Daisuke Kubota 〜 Neutral football

Footballで社会をつなぐ。現実の殻を破る。日常を笑い飛ばそう

結局すべては人。だから信用できない

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最近話題になった教育勅語について。

まず「教育勅語には良いことも書いてある」とか言う人は、教育者としても指導者としても、失格だと僕は思う。

文章には「前提」というものがある。書く側の立場をもとに、こういう結論に持っていきたいという前提。その前提次第で、同じ文言でもまるで違う意味になり、誰がどういう意図で書いたかによって、その文章が持つ意味合いは大きく変わってくる。

どんな文章でも、例えそれが同じ文章だとしても。
「誰が」何の目的で書いたか、その文脈、行間、前提。そしてそれを「どういう人達」が利用し、企み、広めようとしているかによって、まるで違う文章になってしまう。

文章とはそういうものだ。文章だけでなく、言葉もそう。言の葉は、誰が発するかによってその意味合いが変わってくるものだ。

そこを理解できず、ただその中で書かれている枝葉の部分だけを切り取って文章全体を擁護しようとしてる人は、子供に関わる大人としてはかなりイタすぎる。
それとも何か他の意図があるんじゃないの?と勘ぐられても仕方ない。

最近、作家の高橋源一郎氏が教育勅語を現代語訳したTweetが、少し話題になりました。
以下、ここに引用します ↓↓

教育勅語
「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね」

教育勅語
「きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです」

教育勅語
「その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと」

教育勅語
「そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません」

教育勅語
「もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください」

教育勅語
「というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです

教育勅語
「いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです」

教育勅語
「そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。以上! 明治二十三年十月三十日 天皇

以上です。
もちろん高橋源一郎氏が教育勅語に批判的な立場であることを差し引いて見ることは必要だけれども、しかし、上記はほぼ間違っていない現代語訳でしょう。

つまり教育勅語は、いざとなれば国のため天皇のためにお前ら臣民は命を差し出せよ、
だからそのためにも普段から慎ましい生活を送り、徳のある人でいるんだよという、権力から国民(臣民)へと与えられた都合のいい「ご下命」と「余計なお世話」なトンデモ文章なのだ。

だいたい家族や友達を大事にしろとか夫婦仲良くとか勉強しっかりしろとか、大きなお世話やねんという話。そんなの誰だってわかってるし、いちいち国から言われる筋合いのものではない。

昔、これは誰が何のために書いたものか
昔、これをどう利用していた人達がいたのか
今、これをどんな人達が再び利用しようとしてるのか。

これらをよく考察しないといけない。

そんな文章をいまだに(今さら)擁護しようとしてる人は、お上からの「ご下命」がよっぽど大好きなコンフォーミストか、自分が生きてもいなかった頃の幻影に愚かなノスタルジーを感じる、かなり残念な人なんじゃないのか。

さて
「今の憲法はみっともない、いじましい憲法だ」
こう言い放ったのは今の日本国総理大臣・安倍晋三氏。さて、どっちがみっともなくていじましいだろうか。お前が言うなよと僕は思う。お前の方が余程みっともなくて、いじましいじゃないかと。

安倍晋三は史上最低の総理大臣であると僕は確信しているけれど、それについては次回たっぷりと書くとして、こういう軽薄な人物が政権を司っている中では、この男がどんな美辞麗句を並べようとも信用はできない。例えばこんな輩とその取り巻きに「共謀罪」という刀を与えたら、どんな目的でそれを使うかは、もう想像に容易いわけです。

そんな安倍晋三の周りにはたくさんの輩がいる。類は友を呼ぶ。バカはバカを呼ぶ。

自主避難者は自己責任、裁判でも何でも起こせばいい」と言い放った復興相がいたが、
さらにこの男は「震災が東北でよかった」というトドメまで刺して辞任していった。

警官による「土人発言」は差別ではない、と冷徹に言い放った沖縄担当相はまだその職に留まったまま健在だ。
「戦争は人間にとって霊魂進化の最高の宗教的行事」「国を護るために国民は血を流すべき」「国民の生活が第一なんてとんでもない」とまで言い、しかしまともに答弁もできない極右の人物が防衛大臣。さらにこの防衛大臣の夫は、軍事産業企業の株式を大量に保有してる。

そんなのばかりな集まりが「教育勅語を教育現場で使うのは問題ない」と、わざわざ閣議決定までしちゃった。もうこの人達、完全な末期症状です。

誰がその文章を書いたのか
誰がその言葉を言ったのか
誰がその法律を立案し、施行しようとしてるのか
誰がそれを利用しようとしてるのか
etc…

大切なのは人。人が全てを動かす。その「人」の集まりとして、今の政権は致命的に信用できないのだ。だからこそ僕はこういう文章を書いてる。そしてこれこそ、この文章の前提そのものである。


最後に繰り返す。
同じ文章でも、文脈、行間、前提の解釈、そして
「誰が」何の目的で書いたか、またそれを「どういう人達」が利用し、企み、広めようとしているかによって、まるで違う文章になってしまう。

教育勅語も、日本国憲法も、このコラムも。