Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

運動神経よりも、自信があるかないか


優勝後の、ロンダートからのバック転(2018.3.4)

 

近頃よく思うのだけど、
子ども達に対し、俗に言う「運動神経がいい」「運動神経が悪い」という言い方や評価の仕方はあまり正しくなく、結局のところは

「自信がある」のか「自信がない」のか。

と、いうことのような気がしてる。

それは決して運動神経の話だけではなく、流行りの「インテンシティー」とか「デュエル」とか…
相手に対してだったりボールに対して、強く行ける、行けない、云々の話もそう。
得てしてそこが物足りない子に対して「もっと強く行けよ」とか「気持ちが足りない」とか言ってしまう指導者がまだまだ多いと思うのだけれど

そう簡単な言葉で片付けてしまう前に、まず「この子は自信がないんじゃないか」と視点を変えてみると、大抵は合点がいく。
声出せー!とか言う人もまだたくさんいるけど、自信がないのに声なんて出せるわけないよね。どんだけドSなんだか。

自信があるから躊躇なく行けるし
自信がないから躊躇してしまう。

そりゃそうでしょと。

 

そうなると話は簡単で、つまり大事なのは、自信をつけさせること。

サッカー以外のこと(なわとび、相撲、絵など)を褒めたことをキッカケに、サッカーが急に上手くなっていく子、積極性が急に出てきた子を、今まで何人も見てきた。

彼らが急激に変わっていったロジックは、きっとそういうことなのだと思う。

 

結構前の子の例ですが
それまでまるで積極性もなく、ボールも受けようとせず、そばにいる相手のボールすら奪いにも行けなかった子が、夏合宿の遊びで相撲大会をやったらまさかの優勝。
その日から、彼のニックネームは「横綱」になった。

若干8歳で横綱に就任した彼は、案の定そこからサッカーにも俄然やる気を出し、積極的にもなり、練習を休むこともなくなった。

 

今年になってうちのクラブに入ってきた1年生の子は、サッカーの他に体操教室にも通っていて、ロンダートやバック転もできてしまう。
当然、身体の動きもしなやかだし、反応も格段に早い。恐怖心もないだろうからこぼれ球やそばの相手に対してもガンガンいけるし、練習のたび、試合のたび、どんどん上手くなっていく。先日飛び級で2年生の大会にも呼んだくらいで、そこでも千両役者ばりの大活躍で、優勝に貢献してくれたような子なんですが

彼を見ても、その上達ぶりやパフォーマンスは「運動神経」で片付ければ簡単だしおそらくそれも正解なのだろうけれど、それ以上に、とにかく「自信満々」だなって。
バック転できれば、そりゃ自信持つよね。。

 

サッカーじゃないものでも何でもいいから、自信をつけさせる。
子どもの頃から、いかに成功体験を積み重ねさせてあげられるか。

ジュニア年代に携わる指導者にとっては、ここが一番肝のような気がしてます。
何かを教えることよりも、大事なことなんじゃないかな。

 

大道芸を練習していた人のこと

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世田谷区と杉並区の境目あたり、住宅街の中に突如現れる広大なグランド。
ここは予約も要らず利用料金も要らず、制限もなく、そのかわり利用者同士お互いに譲り合いながら使ってくださいね、という場所。

だからうちらみたいにサッカーしてる団体もいれば、一人でボール蹴ってる大人、フットゴルフの練習に使う人、野球、バドミントン、その他の種目…
はたまた
幼稚園に子供を迎えに行った帰り、お母さん同士がシート敷いて喋ってたり、おじいちゃんが散歩してたり、カップルがイチャイチャしてたり…という、
なかなかにポジティブカオスな空間なわけです。

で、この日は
うちらがサッカーしてる向こう側に、大道芸でよく見るやつ「中国ゴマ」?のような芸を練習してる人がいた。

調べたら、正式名称「ディアボロ」っていうらしい。
これを、子ども達がキャッキャとサッカーしてるそばで、あの人が黙々と、一心不乱にずっと練習してたわけです。

リフティングだったりドリブルだったり、個人技を多発する選手のことを「あんなのサッカーじゃない、サーカスだ」とか
「大道芸だ」と、斜め上から嘲笑するようにバカにする大人が、サッカー界には多数いる。特に指導者界隈。

