Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

8人制なんかやめてしまえ ②

Part ① はこちら

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Part ②

【 退場処分の場合でも、選手補充してオッケー!の問題 】

8人制の試合の場合、自チームの選手がレッドカードで退場になったとしても、その代わりの選手の補充が、ほとんどの地域で認められている。

何だそれ。おかしいっしょ。

アンケートによると、埼玉県では、補充は認められていないそうです。神奈川県の某市でも、反対意見が根強いため、2016年度からは廃止になったそうだ。

けどやっぱり、ほとんどの地域では補充OKが当たり前らしい。普通に考えれば、それじゃぁ退場になった意味ないじゃん!と僕自身は思うのだけれど、アンケート結果を見ると、そう思わない人も案外多い。

その主な理由は、大きく分けて以下の3点。
「子どもにペナルティーを与える必要はない」
「8人制は必ず8人でやるべき。一人少ない場合、負担も大きい」
「子どもの試合でレッドカードはまず出ないから、あまり問題とは思わない」

これに対して
「退場になった選手にもチームメイトにも、退場になるとどうなるのか?をわかってもらう、その方が必要。負担を言うなら7人で交替をしながら指導者が頭を使うべき」
「子どもを単に子ども扱いしないで、一人のジョカトーレとして見てあげるべき」
「ファールをしても構わないと受け取る指導者が出てきてしまう恐れもあり、選手自身もファールしても構わないという誤認識が生まれてくるかもしれない」
という反対意見も多数。アンケートの割合だけで言えば、肯定否定、ほぼ半々でした。

僕のスタンスは明快です。こんなのおかしいよ。退場しても選手の補充OKなルールなんて、全国で即廃止にすべき。

《ある地域のルール》
① 補充OK。補充選手がいないチームは、その時点で不戦敗扱いとなり、フレンドリーマッチになる

おいおいなんだよそれ!理不尽で不公平すぎるぞ。
例えば双方が喧嘩をして両成敗のような形で両者にレッドカードが出された場合、片方のチームは控え選手がいるので補充OK、しかしもう一方のチームは8人ジャストで試合に臨んでいたので補充選手がいない、だから不戦敗。
何じゃこりゃ。明らかにおかしいじゃないですか。これを公式戦の公式ルールにしてる地域があるというのが、ちょっと信じられない。

② 補充OK。その代わり相手チームにPKが与えられる
エリア外でもPK…オーマイガッ!もはやサッカーではない

「子どもの試合でレッドカードなどほとんど出ないし、この制度をわざと悪用する人なんていない」という意見も多いようだ。確かに、子どもの試合でレッドカードは稀の稀。でも、あることはある。そしてここ大事なんだけど、相手選手を倒しておいて「OKOK!仕方ない」とか「謝っとけ」とか言う指導者がまだまだ多い以上、僕はそう簡単に「そんな人いないよ」という性善説には立てない。だって「謝っとけ」「とけ」ですよ。

過去の話だけど、うちの選手が怪我させられるほどのタックルをしておいて、笑いながら「いーよいーよ!」って言ってる指導者もいた。僕その場で怒鳴り込んだけど。「笑ってんじゃねーよ、怪我したらどうすんだよ!選手生命終わるかもしれないやろ!」と。

こういう時はなぜか関西弁になるのはどうしてだろう。
まぁそれは置いといて、そういう「激しいプレーの裏返しなんだからファールも仕方ない」とか笑って言うような輩がいる限り、そこに付け入ることができるルールを残しておく意味が、僕には全くわからない。

アンケートにもあったように、確かに8人制で一人少なくなったら相当に負担は大きいしハンデにもなるけど、選手達にとっては「退場」の意味を肌で痛感し理解することが出来る機会になるし、指導者にとっても、一人少ない試合をどう切り抜けるかなんて、最高に面白いじゃんか。腕の見せ所だよ。

 

【 8人制、現場の声 】

「人数が少なくても大会に出場出来る」
「人数が少なくスペースがあるので、色々な把握がしやすくなっている」
「失敗・成功がよりダイレクトにチャンス・ピンチへと結びつくため、1人1人に責任感が芽生える」
というような、8人制の好影響を述べる声も多かった。

そして先ほど「そんなにプレー機会増えてないっしょ」というようなことを書いたけど、もちろん「ボールに触れる回数、プレー機会が増えた」という声も多数あったことは、ここに書いておきます。

しかしその反面、悪影響を述べる声の方が、今回のアンケートに関して言えばやっぱり多かった。
「低学年からの8人制によって、攻守が分断される。後方の選手達がリスクを恐れて攻撃に参加しなくなる傾向がある」
「ハッキリいって《フィジカル至上》に感じる。成長度の違いがハッキリしているジュニア年代に、68㍍×50㍍は広すぎ。大人ピッチの半分という設定は安易」
「一人一人の距離感が広いのでやりたい事がやり易いと思えるが、その反面、身体能力の差がはっきり出るので、劣ると思われる選手の育成が難しい」

「成長に合わせた人数とピッチのサイズを再考して欲しい。海外は2年刻み。日本の6・3・3制に於いて、6の最終と3の最初に繋がりが薄くなるのが残念。
6年生では105㍍×68㍍正規ピッチに正規ゴールにて11人制にて行い、次のジュニアユース年代への繋ぎとするのが理想」

「ミスを極端に恐れてしまう傾向もある。1つのミスが失点に結びついてしまうし、また1つのミスマッチから組織が崩れてしまうことが多く、力の劣っている選手を使いづらいのが正直なところ。勝敗にこだわるなというけれど、選手が1番こだわるし、自分のせいで負けたと気にしてしまう」

これを続けていくとどうなるか?

「ハードワークができるオールラウンダーは生まれやすいが、面白い選手や一芸に秀でた選手は生まれにくくなるのではないか。
小学生という一番アイデアが豊富で柔軟性もありいろいろな可能性を秘めている年代でミスをしないことを一番に求められたら、魅力ある選手は出にくい」

この意見に尽きるでしょう。

 

【 球技は奇数でやるもの 】

ほとんどの公式戦が8人制になり、そのために練習試合も8人制でやる。練習試合の相手を探すマッチングサイトなどでも「市大会を控えてるので8人制でお願いします」ばかり。

コレコレこういう理由で8人制が子どものためになる、という確固たるものがあるのならばそれでもいいと思うけれど、公式戦が8人制だからという理由だけでただ盲目的に練習試合で8人制ばかりやっているのでは、指導者としては少し悲しい。神奈川県では1月に11人制の県大会があるので、12月頃から急に、11人制の練習試合希望が増える。神奈川県の皆さん、そんな急に8人制から11人制に繋ぐことできたんですか?あれだけ8人制!8人制!って言ってたのに〜

ちなみにうちは9人制をコンスタントにやりながら、特に高学年は、11人制へのイメージを常に持たせるようにしてる。僕の中では球技は奇数でやるものという前提があるので、7人制か9人制がいい。中でも9人制の方が、子ども達の頭と感覚の中で11人制へ繋げるイメージが、より分かりやすく描けると思う。
話せば長くなるので書かないけれど簡単に言えば、11人と同じ奇数なので、一人二役をイメージするだけで即、11人制をハッキリと浮かび上がらせることができる。だからスムーズに移行できる。奇数という意味では7人でもいいんだけど、7人だとちと人数が少ない。その意味では8人制でのデメリットをより被ってしまう。なので9人。今やってる8人制のサイズでは明らかに広いので、一人増やすことでより適正サイズに近づくし。

ところで、球技は奇数でやるものという前提…
サッカーは11人、フットサルは5人、野球は9人、バスケは5人、ラグビーは15人(7人制も)。
もちろんバレーボールやアイスホッケー(6人)などの例外もあるけれど、上記のように、ほとんどの球技は奇数で行うものばかり。これ、どうしてでしょうか?自分なりの仮説を立てて考えるのも面白いよね。

こういう意見も。
「サッカーはフィールドの10人でプレーするとすれば偶数での関係での学びが必要なので、8人ではなく7人あるいは9人制が望ましい」

なるほど。そこに付け加えるとするならば、GKを含めればやはりサッカーは奇数で、そうするとプレーする時にどこか一つが余る。その「余り」をどう捉えてどう使えるかが、大事なのではないか。
左右対称で考えた時に、奇数だとどちら側にも属さない「1」が生まれる。この「1」の存在が、どんなスポーツでもゲームをつくっていく上での重要なワンピースになる。1の捉え方、どこで1をつくるかとかね。
バレーボールも元々は9人制だった。それが6人制になったけど、どこかで1が欲しくなって、その1の存在としてリベロという特別な選手を置く流れになったのかなぁとか、自分の中で勝手な妄想が広がるばかり。

サッカーの話に戻ると、ボールの出し手と受け手の2人だけではなく、そこに次の次の受け手となる3人目、もしくは守備の1人目となる3人目がいて、初めてサッカー(球技)というゲームの原理が成立すると僕は思ってる。なので、奇数で広げていく。

皆さんはどう考えますか?

