教育をはじき返す野生の力
前記事では、美智子妃の言葉 を紹介しました。
引き続き、今回も
『 丘の上のバカ 〜 ぼくらの民主主義なんだぜ 2 』(高橋源一郎 著)より。
わたしは、自虐教育が子供達の心を蝕んだというのは明らかに事実誤認だと考えている。なぜなら 子供達は「教師の話なんか聞いていないから」である。
それが自虐史観であろうと愛国教育だろうと、子供というのは、先生の話をマジメに聞いたりはしない。そういう話を先生がしていると「あぁ、早く退屈な授業が終わらないかなあ」と考えるものなのだ。
それでいいのだ、と思う。
大人達が躍起になって何かを教え込もうとしても、子供達は聞く耳を持たない。なぜなら、この世の中にはもっと楽しいことがあって、それは「授業が終わった後」「学校の外」に存在していることを、彼らはよく知っているからである。
この「大人によって教えることのできない」子供達の性質を、鶴見俊輔さんは
「教育をはじき返す野生の力」と呼んだのである。
わたしには、なぜ百田さんが子供達を信頼できないかがわからないのである。百田さんにとって子供とは、外から教育されるとすぐそれを信じてしまう「おバカちゃん」であるようだ。それは子供達に対して失礼なことだ、とわたしは思う。
安倍さんや百田さんやわたしが束になって立派なことを教えようとしても、子供達は、やはりつまらないと感じるだろう。わたしにとって、希望 とはそのことである。
トム・ソーヤーの物語は、アメリカ文学にとって永遠の名作、アメリカ人たちが必ず戻る故郷となった。それは、彼らが 教育によって変えることのできない魂 の象徴だったからである。
『 丘の上のバカ 』
このタイトルは、いうまでもなく、ビートルズの名曲( The fool on the hill )に由来するが、その「丘の上のバカ」とは、地動説の発見者、ガリレオ・ガリレイのことだとされている。世間の指弾を浴びながら、バカと罵られながら、彼は一つの真実にたどり着いた。そのエピソードを聞いたとき、わたしが思い浮かべたのは、異なった時代の、異なった「丘の上」にいた「バカ」ものたちのことだった。
『ハックルベリーフィンの冒険』は、アメリカでは聖書と並んでもっとも読まれてきた。そしてその主人公「ハック」は、仲間のトム・ソーヤーと同じく、どんな型にも染まらず、学校や社会や体制からははみ出す少年だった。世間や先生や親が喜ぶ「いい子」などではなく、勉強が嫌いで、イタズラが大好きな「バカ」ものだったのだ。
自由を求め、どんな批判にも屈することなく、ただひとりで世界に漕ぎ出してゆく「ハック」の姿こそ、アメリカ民主主義の背骨を支えるものだった。
またどこかに新しい「バカ」ものが現れるとするなら、彼らこそが、来るべき「民主主義」の担い手なのかもしれない。
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子供達は僕らの希望であり、未来そのもの。思惑を持った大人達が彼ら彼女らをいかに教育しようとしたって、きっと最後の最後ではじき返される。それでいい。
子供達が持つ「教育をはじき返す野生の力」を僕ら大人が信じ、守り、そしてそれを操作しようとする濁った大人達とは、まずは「こちら側」にいる僕らが、戦っていかなきゃならない。
サッカーだって一緒。教えようとしたってはじき返される。操作しようとしたって、ますますそっぽを向く。教えようとし過ぎるとますます下手になり、いずれはサッカーを嫌いになっていく。
サッカーは自由なスポーツということを彼らに伝え、本当の自由って何なのだろうということを、彼らが自ら見つけて掴む手助けをしていくこと。
そのためにも、まずは大人達がもっと自由にならないとね。
技術や戦術を教え込む前に、もっと大切なことがあるだろう、ということです。