Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

ちゃんとさせたがりな大人達

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ジュニアサッカーの現場では、ちゃんとさせたがり 、な大人達によく遭遇する。

例えば試合前のメンバーチェックで、うちはユニフォームの『シャツ出し』をいつも注意される。熱中症対策のためにもシャツ入れはもうしなくていいルールなのだが、未だに多くの試合会場で「シャツ入れて」と言われる。もういい加減やめてほしい。
うちは背番号の下にクラブのキャッチフレーズ入れてるし、いい迷惑だ。

「子供にはマナーを教えないといけない」という人が必ずいるのだけれど、そのマナーはその方の嗜好なだけであって、それを押し付けるのは甚だ間違っていると、声を大にして言いたい。逆説的に言えば、そういう人は子供達に関わる大人としてのマナーが出来てない人だ。何が大切か、何を最優先すべきなのかを、根本的に理解していないんだから。

爪のチェックだって本当はしなくていいルールなのに、まだ「ハイ、爪見せて」と偉そうに言う人がいっぱいいる。

先日の試合でも、副審の人がうちの子達の爪を嬉しそうに念入りにチェックしたあげく
「うーん、長いな」「爪、長い子が3人もいるので切らせて下さい」とか言ってきたので
「もう爪チェックはしなくていいはずですけど」って言って断わったら、その時はアッサリ引き下がってくれたので良かったけれど。

ちゃんとさせたがる前に、大人ならもっとルールを勉強するべきだと思います。
子供に対しては、ルールだのマナーだのとうるさいくせに。

ちゃんとさせたがるから、試合でもピッピピッピと笛を吹きたがる。あわよくば吹いてやろう…、と、ピッチ上の警官になりたがって試合の邪魔をしてしまう人が、試合の邪魔だけでなく、ジュニアサッカーのレベルを上げる邪魔までしている。

良い指導者かどうかは、その人が審判をしている時の姿でわかります。
子供達を自分のペースで管理したい人なのか、子供達の邪魔をせず、自分は黒子に徹しようと努力する人なのか。

あわよくば粗を探してそこを突いてやろう…という気持ちが、その振る舞いや表情にそのまま出ている人、たくさんいるよね。

そういう人が、子供達からサッカー本来の楽しみを奪っているんです。

サッカーの現場だけでもかなりの頻度でこういう大人に出会うわけだから、学校でも社会でも、こうした「ちゃんとさせたがる」大人達が「良い子にしよう」「俺好みの良い子にさせよう」と、子供達の領域に踏み入って邪魔をしていることは想像に容易い。

子供達のことが好きなのか?それとも、そんな自分が好きなのか。

いい加減、気づいてほしいな。

再掲・このコラムを始めた理由

自分は久保田大介といいます。世田谷生まれの世田谷育ち、でも18年前に何のゆかりもない横浜でJrサッカークラブ・SUERTE juniors 横浜(現在はスエルテ横浜)を立ち上げ、代表とヘッドコーチを兼任しながら、今に至ります。

スエルテ横浜・オフィシャルブログ

We can be adlibler

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また、スエルテ横浜の代表という立場とは別に、神奈川県藤沢市の私立湘南学園中学校サッカー部、府中市の府中新町FCでも、コーチをしています。

このように、僕はサッカーコーチを生業としている人間です。

これまで、スエルテのBlog(http://suertedream.pokebras.jp)や、フットボールエッジ( http://www.footballedge.jp )内で書かせてもらっているコラムにて自身の想いや考えを発信してきましたが、だんだん、それらとは少し毛色の違う発信媒体を持ちたいという想いが強くなってきました。

僕はサッカーを語るだけの者ではいたくなく
サッカーをサッカーだけでしか語れない者でもありたくない。

自由を獲得し自由を謳歌し、自由とはどういうものかを子ども達が自ら考えて見つけるためには、サッカーが最強のツールだと僕は信じてます。
他者への承認、尊重、優しさ、いたわり。そして他者との連帯、繋がり。つまり多様性を信じ、守り、貫くこと。サッカーならば、これをより身近にリアリティーを持って体感し、意味を知り、得られるものなのだと。