 

【 まとめ 】

「8人制にすればそれだけでレベルが上がると思っている指導者がいる。この制度をいかに利用するか、という部分での指導者レベルの向上はまだ見られない」
京都府の指導者・Kさん)

「8人制には8人制の良さが、11人制には11人制の良さがあるので、8人制が11人制につながるかどうか?を考えるよりも、どうつなげていくかを指導者(もちろん僕も)が考えていく必要があると思う。未来からの逆算は必要」
(静岡県の指導者・Hさん)

「少年サッカーは奥深いので8人の良さ悪さ、11人の良さ悪さと両方あるので一概に言えない。ただ、サッカーは人数じゃないので騙し合いの本質が存在すれば良い話です」
(神奈川県の指導者・Oさん)

「8人制だからどうとかよりも、指導者が試合に対して何を重きを置き、選手をどういう選手にしたいかで人数は決めればいいのでは」
(神奈川県の指導者・Aさん)

まとめにふさわしいご意見ばかり。ここに共通することこそが今回僕が一番言いたかったこと。つまり8人制の是非よりも、それを扱う指導者側の在り方を問いたかった。偉そうで申し訳ありません。

何をするにもどんな制度の下でも、結局、それを活かすのも無駄にするのも指導者次第。学ぶのをやめたら指導者をやめなければいけないという言葉があるけれど、子ども達にとって「最初のコーチ」になるジュニア年代の指導者ならば、常に現状を疑って自分を省みて、一つの考えや一つのやり方に固執せず、自らを常にアップデートしていかないといけない。

指導者を名乗るならば、子ども達の「数年後」を見据えながら、目の前の試合や練習に向かうべきだ。

だから別に8人制をこのまま続けていくのならそれはそれでいいし、その中で、それぞれが工夫と試行錯誤をしていかないといけない。物事には必ずプラスとマイナスがある。8人制バンザイ!だけではなくてその功罪をしっかり理解した上で扱わないと、結局は子ども達が犠牲になる。

僕は8人制は嫌いだけど、それでもその中で工夫を続けていく。もちろん自分が主催する試合ならば、絶対9人制か11人制でやるけれど。1の重要さを、選手と一緒にに考えながら。

結局は指導者の在り方次第。一緒に頑張ろうぜよ!というお話でした。

 

(この記事は、筆者がコラムを連載している『Football EDGE』にて2016年1月に掲載した内容を再編集したものです)

8人制なんかやめてしまえ ①

この記事をFootball EDGE に掲載したのは今年1月だけど、現状はあまり変わらず。むしろ、8人制を導入した本来の目的からさらにかけ離れた違う方向へと、全体が流れ

て行ってしまっているのではないか。そんな危機感を感じる毎週末です。

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ジュニア年代において今やすっかり当たり前となった「8人制」について。

まず始めにハッキリ言うと、自分は8人制が嫌い。嫌いという言い方に語弊があるのならば、わかりやすく言えば
「みんな8人制は素晴らしい!とか言うけどさ、本気で選手を育成しようとするならば、本気で子ども達に試合を楽しんでほしいと思うなら、本気でサッカーを知ってほしいと思うのなら、8人じゃない方がいいんじゃね?」

これが本心です。

そしてこれは自分が現場で感じる肌感覚だけど、日本サッカー協会というお殿様から与えられた、8人制という《禁断のおもちゃ》の使い方を明らかに履き違えてしまっている指導者が多い。

8人制はあくまでも子ども達が成長するためのツールであって、それをオーバーヒートさせず、目の前の子ども達にとってどういう使い方がベストかを考えないといけない。それは週末の試合に勝つためではなく、この子達が中学に行った時にスムーズに11人制に移行できるための前段階として捉えつつ、でもその中でサッカーの本質や原理原則を伝えていくこと。

本来はそれが大切なはずなのに、まず目先の試合に勝つことに夢中になり「8人制で勝つための練習をしなきゃ」とか平気で言っちゃう人の、なんと多いことか。その弊害はこの後たっぷり書くけれど、とにかく《使いやすいおもちゃ》を手に入れた大人がそれを悪用してるケースが多いのならば、もういっそのこと8人制なんてやめてしまえ!とも、僕は本気で思っている。

お前の肌感覚や好き嫌いで書くなと言われるかもしれないけれど、コラムとはそういう場なので、まぁ我慢して読んでください。

そして今回、このコラムを書くために各地域のたくさん指導者の方々にアンケートを実施しました。協力して頂いた皆さん、本当にありがとうございました。あ、これは決してエア・アンケートではございませぬ。

 

【 出場機会、確保できてますか? 】

プレーの話に行く前に、まず単純に11人制よりも出場人数が減るわけだから、それに応じて大会での「2チーム出し」もOKにするなどの措置がスムーズに出来ていれば理想だろう。人数を減らすならば、本来はそれがセットでなくてはいけない。しかしなかなか、現実はそうではない様子。
そのレギュレーションは各都道府県により違うし、また同一県内でも、地域によってそれぞれローカルルールがあり、様々な条件がつけられているようです。

《神奈川県 某市の例》
・市大会と区大会で2チーム出し可能。ただしグランド提供が必須。そして1チーム15人が全て同一学年であることが条件(2015年度、市大会で2チーム出せたのは1クラブだけ)
同市内でも、区大会は条件なく2チーム可能、という地域もある。
他の県や地域でも、グランドを提供するのが条件、また必ず同学年のみの構成であることが条件、というところが多い。

《埼玉県 某市の例》
・16人以上の6年生が登録されていて、A・Bチームにそれぞれ1人以上の6年生がいること。
これは少し条件が緩いですね。
・人数が少なくても対象学年が一人でもいればリーグ参加可能。さらに人数が揃わないチームは合同チームでの参加もOK、としている地域も。

 

また、帯同審判の問題も。
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《神奈川県 某市の例》
・審判員が1チームにつき最低2名は必要な条件なので、スタッフに余裕のあるチームしか対応出来ない。この市では2チーム出ししているチームはいない。1学年27名いるクラブチームでも、スタッフが対応出来ないので1チーム出し。

この市だけでなく、他の地域でもこの声は多く見られた。しかしこれ、主審のみの一審制にすればある程度解決できるものなのでは?8人制を導入する際、そのメリットの一つとして、主審一人だけで行えるという項目があったはず。それにより、審判へのリスペクトも促されていましたよね。
しかし現実は、常に副審もつけた3審制、あるいはそれに4審までつけている地域も多い。
「主審一人ではオフサイドがしっかり見れない」「勝敗がかかった試合でミスジャッジされたらたまらない」という声が大きく、こうなっているわけです。