そういう、何かを(誰かを)ネガティヴな例に出して何かを(誰かを)バカにしたり「そんなの意味ないよ」などと一刀両断してしまう大人など、指導者の資格がないと僕は思っている。それは別の機会に書くけれど

「あんなのサーカスだ」っていう言い方はサーカスのことを舐めてるよね。あれ、命がけじゃないですか。失敗したら死の危険と隣り合わせ。
ピエロの人だって涙ぐましいトレーニングをしてピエロを演じてるし、動物だって命がけ。それを訓練している人達だって、命と向き合いながらやっている。

でもサッカーは、命がけじゃなくてもできます。普通にできます。苦労なくできます。
死の恐怖と隣り合わせなんてことは、ほぼない。

大道芸の人は、街に出て、そこにいる人達に目を止めてもらってなおかつ芸を評価されないと、一銭もお金をもらえない。
普段、見えないところで必死にトレーニングを積んで、街に出てくる。この日ディアボロを練習してたあの人だって、きっとそうでしょう。

そんなことを、少しゲームの内容が緩くなってきた子ども達を集めて話しました。

どんなプレーが好きでも、どんなことをやりたくても、それは別にいい。でもそれが好きなら、それをやりたいのなら、君達にとっては今この時間がそれを必死に練習する時間なわけで
時間が限られてるし、無駄に過ごすのはもったいない。あの人を見れば分かるだろう?と。

言わずもがな、その後のゲームはガラリと変わり、最高の雰囲気になった。
ディアボロなあの方に感謝しないといけないな。

 

 

攻撃と守備の概念は逆じゃないのか

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Offenseを「攻撃」Defenseを「守備」と訳し、その文字の見た目と響きのままに解釈してしまっているから、日本のサッカーは、ちょっと厄介なことになってる。

言葉をひっくり返そう。

「攻撃」は、こちらがボールを持たない時。
相手のボールを攻めに行く。

「守備」は、こちらがボールを持った時。
文字通りボールを「守」りながら、ボールが相手に渡った場合にも「備」えつつチャンスを伺い、
相手の間をすり抜け、かいくぐり、虚をつき、上をゆく。

ゴールは攻めるものではなく、陥れるもの。

攻撃だ、行くぞー、進むぞー、となるから緩急ないサッカーになるし、守らなきゃ…となるから、腰が引けてボールを奪いに行けない。

そんな話を、今日の練習にて子供達に話しました。

ボールのない時が攻撃
ボールのある時が守備

この概念で子供の頃からサッカーしたら、日本サッカーはひっくり返るんじゃないか。

そんな妄想してます。そしてそれを自分の手で証明したい。

井の中の蛙

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先日行われたU-12の県大会にて

あの試合、特に後半うちの選手達は相手に対し今までにないくらい激しく強い寄せをずっと繰り返して、それが後半の失点ゼロに繋がったのは間違いないのだけれど、少し遅れてアフター気味に行ってしまったり、気持ちが抑えきれずに相手のシャツを引っ張ったり…みたいなファールをしてしまうことも、しばしば。
その場合はもちろん、笛を吹いてもらって一向に構わない。当たり前だ。

けれど、ただ強く当たって相手が倒れるとか、それだけでピッピピッピと笛を吹かれることには、やはり到底納得できない。しかも主審の方はいつも歩いていて、遠くでその競り合いを眺めて、競り合いで倒したらゆっくり笛を吹いてばかり。前半1失点目のFKだってそうだ。あれのどこがファールなのか。全く馬鹿らしい。

また、後半に吹かれたあるファールに対し、試合後の整列時に「故意で悪質」と断罪してうちの選手に対し主審が諭していたらしいが、走りもせずルールも理解せず、ピッチ上の警察官気取りで偉そうに教育ぶって、うちの大切な選手に対し何か言うのはやめてほしい。言われた選手はどれだけ傷つくと思っているのか。

