Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

上達への近道は、別腹の時間をつくること

f:id:neutralfootball:20170622124253j:image

自分はサッカーコーチだけれど、家に帰ればサッカーのことはほとんど考えない。
サッカーが仕事になっているからこそ、サッカー以外の生き甲斐や趣味に対して割く時間を、より大事にしたい。

最近はギターを買って、家に帰ればギターばかり弾いて練習してる。高校生の時に少しだけかじって以来だから、およそ20数年ぶり。大好きなBOØWYの曲を必死に練習して、指は痛いし肩も凝るけど、楽しくて楽しくて、全く苦じゃない。
自分の中に刻み込まれているメロディーを自分の指で再現できる幸せ。夢中に弾き続けて、気づいたらいつも真夜中になってしまう。

没頭すると、ついつい時間を忘れてしまう。これは音楽やスポーツに限らず、どんな趣味でも同じだろう。
僕らが子供の頃だって、時間を忘れて日が暮れるまで公園で遊んでた。そこに大人の干渉も関与もないし、もちろんコーチもいない。こうしなきゃいけない、なんて理屈っぽい概念だって無縁の時間だ。

何が言いたいかというと
『トレーニング、習う、レッスン、スクール、セレクション、◯◯しなきゃいけない、サッカーとはこういうものだ、etc … 』
これらのような響きとは一切無縁の時間と場所が、今、日本でサッカーをしている子供達にはもっと必要な気がする。

教えたがり、関与したがりな大人達に囲まれ、最近のサッカーキッズは概念づけられ過ぎ、縛られ過ぎな子が多いですよ。ありきたりな表現だけど、金太郎飴が多い。

このままだと…強化うんぬん言う前に、文化としてのサッカーも根付かない気がするけどな。競技としての選手人生を終えた時、心が疲弊してサッカーから離れてしまう、サッカーとは距離を置きたくなる人も多くなってしまいそう(あくまでも主観だけど)

さて、ギターが楽譜通りに弾けるようになると、次は弦を押さえる左手の指をもっと効率よく動かせないかという模索を始め、楽譜よりも自分の耳に忠実になって、楽譜通りに弾く必要がなくなり、楽譜から離れられる。
弦の押さえ方、弦の弾き方、抑揚の付け方 … に、自分のアレンジを加え始められる。

古武術の甲野先生が仰っていたように、教えられたことではなく、自分で見つけたことだけが会得できる。自得こそ会得。この言葉を、ギターで実感する日々。

技術を習得し自分のものにする過程という点では、ギターもサッカーも同じだ。

「ギター教室」に通って、一から十まで先生に教わって…だったら、こうはいかなかっただろう。先生の言葉に忠実になって、ここまで毎日楽しく弾くことはできないかもしれない。
会得できるものも、今より圧倒的に少ない気がする。

自主的に練習すること = 自主練。自分で主体性をもって練習すること = 自主練。

自主練は別腹だ。
いくら満腹になって苦しくてもデザートは食べられるように、いくらチームの練習(仕事)で疲れたとしても、その後に自分の意思(意志)とペースでやれる自主練ならば、疲れを感じない。そしてこういう時間に、自分だけの発見があり、自分だけの色を付けられる。

焼肉を食べる時、女子がよく言う。肉で満腹になったとしても、肉と肉の合間にデザートを挟むと、また肉が食べられるって。
女子の言葉は真理だ。実に深いぜ。

 

自分が監督をしているクラブ(スエルテ横浜)では、毎週金曜日の練習は全体練習を一時間半で終え、その後の30分を自由時間にしてます。帰ってもいいし、仲間を募ってゲームの続きをしてもいいし、自分一人で練習してもいいし、ただただくつろいでいるだけでもいい。

その前の練習でクタクタになるまで真剣勝負のゲームをして体力は尽きているはずでも、その「自由時間」になると、また何故か全快Maxでみんな走り回ってる。

この姿が、きっと真理だろう。縛られてない時間の姿。

 

自主練に限らず、練習でかかってくる疲労の違いは、心理的な要素がかなり大きいと思う。

心が縛られているか、縛られていないかの違い。これが一番大きいのではないか。

いくら有名なコーチがレッスンしたとしても、そのコーチの理論だけを一方的にやらされる練習では心が疲労する。その通りにやらないとその都度「コーチング」されてしまうから、心は縛られ、自得どころか、そのコーチに合わせることがまず最優先されてしまう。
こういうの、よく見る光景だ。

心が縛られない場所でサッカーをすることが、上達への一番の近道だと思う。そんな場所を、僕ら大人がつくれるかどうか。

 

f:id:neutralfootball:20170622160101j:image

いや、まぁ「つくる」とか言ってる時点ですでに過干渉なのだけれど、僕らのようにコーチと名乗る以上は、その場所をいかに自然な形で提供できるか、がこれから問われるのだと思う。いろいろ制約の多い時代。今の子供達は、僕らが子供だった頃より間違いなく忙しい。

子供達にとって、せめてサッカーだけは時間を忘れて没頭できて、自我を解放できて、自分のやり方を見つけられる存在であってほしい。

 

f:id:neutralfootball:20170622124323p:image

自分のクラブがそんな場所になれているかと言われれば、まだ自信を持ってYesとは言えないけれど、、(がんばります)