それを大人があっさり言っちゃうのが、カッコ悪い。

いやいや、そこは大人が頑張ればいいところでしょと。大人のチカラ見せたれよって。
主審一人で、オフサイドも充分にジャッジできますよ。本気でやれば。本気で走れば。
「一審制ではジャッジし切れない」という前に、大人達がもっと頑張ってレベルアップすればいいだけ。やれない理由を言う前に、やれるようにまず頑張ろうよみんな。

もちろん、グランド不足や日程が組めない等の理由で2チーム出しへの条件を厳しくしてるのだろうことは、僕にも理解できます。ならばベンチに座っているメンバーの出場機会確保のために、これまた大人側が知恵を絞るべき。8人制を導入した一番の理由は何だったのかと。

「試合時間を長くして、ベンチメンバーも試合に出さざるをえない環境にしないと試合に出れない子供が増えるだけ。ベンチメンバーは必ず試合に出すなどのルールも必要」
横浜市の指導者・Sさんの意見)

「1人あたりのボールタッチを増やす意味での8人制は良いと思うが、その分、大会レギュレーションも整備しないと結局出場できない子が増え、本来の目的を失ってしまっている。そしてこの制度を取り入れるなら低学年は6人制でも良いと思う。ただし人数を減らす分、エントリーチーム数は増やす。そのために場所を確保する事に尽力する必要がある」
横浜市の指導者・Kさんの意見)

もちろん、トップダウンで制度改正されて無理やり動かされる前に、まずは指導者自らによる意識改善で、子ども達の出場機会を増やしてほしいところですよね。

 

【 サッカーの質はどうなった?結局ボールタッチ増えてる? 】

「8人制にすることで、選手一人一人のボールに触る機会、プレーに関わる機会を増やす」

Wao!いーねー。最高ぜよ。これは素晴らしい理念だし、当たり前の考え。しかし実際は、これと真逆になってるケースが多々、見られる。

8人制導入の初めの時期、僕が尊敬する神奈川の指導者Oさんが、こう予言していました。
「制度を変えたって、指導者が変わらないと意味がない。8人制を上手く使えない人や悪用する人が増えて、フィジカル勝負、単純な能力勝負になってしまう試合が多くなる。今よりも間違いなく、大差がつくゲームが多くなるよ」と。

僕が強く懸念していたのは
「一つのミスが即失点に繋がり、そして縦ポンひとつでゴールまで行ける。それにより、指導者によってはリスクのあるプレーを一切許さない人も増えてくる。無駄を極力省き、効率重視になる。ジュニア年代で、それが果たして子ども達のためになるのか。個性的な選手は明らかに減る」ということだった。

案外、その通りになってる。

もちろん、そうじゃないチームもたくさん知ってます。指導者の方がしっかりと8人制を使い、選手のプレーの幅を広げさせようとしているチーム。きっと卒業した後のことを見据えてやってるんだろうなというチーム。今この時期はこれが必要、という強い信念を持って、8人制の中でそれに取り組んでいるいくつもの好チーム、そして名指導者の方々を、僕は何人も知っている。

でも失礼な言い方だけど、そうじゃないチームの方が、圧倒的に多い。

チームや指導者の意図や拘りは当然チームによって様々でいいと思うし、それを何のためにやっているのか、選手の《いつ》を見据えているのか、それによる良い面と悪い面、両方を分かった上でやっているのかが大事だと思うんだけど、僕が見る限り現場の半数以上は、たぶんそこまで考えていない。

ノンリスクと速さと効率をまず要求して、プレー自体が実にせわしない。フィジカルを前面に押し出したサッカー、もしくはパターン化したやり方で選手を動かす、そんな効率重視のサッカーが増えている。
その場の状況を無視して、いつでもステレオタイプのようにひたすら「まずサイド!」「幅!」「大きく!」とかも…これ、低学年からやらせちゃってますからね。
そういう言葉の中にも、そこにその方の強い信念と意図を何とか見つけようと僕も必死に想像を働かせるんだけど、僕の頭と想像力ではどうしても…それが見つけられない。

その試合に勝つことだけに大人が必死になり一喜一憂して、8人制という使いやすいおもちゃを利用して、子どもの成長や上達は二の次三の次。勝つこと、勝とうとすることが成長に繋がる!という意見もあるだろうけれど、どう勝とうとするか、勝とうとして子ども達がどんな方法を選びどんなエラーが生まれたか、それをまたどう克服し越えていくかという、三歩進んで二歩下がるという大事なプロセスを無視し省略してる人が、圧倒的に多いような気がする。

こんなアンケート回答もありました。
「そもそも8人制の導入は選手がボールに沢山触れられるというのが一番強い理由だったはずなのに、現状では身体能力の高さをうまく指導者が利用してしまうケースが多く、このスタイルでの8人制では、大事なゴールデンエイジの時期を逆に無駄にしてしまっていると感じる」

全く同感です。
昨年秋、世田谷区の全日本少年サッカー大会・地区予選決勝を観に行った。横パスがほとんどない。リズムチェンジもない。行ったり来たりの応酬のみ。ボールを持って相手の前で止まれる、歩ける選手も皆無。やろうと思えばできると思うんだけど、やるとたぶん怒られるんだろうなぁ。双方のGK同士がパントキックでキャッチボールをしちゃってるシーンが何度も。おいおい。もう一度言うけど、おいおい。

結局何が言いたいかというと、前出の予言者Oさんの言うように、いくら協会のトップダウンで制度を変えたって、肝心の指導者がさらに変わらないと、そして勉強しないと意味がない。それ、実際にピッチ反映させてますか、子ども達に伝えてますかって話。

「11人制だとボールタッチの機会が少ない!だから8人制にしてボールタッチやプレーに関わる機会を増やそう!」と協会は言っていたけれど、いやいや、うちは11人制でもボールタッチ多いサッカーしてるし。8人制だろうが15人制だろうが20人制だろうが、そのスタンス変わらんし。

「スペースがあることにより、対人の駆け引きや攻守の明確に関わり方が明確になれる」
「GKのビルドアップや、CBの持ち上がりが出来る」
「オフザボールの動きを引き出しやすい」(アンケート結果より)

嫌われたくないので繰り返すけれど、このように明確に意図を持って取り組んでいるチームがたくさんあることも知ってます。

でも残念なことに、8人制になってそれをさらに省略しちゃってる人の方が多いんですよ。
あまり深く考えてないチームのほうが多いのは明らか。あくまでも僕の肌感覚ですけど、これは間違いない。

指導者次第で、おもちゃ(制度、レギュレーション)は有効なアイテムにもなれば、毒にも凶器にもなる。それとも麻薬かな。それを理解しないでただ目の前の結果を掴むために、子ども達に8人制の試合をする上での「効率」(これを都合よく《型》と言い換えている人も多い。意味全く違うけどな!)だけを求めているのであれば、、

被害を被るのは…今、あなたの目の前にいる子ども達だ。

そしてサッカー協会という名のお殿様。現場のこと、ご覧になってますか?