あんなに遠くから見て、なぜ「故意」と断定できるのか。全く意味がわからない。アナタは視力6.0のサンコンさんなのか。選手の頭の中を覗けるエスパーなのか。
選手を馬鹿にするのも、いい加減にして欲しい。

審判をリスペクトしましょう!とかよく言われるけど、本気でやってくれている人なら、例えそれでミスジャッジをされても、何も言わないし何も思わないし、リスペクトして試合に臨むのは当たり前。
しかしサボって不勉強で尊大で、しかも偉そうに教育者ぶってよその選手に説教垂れる人に対し、リスペクトなんかできるわけないでしょう。

あの主審も含め、うちの選手達のプレーを「荒い」とか評する人の、その眼力こそが荒い。

うちの選手達は昨秋に前橋でオーストラリアや韓国のチームから「本物の戦い」を挑まれ吹き飛ばされ、砂にまみれて「本物のフットボール」の片鱗を知り、それを機に、前橋が終わってからも激しく強い当たりを自分達で習慣づけて、当たり前の基準を上げてきた。

それを「市」とか「区」の狭い地域だけで「公式戦」とか呼び喜んでいる井の中の蛙のような人達が、何も知らないくせに「荒い」とか言っちゃう滑稽さ。
FAリーグでも、そういう声は何回も聞こえてきた。倒れたらすぐ「おいー!」ってベンチが叫ぶチームもいたね。

そういう人達はもう一生、そのちっぽけな世界だけで楽しんでればいいじゃないか。
こっちの世界に口を出さないでくれ。

こういう大人が偉そうに楽しんでいる光景は、本当に虫唾が走る。そして、こんな人がまだたくさんいるのが「公式戦」という場所。

日本サッカーを本当に強くしたいのなら、こういう大人を淘汰していかないと、いつまでたっても日本は井の中の蛙のまま。

だって、井の中の蛙が指導者をしているのだから。

なぜ日本は子どもを練習漬けにしてしまうのか?燃え尽きる高校生が出る理由

スポーツメディアのVICTORYさんからご依頼を受け、書かせていただきました。

victorysportsnews.com

あくまでも現場で感じるものを書いたので、一概に「少年サッカー」を全て括って批判しているわけではないのですが、この記事が届いてほしい人は、身近にも遠くにもたくさんいます。

 

おかげさまで「Yahoo!スポーツ」で1位…
バレーボール界のレジェンド・大山加奈さん、そして総合格闘技界のレジェンド・佐藤ルミナ選手にも、記事を拡散していただいたようです。

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たくさんの人に読んで頂けるということは、そのぶん反発も多いはず。しかし議論が起こることで初めて変化も生まれるのだから、それも含めて、皆さんからの反応が楽しみです。

日本はサッカーさせ過ぎです。
この記事でかなりの波風は立つでしょうが、このまま波が立たないよりは全然いい。大波が向かって来るのなら、波乗りを楽しんでやります。
全て大人の問題なのだから、変えていくのも大人の義務。僕らの義務です。

 

本能を探り起こす言葉があるのかもしれない

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以前、こんな記事を書きました。

この記事内でも書いたように、言葉選び一つの違いで、子ども達への伝わり方はまるで変わってきてしまう。

僕ら指導者、つまり「人に何かを伝える」立場にある者は、言葉選びが最も重要な要素ではないか。もちろんそれで失敗することのほうが、圧倒的に多いのだけれど。

 

最近の話をすれば

「奪いに行け」
と言ってもなかなか行けず、相手との間合いを詰められず
もしくは
相手の状態も見ずにただただ突っ込んであっさりかわされてしまうケースが多いのだけど

でも
「邪魔しに行け」
って言うとなぜか途端に出足が早くなり、相手が嫌がる間合いまで激しく詰めて、なおかつ、簡単に抜かれない最強の「邪魔な位置」に行けて、結果、ほぼ奪える。

「奪う」ってことはボールを奪うことしか目的がないけど
「邪魔する」ってことは、目的が奪うだけにとどまらず、多岐に渡ってくる。
自分でサジ加減を図れるからこそしなやかに動けるし、自分だけの間合いを見つけられるのかなって。