社会の中で、サッカーをどうリンクさせていくか。そこに、僕は今とても興味がある。サッカーコーチとしての役割は子ども達を上手くさせることでもチームを強くさせることでもなくて(もちろんそれらの要素も少しは必要かもしれないけれど)

自由とは何か、優しさとは何か、人としての本当の強さとはどういうものかをサッカーを通じて子ども達に伝えること。伝えるだけでなくそれを子ども達が自ら感じ取り、学ぶ。そして彼らが大人になった時、他者、特に社会の中の弱者といわれる人達に対し、実際に行動を起こし救っていけるリベラルな人材を生み出すこと。

自分がサッカーコーチとして生きていく本当の目的はこれなのかもしれない。最近、そう強く思い始めてるのです。


それを自身の心の中だけでなく文字にも綴り、発信していきたい。共感してもらえるのならばそれは嬉しいことだし、アウトプットすることは、実はインプット。文字に表し発信しそのリアクションを知ることは、自分の中でもう一度整理をするにはとても良い機会になる。

 

育成 x リベラル x 連帯 x 笑い x 多様性 x ジャーナリズム・音楽

フットボールで、現実の殻を破る

フットボールで、社会の閉塞感を撃ち抜く

フットボールで、連帯の鎖を繋いでいく
フットボールで、あらゆる垣根を越える
フットボールで、笑いと希望をシェアする

 

社会に対し、サッカーコーチの立場から何ができるかを考え、それを発信したい。

言わずが花、自らの考えを表明しないことが美徳のような暗黙の了解、空気を読む、出る杭は打たれるといった日本の風潮。実際、ジャーナリズム精神を持つサッカージャーナリストやサッカー媒体を日本ではほとんど見かけない(けれど、木村元彦さんは尊敬しています)
ならば僕がここで、その一端を担いたい。

 

サッカーのことだけじゃない。日本では、政治や社会のことに対して、芸能人やスポーツ関係の人が自らの意見や立場を明らかにすることが何故かあまり良しとされない。CMは降板させられ、干され、お前は黙ってろ、日本が嫌なら出て行けと批判される。

実際、周りにもそういう人がたくさんいる。何も意見を持っていないのか、意見はあるけどそれをあえて示さないのが美徳だと思ってるのか。そして人を嘲笑する。どちらにしろ、それじゃダメだと思う。

 

サッカーだけ一生懸命やってればいいんだろうか。僕はそうは思わない。

 

嘲笑したいならすればいいし、皮肉りたいならすればいいし、斜め上から見てる自分が好きなら、ずっとそうしてればいい。

何も意見を示さない人達や、常に強い側や大勢の側にいて安心していたい人達のような、無機質な存在だけにはなりたくない。寄らば大樹の陰、虎の威を借る狐。勝ち馬に乗っていたいとか、ダサいんだよそういうの。

僕は面白おかしく生きたい。そして人のために生きたい。せっかくこの世に生まれてきたならば、自分が生きたことの証明を残したい。富や名誉や実績ではなく、誰かの心の中に残りたい。人と人の間に立って、少しでも、希望をシェアできるゆとりのある社会をつくりたい。その可能性を、広げていきたい。

頭で考えることより、心で思うことが大事。心の底から自然に湧き上がってくるのが本当の想いになる。僕は、自分のその想いに対し忠実に生きたい。

 

と、かしこまった堅苦しいことをツラツラ書いたけれど、出来るだけ面白おかしく、批判だけじゃなくユーモア精神も忘れずに、自分のペースでこれからやっていきたいと思ってます。

 

宜しければこちらもどうぞ

↓↓

 

 

サッカーコーチがギターを練習して発見したこと

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ギターを練習していて発見したこと。

なかなか弾けない難しい曲があった場合、その曲が弾けるようになるまで練習する…のではなくて、さっさとそれは諦めて別の曲に挑戦する。
で、その新たな曲が弾けるようになったり、すでに弾けるようになっている得意な曲をさらにうまく弾けるように練習して自信を深めると…

あの時に弾けなくて諦めていた曲を何日かぶりに弾いてみると…
あら不思議、練習もしてなかったのに、あっさり弾けるようになってしまっていることがよくある。これは僕自身で体感しているのだから、間違いない。