 

Part ② に続く。

 


(この記事は、筆者がコラムを連載している『Football EDGE』にて2016年1月に掲載した内容を再編集したものです)

 

鎧をまとった時に

ゆとりがなく、せかせかしすぎな日本。鎧や武器を手に入れたらそれを振りかざすのではなく、むしろ、さらに優しくなろうぜよ。剣の達人でありながら、剣を抜かなかった坂本龍馬のように。

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日本の道は信号が多すぎる。多いところでは数十メートル間隔で信号がある。

これは僕の持論だけど、信号を大幅に減らせるようになったら、日本は今よりだいぶ良い国になるんじゃないか。うーん、順序が逆かな。日本が良い国になれば、信号を減らせる。

以前「自分が総理大臣になったらまず信号を減らしたい」みたいなことをツイートしたら、全く知らない人から「老人には死ねということですね」みたいなリプライが来たことがあった。あー、全く行間読めない人だわこれ、ってガッカリした思い出がある。

なくすのは無理だとしても、減らすことはできるはず。信号が減れば、横断歩道を今よりもたくさん作らなくちゃいけない。そして横断歩道を渡りたい人がいる時は、車は必ず停まってあげる。その余裕を持つこと。たったこれだけでOK。

でも今の日本人なら、多くのドライバーは横断歩道を渡ろうとしてる人がいても停まらない。車同士で見つめあっても、なかなか譲ろうとしない。停まる人、譲る人もいるけど、少ない。余裕がない人ばかりだ。

車は鎧(よろい)。そんな、車という強靭な鎧を身にまとった途端に急に人格が変わる人、多いですよね。急にオラオラ系になっちゃう人、高級車になるとそれだけで余計に強気、オラオラにも磨きがかかってバカみたいにスピード出したり煽ったり、ウィンカーなしで車線変更したり。

強靭で頑丈な「鎧」をまとった時。
急に強気になって攻撃的になるのか、それとも鎧をまとった時にこそ、優しくなれるのか。「鎧をまとった時」にこそ、その人の本性が如実に表れる。いや、現われるというべきか。隠れていた本性が、姿を出す。

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せっかく日本に生まれてきたのなら、僕は日本を良い国にしたい。

では良い国って何?って言われれば、僕が思うのは、ゆとりがあるってこと。
せかせかせず、急がず、ギスギスせず、どこかみんなゆっくりと、ゆったりと、常に余裕を持って「なんとかなるさ」って笑っていられるような人が多数を占める国。そして他者、特に弱者への思いやりを持てる人が多く、そんな制度や仕組みが当たり前のように整備されている国。

電車で人身事故があると「死ぬのは勝手だけど別のとこで死ね」みたいなツイートをよく見かける。どんな事情であれ、人の人生がそこで終わってるのに。その人はどんな思いで駅のホームから一歩目の足を踏み出してしまったのかということを想像すらしない人達。

生活保護を打ち切られて「おにぎりが食べたい」という遺書を残して餓死する人がいる国。10代〜30代の死因第1位が「自殺」の国。人身事故が起これば、電車の中でスマホ片手に舌打ちをする人が多い国。
あんなに重大な原発事故が起こったのに、後始末も「アンダーコントロール」(現・首相談)も何も出来ていないのに、せっせせっせと再稼働を急ぐ国。カネか?利権か?メンツか?アメリカのためか?虚栄心や自尊心か?答えはおそらく全部。

これが良い国ですかね。美しい国でしょうか。全然良くない。美しくもない。僕はそう思う。

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鎧の話に戻ります。鎧になるものって、なにも車だけじゃない。
先生、社長、指導者、コーチ、etc… そんな「肩書」だって立派な鎧になるし、首相、大臣、政治家…といった「権力」だって、すごく強大で頑丈な鎧になる。

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政治家になり先生と呼ばれて勘違いをし、弱者へ寄り添うことを忘れてしまう人達。
大学を卒業しいきなり教員になって、先生と呼ばれて勘違いをし、生徒達を管理・操作しようとしてしまう人達。

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また総理大臣になれた!わーい!今度こそ憲法改正して戦争のできる国にしよう!じっちゃんの名誉を晴らそう!となるのか
総理大臣になれたなら、まずは福祉大国を目指そう、弱者に優しい国にしよう、となるのか。

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「権力側にいたい人」「強い側にいたい人」もそう。自身の虚栄心を、国や権力という鎧に隠れてなんとか保って強さを装う人。寄らば大樹の陰、虎の威を借る狐。
自分では守れず外にも誇れない脆弱な自尊心を、国や権力に置き換えて虚勢を張り、弱い立場の人を攻撃して強さを装う。そして他国を差別する。これも、鎧をまとってるのと一緒。自分の努力で得た鎧じゃない分、もっとタチが悪い。こういう人達を、僕は心の底から軽蔑する。

一人だと何も出来ない、何も言えないのに「仲間に紛れるという鎧」を手に入れた途端、急に強気になって人格が変わる。大勢で一人を攻撃する。一人だと不安で仕方ないくせに。

TwitterFacebook、BlogなどのSNSだって、強靭な鎧の一つ。面と向かってだと何も言えないのに、SNSという鎧に守られた瞬間に人格が変わり、人を攻撃し出す。

そういう僕だって自分のコラムを持ってるしTwitterFacebookもやってるし、そのメディアを使ってこうして言いたいこと言ってるんだからお前もそうだろうと言われればそうかもしれない。でも僕は、実名で自分を全て公開し曝け出して、言いたいことを言っている。その前に、思ったことはまず面と向かって言ってる。

鎧は自分を守るためだけではなく、人を傷つける武器にもなる。それを自覚しているのかどうか。

信号や車の話から話が大きく発展してしまったけれど、とにかく僕が言いたいのは
「人は鎧をまとった時、余計に優しくならないといけない」ということだ。

 

坂本龍馬は剣の達人だった。しかし争いごとを嫌い、剣をほとんど抜かなかった。人と人は争わなくても必ず分かり合えると信じ、人と人の間に立って奔走し、薩長同盟まで実現させた。

 

鎧をまとった時にこそ、優しくなれる人。そんな人が増えてけば信号減らせるし、住みやすい国になるし、自殺も減るし、いじめも減るし、他国とも日本人同士ももっと仲良くなれるし、良い国になれるじゃん!って思っただけ。あと絶対に、今の100倍サッカー強くなるよ(ここ大事)

そしてそんな人になってほしい、いや絶対にならなくてはいけないということを、僕は子ども達にサッカーを通して伝えてゆくのだ。

 

以上です。
最近いろいろあったし長文書いて疲れたから、車でオラオラぶっ飛ばしたいぜー

 

(この記事は、筆者が持つBlog『We can be adlibler 』にて2016年4月1日に掲載した内容に加筆、再編集したものです)

 

聖和 vs 野洲 〜 生き方は誰にも批判できない

今年1月の全国高校サッカー選手権聖和学園にフォーカスを当てて書いた文章をもう一度再編集しました。

技術と拘りの意味、武器の使い方。高校生達の、儚い純粋さと眩しさ。

 

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聖和 対 野洲。高校サッカー史に残る試合を目撃
ニッパツ三ツ沢球技場

 

12月31日(大晦日)
第94回全国高校サッカー選手権1回戦「聖和学園野洲」を観に行ってきた。

10年前、ドリブル、逆取り、駆け引きを駆使したサッカーで全国優勝し日本中に衝撃を与え、育成年代に大きな波紋を投げかけた野洲。高校サッカーのみならず小中カテゴリーの育成現場を語るにおいてでも、野洲の優勝前・優勝後、で分けてもいいくらい、あの野洲の優勝はエポックメイキングな出来事だった。

対して聖和はこれでもかというくらいにドリブルとボールタッチに拘り、そのボール技術を極めている、超異端の存在。この保守的な日本で聖和の異端が当たり前になることはきっとないのだろうけれど(なったら逆につまらない)そんな事は百も承知で、自らの拘りにきっと大きな誇りと自信を持って取り組んでいるのだろう。そこには、外からは決してわからない、尋常じゃない忍耐力と努力があるのだと思う。

高校サッカー界では共に異端。今大会出場チームの中でもボールと技術への拘りでは群を抜いて飛び抜けた存在であろうこの両校がまさかの1回戦で当たってしまうという、意地悪すぎる運命。野洲のあの優勝から10年経ち、野洲の背中を見てずっと追いかけてきた聖和がその引導を渡すのか、それとも野洲が返り討ちにするのか。それ以上に、両チームがどんな魅力的なサッカーを見せてくれるのか、そしてこの両チームが当たることで、今まで見たことのないものが見られるんじゃないか…そんな期待に溢れる、夢の対戦カードとなった。

