツだということ、リベラルであり続けたいということ、坂本龍馬のこと、育成のこと、南米のこと、社会とサッカーとの関わりのこと、人のこと

特に…自由でありたい、ということ

 

この日、有坂さんに会う前に「mfお疲れ様でした」の意を込めて何かプレゼントを…と思い、でも何にしようかと迷いに迷って渋谷をブラブラ。閉店に合わせてきっといろんな贈り物を貰ってるだろうし、普通のものではなく少しひねりのあるものにしたいと迷っていたところに、目の中に飛び込んできたのが麒麟の置物。そう、首の長いキリンさん。

あ、これにしよってすぐに決めた。なぜキリンかというと…

Mr.Childrenの『進化論』という曲の一節に、こういう歌詞があるんです。

 

進化論では 首の長い動物は 生存競争の為に そのフォルムを変えてきたという

強く望むことが世代を越えて いつしか形になるなら この命も無駄じゃない

空を飛び 海を渡り 僕らの夢はまた膨らむ

誰も傷つけない 優しい夢を 素敵な夢を 君に引き継げるかな

空を飛び 月を歩き それでも自然に脅かされる

全て受け入れて 見果てぬ夢を 素敵な夢を 君と見ていたい

 

素敵な歌詞ですよね。特にここ

『強く望むことが世代を越えて いつしか形になるならこの命も無駄じゃない』

この部分が、僕は大好き。

 

毎日生きてく中で、僕らは未来に望みを持ってる。それがどういうものかを具体的に説明するのは難しいけれど、自由でありたいという大前提の中で、きっと楽しくなれる、きっと…と、強い望みを持って生きてる。同じように有坂さんも、強く楽しい望みを持ってこれから自由に生きていくんだろうという、同じ匂いをとても感じる人だ。

だから、これから新しい生活を始める有坂さんに贈るにはピッタリだと思って「お互いこれからも強く楽しく望んで生きていこうぜよ!」という意を込めて、キリンをあげました。気に入ってもらえたかなぁ。どうか、トイレにでも置いてやって下さいませ。

 


Mr.Children「進化論」from Stadium Tour 2015 未完

 

生きてる間に形になるかは分からないけれど、それを強く望むことでいつしか形になるなら、今を精一杯、自由に生きることは決して無駄じゃない。有坂さん、今後もよろしゅう頼みます。

 

「どんな時でも望みはある。望みがワシを生かしてくれちゅう」(坂本龍馬