何かが出来るようになると、付随して他の何かも出来るようになってしまう法則。
そしてもちろんこれは、サッカーでも同じことが言える。子ども達のこういう「会得のプロセス」を、僕は今までに何度も何度も目の当たりにしてる。

自信をつけたからとか、身体が(ギターで言えば指が)動くようになったから…などとは別のロジックで、
この「会得のメカニズム」は証明できるんじゃないだろうか。たぶん。
誰か教えてえらい人。

最近で言えば、スエルテ横浜の某選手。
↓↓
・球際での強さを身につけたことから、一気に糸がほどけて
・ポジショニングの妙を見つけ
・オフザボールの質(ポジショニング、動き出すタイミング)が格段に上がり
・良いタイミングと良い状態でパスを受けれる、ボールを拾えるようになり、、
↓↓
もともとポテンシャルが高かったものの、それをいまいち発揮できずにいた能力が、最近ではいかんなく発揮できるようになってきた。
↓↓
・さらに自信をつける
・サッカーが楽しくなってくる
・もっと上手くなりたい
↓↓
彼は週に一回しか練習に来ないスケジュールなのだが、最近「練習日を増やしたい」と親御さんに言っているらしい。

何か一つ出来るようになっただけで、こうなる。

「あれもこれも!それ出来るまで次に進んじゃダメ」という練習のやり方がいかに非効率で、いかに無駄で、いかに意味ないか。
僕のギターと子ども達が、完璧に教えてくれている。

サッカーキッズ達へ
とりあえず、まずは何か一つだけ出来るようなればいい。
そこからは、糸がほどけるように世界が開けていくからね。

 

写真家 チェ・ゲバラが見た世界

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『 写真家 チェ・ゲバラが見た世界 』に行ってきた。

 

che-guevara.jp

僕の中でゲバラは「自由な人」の象徴。ゲバラこそ、自らの由縁に素直に生きた人。


キューバ革命に参加する前に旅した南米の写真や、キューバ革命を成功させカストロからキューバ国籍を与えられ、政府の要人になった後に世界中を外遊した際の写真もたくさん。
そして家族の写真や、ゲバラ自身の写真も。

キューバを追われた後のゲバラの顔は、どこか、この後の自分の運命を悟っているようで、穏やかにも見えるし、悲しそうにも見えた。

 

日本にも来て、原爆を落とされてから14年が経った広島にも訪れたゲバラ
その時の言葉
「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」


一旦スパイクを置いて、俺も世界中を旅したい。

 

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民主主義思考とパスの意味

先日初めて会った池川君が、教員生活で一度も教科書を使わなかったという樋渡直哉先生の「平凡な自由」という本をプレゼントしてくれたことを、前の記事で書きました。

 

neutralfootball.hatenablog.com

 

それを彼が樋渡先生にも知らせてくれたらしい。
そしてそれに対する返信が先生から届いたそうで、僕に教えてくれた。池川くんありがとう。

「久保田さんはおもしろそうな人だね。女の子に指導を任せて石拾いに専念する姿は映画のシーンのようだ」(樋渡先生より)

園児のお姉ちゃんに指導を任せた話を、Facebookかブログで見てくれたのだろうか。

suertedream.pokebras.jp

自分はチームを強くするとか選手を上手くすることよりも、彼らと過ごす日常の中で、たまに起こるふとしたイレギュラーな出来事に楽しさを感じて、その時間を共有できることに嬉しさを感じてしまうので、あの出来事を「映画のよう」と評して下さるところが、何だかとても嬉しくて。そんな風に言ってくれる人は、なかなかいない。

「サッカー関係者に民主主義的思考の人が多いのは、パスという動作のもたらすところだろうか。独占しない、パスした先の仲間を信頼しなければならない。」(樋渡先生より)

パスと民主主義的思考の考察。ここで言われているパスの意味(意義)を、僕は選手達にどう伝えるかというところにいつも重点を置いているので、何だか心が軽くなった気が。

先生はサッカー関係者に民主主義的思考の人が多い…と言ってくれている。
確かに自分の周りにはそういう人が多い。多様性を当たり前のように認め、サッカーを活かしてそれを伝え、選手達の個性や自然体を、最大限に生かそうとしている人。