当日

スタンドは異様な雰囲気に。高校サッカーであんな雰囲気は初めてだろう。過去行われたあらゆる決勝戦以上のものだった。そして高校サッカーの1回戦でスタンドが超満員で埋まるというのは3年前の伝説の試合「野洲青森山田」(@駒沢)でもそうだったけど、あの時の雰囲気以上に、スタンドの高揚感と、この2チームの対戦によりこれから何が起きるんだろう、何が見られるんだろうというゾクゾク感に覆われながら静かにその時を待つ、超満員の観客。今まで見たこともないものが見られるんじゃないかというワクワクと、こちらの想像は確実に超えてしまうだろうという怖さと。

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応援歌ではなく静寂が支配。息を飲むスタンド(©ゲキサカ)

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超満員、立ち見もたくさん。隣接する団地にまで、観客が溢れてた(©ゲキサカ)

 

あっという間の80分。衝撃の7-1。

この試合を見終えた大晦日の夜から、この試合のことをどう書くか、ずっと葛藤してた。まぁこのBlogなんて別に誰が期待して待ってるというわけでもないのだろうけれど、自分の中で、この試合のことだけは生半可な軽い文章で終わらせるわけにはいかない、それではあまりにも両チームに失礼、という思いが溢れてしまって。なので頭の中で何度も描き始めては全削除し、また描いてやっぱりまたやめる…その繰り返し。それほどに、簡単には語れない試合だった。

でも
拙いながらも、この儚い芸術品のような試合で感じたことを何とか自分なりにまとめて、今から書いてみたい。

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序盤から野洲が高いラインを設定して聖和の背後を果敢に突くための勝負を挑んでいた。しかし聖和も自信を持ってそこに挑みドリブルで返す。最終ラインの選手までも、まずはドリブル。それは野洲もわかっていただろうけれど、敢えて引かずに当然そこに襲いかかる。それこそ、野洲のプライドだったのだろう。
聖和が持つひとつのボールに対し、野洲の選手が4.5人集まるシーンも多々あった。

しかし
そこでも聖和はまずボールを奪われない。巧みで早いボールタッチで野洲の足をいなし、かわして引きつけて逆を取っていく。例え囲まれて足を出されて多少ボールがぶれたとしても、聖和の選手の方が、次の足が出るのが早い。だからやはり奪われない。そこから、引きつけていなして超ショートパスでギャップを通し少しづつ前進。それを繰り返しながら、徐々に野洲を無力化していく…そんな場面の連続だった。

つまり聖和にとって、一見数的不利だけど、実はそここそが圧倒的優位。これが肝。野洲を集めて集めたあげく、聖和の選手には見えている「背後の選手」へと、野洲の最終ライン裏を破るパスで急襲する。軸足の裏を通すパスをも駆使しながら。特に7番は巧かった…

象徴的なシーン。聖和のGKが叫んでいた 「いつでも裏は取れるぞ!」
まさにこれ。この言葉に尽きる。彼のこの言葉を聞いた時、僕は「あぁ、これは聖和が勝つ」と思った。

上述したように、聖和は決してドリだけじゃない。引きつけていなすパス、引きつけて間を通すパス、そしてラインを破るナイフのようなパス、そして奪った後の早いカウンターのパスも常に狙ってるから

この大晦日の夜に行われていた総合格闘技に例えるならば、闘争心剥き出しの野洲がマウントを取るけれど、殴りかかった拳をうまくいなされ、逆にその手を取り、握り、有効打を喰らわしながら下から首と腕を取って三角絞めや逆十字を極める聖和、という感じだろうか。それでも強気にKOを狙おうと殴り続ける野洲の手を巧みなスウェーでうまくかわし、素早くサッと立ち上がって今度はカウンターというハイキックを喰らわせる。

野洲にしてみたら立ち上がって殴り合おうにもうまくかわされ、逆に有効打を浴びせられそしてまた聖和の寝技に引き込まれ、そこでまた殴られるのか極められるのか、ドリブルなのかパスなのか…どちらか分からずに今度は逆にマウントを取られてしまう。そんな状態に、じわじわと野洲が陥っていく。僕にはそう見えた。
格闘技知らない人には、この例え伝わらないかもしれない。ゴメンなさい。

野洲を翻弄し続けた聖和のドリブルは、決してドリブルだけじゃ終わらない。ただ魅せるだけのサーカスでもない。頭と目と身体が連動してしなやかに早く動き、野洲よりも先手、先手を打っている。奪われた後にすぐ2人目が囲んでまた奪い返してしまう、奪われることありきの距離感も、この日はほぼ完璧と言えるくらいの絶妙な間合いで連なっていた。そして、野洲の背後を取る「見えない味方」のことも、頭で見えていた。

もう一度「いつでも裏は取れるぞ!」(聖和GK)

この日の聖和のこと(野洲のことも)を「ドリブルだけ」と簡単に評していた人が何人かいたけれど、うーん、いったい何を見ていたんだろうか。目に見える現象だけしか見えないのならば、本質は決して見えない。事実と真実は違う。目に見えないもの、その現象の行間に流れてる「見えないもの」に想像力を働かせれば、この両チームが繰り広げた、攻守にわたるハイレベルな「時間の奪い合い」が、おぼろげながらでも見えてくると思うのだけれど。

パスの巧みさ、守備の巧さ、早さ、強さ、賢さ、シュートの巧さ。
ドリブルという拳銃は、それらが伴って、初めて殺傷能力が生まれる。空砲ではなく、拳銃(ドリブル)に弾を込める。この日の聖和にはそれが全て備わっていた。だからこそ聖和は野洲を撃ち抜き、あそこまで観客を引きつけた。

そして忘れてはならないのが、野洲が、聖和の魅力を引き出したということ。対戦相手が野洲じゃなかったら、聖和の魅力があれ程までにあぶり出されることもなかったんじゃないか。
野洲がリトリートするわけにはいかない」みたいなことを、山本監督が試合後に言っていたらしい。野洲にとってはその意地とプライドが、逆に仇となったのかも。でも野洲にとってそこだけは、決して譲れない一線だったのだろう。そこを嘲笑したり批判することは、誰にも出来ない。

野洲の10番・村上魁の野生味も、とても魅力的だった。牙を剥く闘争心と、少しでも歯車が外れたら崩壊してしまいそうな繊細さが同居しているようだった。だからこその魅力。生で観たのは初めてだったけれど、評判通り、彼には心奪われてしまった。これからの彼を、追っていきたいくらい。

繰り返すけど、高校サッカー史上に残る満員札止め、そしてあの雰囲気。刺激的なフットボールの香りが臭いすぎたあの三ツ沢の様相は、しばらく忘れられそうにない。

通路に人がはじき出されるほどにスタンドを埋め、隣接する団地にまで人を溢れさせ、超満員の観客を魅了したというこの事実こそ。
聖和と野洲。両チームともに、この試合の勝者だったのだと思う。

両チームともに圧倒的な魅力。簡単に「スタイル」なんて言葉で片付けるほどの生半可なレベルじゃない。野洲はもちろんのこと、聖和もあそこまで拘りを貫き高めてきたその過程では、あらゆる波風や高く厚い壁に何度も邪魔されてきただろう。後ろ指も刺されたに違いない。でもそこで挫けず妥協せず、自らの信じるものを捨てずに貫いてきた姿勢は、好きな服を好きな色で選び着飾るだけの「スタイル」なんていう、陳腐な言葉では片付けられないはず。

野洲も聖和も、あそこまでいけばもはや 生き方 の領域。生き方は、誰にも批判できないし真似もできない。口も挟んじゃいけない。

魅力的なサッカーを追求しながら選手を育て、人を育て、ましてやそれがたくさんの人を魅了する。
僕ら育成現場の指導者達が目指すべき、ひとつの理想でもあった。

 

埼玉の拘り集団、昔からお世話になっているFC Cano・菊地さんのFB投稿より
↓↓
「繊細で美しい様式美を誇る、日本の茶道で使われる『茶碗』
その昔戦国の世では、領地を貰うに等しいとまで言われた。