これはひょっとしたら、眠っていた野生動物の本能の部分なのではないか。
そんな動物的本能を探り起こす言葉がきっとあるのかもしれない。最近そう実感しているのです。

あと最近よく使うのは「遊び半分」てワード。
遊び半分。スポ根な人からしてみたらこの言葉はネガティブな響きに感じる人も多いかもしれない。「遊び半分でやってんじゃねぇよ!」的な。

けれど、サッカーって元々は遊びなはず。もちろん必死にやらなきゃいけないところもあるからこそ、この「遊び半分」て言葉は、サッカーやるには実に適した、いい言葉だなって思ってます。

遊び半分でやれ。ダラけ半分やふざけ半分では困るけど、遊び半分なら最強だぜって。

あ…ちょっと待てよ、半分じゃなく3分の1くらいにしとくか。
【遊び、冷静、必死】常にこの3つを自分の中で持ち合わせながらやろうよって言うと、途端にプレーが変わります。

必死さ全開!前へ前へ!という感じでゆとりのカケラもなかったような子が途端に止まったり、歩きながらプレーをし出したり…
あと不思議なことに、味方と相手の動きをすごく見極めるようになって、プレーに幅が出てくる。え、そこ観えてたの!?というパスも増えてきたり。

そう、遊び、必死、冷静 というワードを手に入れると、感性の豊かな子は味方の「遊び」を感じ取り、その遊びに協力して相手の裏を取ったり、わざと寄っていってトリックに参加したり、ノールックパスの受け手になり始めたり。
遊びは一人じゃつまらない、みんなで遊ぼうぜ、っていうチームワークが生まれてくる。

これら、スエルテの子達で実証済みです。

 

言葉の威力、魔力、そして怖さも。
僕らは、子ども達に教わっているのだ。

 

最後に再び、デビッド・ボウイの言葉を。

表現主義とは、人生というものを具体的な形ではなく雰囲気で映し出すアートフォームなんだ。これこそ自分の進む道だと思ったね」

 

再び、今に見とけよの積み重ね

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『 今に見とけよ、の積み重ね 』

2014年6月、ブラジルW杯コロンビア戦に敗れ予選敗退が決まった後に書いたブログです。
来年のロシアW杯の初戦でまたコロンビアと当たるという、神様のイタズラな巡り合わせに、思わず再掲。

あの時に思った「今に見とけよ」は、いちファンとしてではなく、日本に生きるサッカー人としてのもの。上記のブログ内にもあるように、過去に味わい続けた「今に見とけよ」の想いが積み重なってあのブラジルまで辿り着き、そこでまた新たな現実を突きつけられたのは決してザックジャパンだけでなく、僕ら日本中のサッカー人すべて。
この国のサッカーの歴史、文化、土壌、現状、現実…それらすべての代表として、彼らが戦っていたわけだから。

あの時は、初戦のコートジボワール戦がせっかく日本時間で日曜の午前中に行われるというのに、その時間に子ども達の試合や練習を組んでしまう大人達がたくさんいて。
いろんな方に協力をしてもらいながら「子ども達にリアルタイムで観せよう」キャンペーンを大々的に張ったら、全国津々浦々、各方面から罵倒、炎上、嘲笑、冷笑の嵐。

当時、大反響をもらったブログ ↓↓

suertedream.pokebras.jp


いいね!が4855人…汗

この時は、関西の某連盟会長からは「オマエ」呼ばわりで罵倒もされたっけ。
あぁ、所詮この程度のサッカー文化の国が勝てるわけないよねぇ、という諦めの気持ちも、どこかにあったりした。

あれから3年半。僕らがどれだけ進みどれだけ差を詰めたのか。もしかしたらさらに差を広げられてしまっているかもしれないけれど。
ハリルさん率いる日本代表は
「今に見とけよ」の想いを持ち続けてそれぞれの現場で生き続けた、僕らの代表でもあるのだ。

だから、応援するのは当たり前なんです。何度でも繰り返すけれど
だって僕らの代表なんだから。