聖和 vs 野洲 … まさに『名器茶碗』対決でした。

お互いが同質のぶつかり合いをして全力で正面衝突したので、片方が壊れてしまった…
美しく、繊細なモノ同士(同志)だからこそ起きてしまった「7-1」

多分、異質なモノとの対決ならば、柔らかく包んでしまえたであろうに…
(結果はわからないですが、あの様な完全崩壊には絶対にならなかった)

美しいモノとは、かくも儚きモノなのか。
まぁ、つい先だってのクラシコでも、あのレアルでさえ崩壊したのだから、高校生の真っ直ぐなプライドならば、尚更致し方ないのだと感じた」

両チームに理解の深い菊地さんならではの、美しい例えですよね。さすがです。

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名器同士の繊細な対決(©ゲキサカ)

聖和 対 野洲、誰かがあげてた動画(スタンド目線)
http://youtu.be/zc-cMNyGBkM

スポナビ『“7-1” が日本サッカー界に与える影響 〜 聖和学園野洲に完勝した意味』

http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201512310004-spnavi

 

終わった瞬間、すぐにボールを蹴りたくなった。いや、蹴りたいというよりも、ボールにさわりたいという感覚だろうか。実際、試合後に三ツ沢の広場でボールを触ってる人ミニゲームをしている人がたくさんいた。その数は間違いなくいつもより多かった。みんなウズウズしてしまい、すぐにボールをさわりたくなったんだろう。

こんな繰り返しと日常で、サッカーは少しづつ文化として根付いていくのだと思う。

 

年が明けて1月2日、聖和の「続き」を観に行ってきた。「青森山田聖和学園

(等々力競技場)

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青森山田が《強か(したたか)》なサッカーで覆いかぶさってくるその前に聖和がトントーンと点を取ってしまい、試合を決定づけてしまってほしい。そう思いながら観戦していた。
1回戦では野洲も地上の局地戦を真っ向から挑んできたから、聖和の「2人目」の距離感が尚更ハマり機能して、そのドリブルがさらに生きていた。
でもそれには青森山田は付き合わないだろう。それを聖和がどう攻略するのか、その興味もすごくあった。

僕は聖和にこのまま優勝してほしいと思っていたし、野洲に勝ったのならば、こんなところでは絶対に負けてほしくないと思っていた。

ただ単に巧さで圧倒すればいいのではなくて、あくまでもこのサッカーで勝つ、日本一を獲るという「結果」をも一緒に持ってくることで、その正しさも万人に証明される。異端を選ぶならば、そこにはいつも「証明するための戦い」が付きまとう。そこに本気で挑む聖和が見たかった。
野洲はそれを、10年前に成し遂げたのだから。

しかし、青森山田が粉砕した。あまりにも《したたか》に、粉砕した。まさに漢字でいう「強か」だった。
聖和が自らの武器を振りかざし青森山田陣内に飛び込めば飛び込むほどに、青森山田の強かさが余計に威力を増して、カウンターの餌食となってしまった。
ドリブルで2.3人抜いた後、そこで今スルーパスを出せばラインを破れる、というシーンでもドリブルを選びボールを奪われ、そのまま失点という場面もあった(確か4点目)

証明しよう、と気負い過ぎたことで冷静さを失ったのか、それとも青森山田が単にそれをもやらせなかったほどに強かったのか、それとも、結果よりも巧さを見せられればいいと思っていたのか(決してそんなことはないと思う)
そこは、外野の僕には決してわからない。でもひとつ思ったことは、きっと聖和の選手達はとても純粋なんだろうなと。自分達の武器を信じてそれを振りかざし頼りにして最後まで戦っていた姿は、下衆な大人の僕からしてみたら「もう少し、狡さと悪さがあれば…」とつい思ってしまうのだけれど、そんな邪神すら挟めないほどに、彼らは自分達の武器である技術を信じ、特に絶対の自信を持つドリブルで、この巨大で「強か」すぎる相手にも勝とう、と思っていたのかなって。

刀は毎日欠かさず磨いて、鋭く光らせておく。常に携える。でも
「俺がどんな思いで毎日この刀を磨いてると思ってるんだ。お前ごときに簡単に使うほど安い値打ちじゃねぇよ」という状態で、武器を使わずして勝つ。
これが、理想の「武器との付き合い方」だと僕は思う。いつでも使えるように磨き、鍛錬は欠かさない。そしていずれ、いざという時に満を持して使う。
仲間のために使うのもいいし、自分を守るためでもいい。武器の使い方に、その人間の本性が出るのだとも思う。

でもそんな僕の戯言すら、彼らの真っ直ぐさと純粋無垢さにはキラーンと跳ね返されてしまいそう。そんな潔さも感じた、彼らの武器の使い方。それも眩しい。高校生らしい真っ直ぐさ、それを制御できずに敗れてしまったのかな。勝手な見方だけど、そう思った。

また見てみたい。素直にそう思える、人の心を揺さぶる、素晴らしいチームでした。

 

(この記事は、筆者が持つBlog『We can be adlibler 』にて2016年1月3日に掲載した内容を、再編集したものです)

 

 

Japonês

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ブラジルでは、サッカーが下手な人のことを「Japonês!」と言って嘲笑するらしい。
読み方はジャポネーズ。スペイン語だとハポネース。

つまり「サッカーが下手」なことの抽象として「日本人」と言われてしまうわけだ。あのキングカズ・三浦知良も、16歳でブラジルに渡った時には散々言われたらしい。

Japonês。
こう呼ばれてること自体とても悔しいことだけれど、でも結構、納得できるところもある。
日本人選手は、相手がいないところでの足元の技術は上手いかもしれない。でも往々にして「狡猾さ、ズル賢さ」がない。だからボールに飢えた本当の「寄せ」に対峙した時には、その技術は無力にされてしまう。そして唯一無二の自己表現力が、決定的に欠けている。

そしてここが今回のテーマなのだけれど、サッカーに限らず日本人は、全体の中に入るとその中で安心し、ハミ出すことを避け、空気を読みたがる気質がある。つまり自己主張に欠ける。上述したように、自己表現力に欠ける。
それは気質を通り越して、先祖から受け継いできたDNAレベルなのかもしれないけれど。

その気質に縛られず、DNAの壁をぶち壊し、出すぎた杭になれる人。日本ではマイノリティーに属するそんな人は、世間からは飛び抜けすぎて変人扱いされ、後ろ指を指される。でもそういう人のほうが、成功し富を成す。当たり前だよね。

強烈な自己主張をする選手は日本国内では煙たがれる。中田英寿本田圭佑に、日本という器は小さすぎた。フットボーラーとして生きる強さを日本では持て余してしまう、強烈な個性の持ち主だった。今でいうなら南野拓実とか…だろうか。

しかしそんな変人扱いされる選手はまだまだ貴重で、その他大勢の日本人は、正直すぎる、良い子すぎる、人と同じことを好みすぎる。実際サッカーに限らず学校や家でも、ほとんどがそんな教育を受けてきたわけだし。みんなと一緒に!みんな揃って!って。

そんな教育や習慣の中で育ってきた人がまた親になり、教育者になり、意識的にでも無意識にでも、子ども達に同じことを繰り返していく。

全体の中でのバランスと調和を重んじられ、暗黙のうちに、そこからハミ出ないことを美徳とされてしまう。自己主張を遠慮してしまう空気。自己表現をすると妬まれ腕を引っ張られ足を踏まれ、大人が壁になって立ちはだかる。結果、周りには空気を読む「良い子」が溢れる。

サッカーで言えば、正直なプレーヤーがたくさん生まれる。

勝手な想像だけれど、日本人のそんな姿をも掛け合わせて、ブラジル人は日本人のことを「サッカーが下手」と称したんじゃないかと。サッカーはそんな気質じゃできないってことは、彼らブラジル人が一番肌でわかってるんだから。

だからサッカー下手な人のことをブラジル人が「Japonês」と呼ぶことは悔しいけれど、とても納得できる部分もあるのです。

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つまり何が言いたいかというと、最近は

「子どもにもしっかり戦術や原理原則を教えないといけない」
「型、をつくってそこにまずハメる。そこを飛び出して来れてこそ、本当の個性」

みたいな風潮が流行ってる。岡田武史さんがFC今治のオーナーに就任した時にそういう発言をしたのがキッカケでぶわぁっと広がり、海外での指導経験がある人やフットサルな人達からも、以前からそういう声はよく聞かれますね。

いや、その通りだと思いますよ。僕だってほぼそうしてる。正しいと信じる原理原則を伝えて、選手は個人戦術を持ち、チーム戦術や約束事の中で味方を活かし、自らを活かしていく。なおかつ自らの決断と責任と閃きでそこから逸脱できる選手こそが良い選手だし、本当の意味でサッカーを楽しめるとも思うし。これ、たぶん間違いないです。

でも

この日本で、ごく普通の日本人に対し「型」というものをつくりその型の下で指導するならば、指導者はそこにいる選手の誰よりも自由を重んじ、多様性を認めることができるリベラルな考えの持ち主でないと非常に危険。リベラルを通り越して、むしろ自分が一番変わり者くらいなほうがいい。

なぜか?

皆で揃ってイチニ、サンシ!が大好きな Japonês!タイプの人が選手に対しあれやこれや教えようとすること、そしてまたしつこいようだけど最近流行りの「型」という言葉を安易に解釈し安易に使って自ら好みのStyleを押し付けること。まさに「型」にハメようとするのは、とても危険。
日本人の大人がそれをやろうとすると、異分子がいづらい全体主義に陥る危険性を、常に孕んでる。実際そんなコーチも先生も、その辺にたくさんいるじゃないですか。

以前、朝の学活でみんな揃ってやたら元気良く笑顔で大声で挨拶しまくるどこかの小学校のクラス動画が話題になった時があったけど、あれ見て、僕はおぞましかったです。自分なら間違いなく登校拒否になる。気持ち悪い。
でもあれを賞賛してる指導者の人が結構いたんですよね。素晴らしい!とか、素敵です!とか、嫌そうな顔してる子なんて一人もいないじゃないか、とか。

 http://youtu.be/V7DgU8ogxgw

いやいや、全員が100%同意なんて、物事にはあり得ない。嫌な顔を無理やり引きつらせてでも仕方なく作り笑顔にして、あの場を何とかやり過ごそうとしていた子が、あの中には絶対にいる。

今この中にも、これにそぐわない子がいる
今この中にも、これを嫌だと思ってる子がいる
今この瞬間にも、逃げ出したいと思ってる子がいる
全員一致で気持ちいい!なんて、あり得ない

ということを、指導者は常に心に据えておくべきでしょう。

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以前、フットボールエッジのコラムにも書いたことだけど
僕が高校3年生の時、日本史だか世界史の授業で、戦争そして徴兵制の話になった。そこで、先生が「もし日本が徴兵制になって国から兵隊として呼ばれたら、みんなは戦争に行くか?」と男子に向けて質問をした。

「行く」と手を挙げたのは一人だけ。当時のサッカー部のキャプテン。
そして「行かない」と手を挙げたのは、僕一人だけだった。

行くと答えたキャプテンと、行かないと答えた僕。それ以外の大勢は手も挙げず何も答えず、ただ、こっちを見ながらニヤニヤしてるだけ。あの時の教室の空気、気味の悪さは今でも忘れない。意思表示をしてるのは自分とキャプテンだけ。その意見は正反対だけど、自分の意見を正々堂々と示している点では同じだ。本当ならこっち側が正しいはずなのに、なぜか俺らの方が「変なやつ」扱いをされてる…と、強烈に違和感を感じた。自分の意見を何も言わずにただこっちを見てニヤニヤ笑ってたその他大勢の卑怯なやつらの顔と、あの時の教室の悍ましさは、今でも強烈に覚えてる。

一人だけ違う意見を言う、違う行動をとることを「変」で「普通じゃない」とレッテルを貼る。そんな空気を作り、いつの間にか排除したり、同調せざるを得ない空気にしてしまい、取り込んでしまう。

みんなと同じことが普通。みんなと違うのは変。
意図的でも、意図的でなくても、そんな教育の仕方をしてる先生やコーチはたくさんいる。学校にも多いなー。実際に今の僕の周りにもそういう人はいるし、むしろそういう人の方が多い。僕から言わせれば、そんなのは教育でも練習でもない。ただ子ども達を操作してるだけ。

操作されてるうちに子ども達は次第に「みんなと一緒」のことを選ぶようになり、人と違うことを恥ずかしいと思うようになり、自分の意見を押し殺していく。空気を読むことを覚えていく。

上述した部分をもう一度。

↓↓

全体の中でのバランスと調和を重んじられ、暗黙のうちに、そこからハミ出ないことを美徳とされてしまう。自己主張を遠慮してしまう空気。自己表現をすると妬まれ腕を引っ張られ足を踏まれ、大人が壁になって立ちはだかる。結果、周りには空気を読む「良い子」が溢れる。
そんな教育や習慣の中で育ってきた人がまた親になり、教育者になり、意識的にでも無意識にでも、子ども達に同じことを繰り返していく。

自らは意識していなくても、そして自分はそんなことないよ大丈夫だよ、個性を尊重するよと言いつつも、まず高い可能性で結局は全員に右に倣えを要求し、型にハメるだけでなくその中だけで縛りたがり、逸脱しようとする者を許さない。そんな雰囲気、空気を無意識にでもつくってしまいがちになる。僕はそういう人を何人も、本当に何人も知っている。残念ながら、それは身近にもいる。
そしてそれを受ける選手側も、ほとんどはハマっていた方が安心なんだから。We're Japanese。

 

そういえば、日本の育成カテゴリーでは移籍の不自由さもありますよね。選手が自ら選んで他クラブに行こうとしても「引き抜きだ!」とか言われるし。
そのチームのやり方にそぐわないのに、なおかつ移籍がスムーズに出来ないなんて、それこそ飼い殺しのSMAPになってしまう。もう解散しちゃうけど。

日本の大人は子どもに「良い子」になることを求めたがる。右へ倣えを求めすぎる。そんな日本人の気質は、サッカー向きではない。
だから「型!型っ」っていうのなら、まずそこを理解した上で指導を始めないと。海外の真似が全て良いとは限らない。

スペインとか南米とか欧米の子ども達は、こちらがそんな心配しなくても自己主張するのが当たり前だから。この練習は何のためにやるんですか?この練習には何の意味があるの?ってコーチに聞ける。だから戦術を教え込んでも型にハメようとしても、そこに縛られて個性をなくすことはない。

でも日本人の子ども達には、そうはいかない。

繰り返すけれど
だから僕ら日本人指導者は、変人と言われるくらいの自己表現を自ら好み、全体主義などには砂をかけ唾を吐くくらいにリベラルな思想の持ち主であるべきだと、僕は思ってる。人によって意見は違うだろうけれど、僕はこの持論に、確固たる自信を持ってます。

そして、移籍は快く認めるべき。引き抜きだ!とか騒ぐ人、もっと大人になりましょう。

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型とは、出来ていくもの。真似るだけではダメ。共に創るもの。
型とは、共有するもの、信じられるもの、迷った時に返れるもの。
型とは、使うもの。利用するもの。縛られるものではない。

そして「型」とは、何も戦術や原則やStyleといったものだけでなく、◯◯◯ といった、数ある指導の手法なども、まさに「型」そのものでしょう。

例えば
自己表現に慣れてなく、自己主張が苦手で、言われたことは一から十まで聞いてしまうような日本人だからこそ、自ら考えさせるボトムアップ指導はとても有効なツールだと思う。またボトムアップだけでなく、最近はわかりやすく銘打たれた様々な指導手法がもてはやされてますよね。
でも、またこれ日本人の悪い癖で、何か旗を振られると一気にそこになびいて振れてしまう。何を信じて何を用いるのかなんてその指導者の自由だけど、そこでも、どうしてもそのやり方にそぐわない子がいること、それを是としない子がいるということもちゃんとわかった上でやらないと、その指導者の気づかないところで、選手が犠牲になっていく。

そこに目を向けないままで、単なる指導者の自己満足、自己顕示欲の道具としてサッカーを捉え、自己陶酔に陥っている人を、最近はよく見かけます。

うちは、型を僕がつくって選手に教えたり伝えるというよりも、一緒に創り上げてく…そんな感じ。
共有できるもの、信じられるものをその瞬間に一緒に生み出す のが練習であり、チームだと思ってます。
でも実際、いつも選手達に言う。俺が言ったことの半分は忘れるくらいでいいんだから、って。みんなのほうが、良い方法を見つけられる感性はあるんだからって。

サッカーは、自らの手で自由を獲得できるもの。
自らを解き放てる最強のおもちゃこそがサッカー。仕込まれたDNAをぶち壊せ!大人に教えられたセオリーなんて、軽く超えていけよ。

そんな自己表現の塊のような選手を、僕らは育てないといけない。いや、そんな選手の邪魔をしないようにすることがまず第一。

歯が不自然に真っ白で、不自然すぎるほどに歯並び綺麗な人っているじゃないですか。芸能人とか、引退した野球選手とか。やらしいセレブとか。
でも歯も歯並びも、綺麗すぎるとあまり魅力を感じないんですよね。

八重歯、残しておいてほしい派です。乃木坂46橋本奈々未の八重歯は最高だぜ

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歯並びを揃えようとするのもいいけれど…
八重歯のような選手を残しておける懐の深さを持つこと、八重歯のような選手がいつまでも尖っていられるようにすること。
さらにその八重歯を磨いて鋭さを増していけるような、そんな環境をつくること。それが、日本人が日本人を指導する時に、絶対に忘れてはいけないことだと思うのです。

そこを強く肝に応じておかないと、僕らはたぶん無意識に、端整しようとしてしまうから。
Japonês…!

 

(この記事は、筆者が持つBlog『We can be adlibler 』にて2016年1月29日に掲載した内容に加筆、再編集したものです)

 

 

相手を怖れる強さ

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25日に行われた総合格闘技イベント「RIZIN」を観て思ったことなんですが

レスリング元世界王者・山本美憂総合格闘技デビュー戦。相手はシュートボクシング無敵の女王・RENA。

山本美憂からすれば、ヘタにタックルに行けばカウンターでヒザが飛んでくるし
RENAからすれば、ヘタにパンチやキックを出せば潜られてタックルを受けるし

という、ギリギリの間合い勝負。このヒリヒリ感、観ていて本当に痺れた。
お互い相手の実力や実績を認めてるからこその、この間合い勝負だったと思うんですよ。相手をリスペクトしてるからこそ怖れるし、怖がる。だから尚更この相手に勝つにはどうすればいいかと必死に研究し必死にトレーニングしてきた同士にしかわからない空気感が、2人の間には流れていたような。


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(C)RIZIN FF

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(C)RIZIN FF

絞め落として勝った瞬間、何かから解放されたようなRENA選手の顔が印象的。

このように、スポーツには必ず『相手』が必要なわけで。

自分達さえ良ければいいってものじゃない。自分達さえ楽しめればいいってものでもない。相手がいることを認め、相手の力を認め、でも勝ちたいから、この相手を上回るために、自分達の良い部分を出そうというのが健全な姿だと思うんですよ。それが例え育成年代でも。

良い試合にするには、試合をしている双方の協力が必要。お互いの良さをリスペクトしてる同士じゃないと、お互いの良さも引き出し合えない。

まるで相手がそこに存在しないかのように自分達だけで楽しみ、盛り上がり、イキって終わる。そしてあげくの果てには、相手をバカにする行為まで繰り出す。
それを、個性だの技術の拘りだのと勘違いし強がっているようなチームが(指導者が)最近増えてきてると思う。自分の肌感覚ですが。

そんな技術も拘りも、偽物です。

最近こういうチームに遭遇することが多く、自分なりに思うところもあったので、RENAと山本美憂、この両者の潔い姿になおさら感動したんですよね。

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(C)RIZIN FF

 

(この記事は、筆者が持つBlog『We can be adlibler 』にて2016年9月28日に掲載した内容に加筆、再編集したものです)

失敗を怖がれ

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僕ら指導者は、よく選手達に対して「失敗を恐れずに」とか「失敗してもいいから」なと、つい言ってしまう。
でも最近、それは間違いなんじゃないかと僕は思ってます。これ言い過ぎるのは、無責任だとも思うようになった。

人間は皆、弱いし臆病。誰だって失敗は怖い。だから「失敗を恐れる、怖がる」ことは決して恥ずかしいことじゃない。
失敗を恐れながらプレーすること。その恐怖は次のステージに行くための大きな壁。でもその壁を自分で打ち破ることこそが、本当の習得、上達、成長なのだと思う。

「失敗をしたくない」から「何もしない」のではなくて
「失敗をしたくない」からこそ「何が何でも成功させる」という強い気持ちに置き換えられるように。

失敗してもいいや、という軽い気持ちでチャレンジし例えそこで成功しても(その成功体験も時には必要だけど)そればかりでは、本当の習得、上達、成長には繋がらない。

「何が何でも成功させる」という強い意志のもとでチャレンジし成功した技術こそが本当の技術であり、本当の成功体験なんじゃないか。

だから僕ら指導者は
「失敗してもいい」でもなく「失敗を許さない」でもなく、失敗を怖がり恐れるのは当たり前、でもその恐怖に対し、勇気と冷静さを持ってチャレンジしろ、というスタンスでいたい。そこに打ち克つ技術とメンタルを、日常のトレーニングで身につけさせてあげるべきだろう。

でも、失敗は誰でもする。必ずする。だからその失敗は、他の味方がカバーする。あいつはこうなると失敗しそうだな、この持ち方になると危ない、というのは相手選手よりも味方達の方が知ってるわけで、だからこそ、相手よりも早くサポートできる。それがチーム。
そのチームワークも発揮できるように、指導者は導いてあげないといけない。


リオ五輪決勝、最後のPKを蹴る前のネイマールの表情、めっちゃキョドってたでしょ。全然自信満々でもないし、リラックスなんて当然していなかった。失敗するわけにはいかない、絶対に成功させなければいけないという、とてつもない恐怖と戦っていた表情。

僕はあの場面でネイマールは外すと思っていたけれど、彼は見事に決めた。
恐怖と重圧に勝ち、解放されたからこその、あの涙だったんじゃないかと思うんです。

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あのキック一本を成功させたことで、彼は今よりもう一段上の、違うステージに這い上がって行った。

今回のリオ五輪、他の競技を見ても、本命と言われてそのまま勝ち切った選手達、絶体絶命の苦境に立たされてから大逆転した選手達が、日本選手にもたくさんいたじゃないですか。
彼ら彼女らを「メンタル半端ねぇ」で済ますのではなくて、たぶんあの人達は常に失敗を恐れ怖がりながら、でもその恐怖を「何が何でも」というモチベーションに替えて、これまでトレーニングしてきた人達なんじゃないかなって思うんです。

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ネイマールやオリンピック選手と育成年代の選手を一緒にするなと言われそうだけど、無理強いにならない程度に、日常の基準を上げていくことは絶対に必要だと思う。ピッチ上のどんな場面でも。それが、近年流行りの「インテンシティー」という言葉を表す本当の意味なんじゃないかなと思います。

その習慣は、普段からつけないといけない。でもそれがストイックになりすぎたり強迫観念を与えないように、できれば笑いながらやれるくらいの雰囲気でやってこそ、一流のコーチ。自分もそうなれるように頑張ります

 

(この記事は、筆者が持つBlog『We can be adlibler 』にて2016年8月24日に掲載した内容に加筆、再編集したものです)