正しさよりも楽しさ。整然よりも逸脱。少数派こそ希望、という視点。
この最低限のラインを、僕も、一生守り続けたい。

でも
そんな思考や視点からは正反対の人が、最近のサッカー関係者に多いのも事実。
全体主義を愛し、それを選手にも乱用し、多様性も逸脱も許さない人。
歴史を改竄しようとし、中国や韓国を蔑視し卑下する優生思想の人。そんな人が、自分の周りにも、SNS界隈にも最近増えている。

そういう人が、パスに込められる意味を理解できるのだろうか。
そういう人が、サッカーの本質を理解できるのだろうか。
そういう人が、子ども達にサッカーを指導できるのだろうか。

そういう人がサッカー関係者の中に最近とっても多い、という矛盾とも戦っていかなければならないのだと、最近特に、強く感じている。

樋渡先生、ありがとうございました。

 

 

平凡な自由

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『 楽しさに満ちていた学校が急に色あせて見え始める。
それでいいんだ。そのうち担任がくだらん凡人に見えてくる。それはもっとすばらしいことだ。君たちの人生から学校で習ったことを全部取り去ると、そこに残るのが君たちの人格と教養だ。君はいま、それを見に出かけるのだ 』
(平凡な自由)

先日、有坂さんの教え子、池川くんという青年に会った。イマイジーニョも呼んで3人で渋谷で飲みまくったけど、時間があっという間に過ぎるほどに楽しい時間だった。

高校の卒業式、答辞の中で教育委員会にメンチを切り、コスタリカなどを遊学して、沖縄の運動にも参加し行っているという。
実際会ってみたらやっぱり、良い意味で心が軽くてニュートラル、リアルリベラルなカッコいい男だった。

その日
「この本こそ、久保田さんに読んでほしいと思って」と池川くんがプレゼントしてくれたのがこの本。

「平凡な自由」樋渡直哉

教員生活で一度も教科書を使わなかったという、樋渡直哉先生の著作。

今までずっとうまく言葉にできなかった自分の中の感性や矛盾を、言語化してくれている本に初めて出会った。
もっと早くこの本に出会っていればよかった、、と思わずにはいられない。

昔を思い出せば、樋渡先生ほどではないが、僕らの時代にはこんな先生はたくさんいた。今の日本の教育現場ではきっと変人扱いされ、淘汰されてしまうだろう。

いつも必ず、僕ら生徒の側に立ってくれる人。
校則よりも、管理職の目よりも、指導要領よりも教育委員会よりも、まず僕らの側に立って、いざという時は必ず守ってくれた先生がいた。
頭髪制限などは憲法違反。こんな校則守る必要ない、と言ってくれた先生もいた。

この夏の間、この本を何回も読み直しながら、本当の自由とはどういうものかをもう一度、自分の中で見つめ返そうと思う。

これ以上、この本の内容や感想をうまく書くボキャブラリーが僕にはないので、いくつか抜粋して紹介します。

池川くん、ありがとう!また近いうち必ず。

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このクラスでも僕は、信念に従ってリーダーづくりも班づくりもしなかった。上からのリーダー養成にはなぜか本能的に身の毛がよだつのだ。

とりたてて誰かが目立つわけではないが、皆が一人ひとり際立っている。制服が邪魔だ。
僕はこんな集団が気に入っている。監督のいないラグビー神戸製鋼、指揮者のいないオルフェウス管弦楽団、担任のいない学級。

学級がホームルームと呼ばれるのなら、そこは誰もが安心してくつろげる場であればよい。授業でたとえ神経が切れるほど緊張し疲れようと、自治活動でうんざりするまで担当教師と言い争おうと、クラブで人間関係が崩れ泣きたくなろうと、学級だけはホッとして笑える場にしておきたい。

ロングホームルームはただ一つ生徒が自治的に自由に使える時間だ。だから教師抜きで、できれば追い出して、悪い相談をしてもらいたい。

子どものやる気を引き出す7つのしつもん

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友人の藤代さんが

子どものやる気を引き出す7つのしつもん という本を出しました。

http://shimt.jp/book/


献本までしてもらい、感想をお願いされていたのにずっと読めずにいて
昨日ようやく読むことができたので、感想書きます。

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スエルテ横浜での試合や練習があった日、その帰り道や夜などに、自分がその日どういう姿(言動、振る舞い)で子供達に接していたかを客観的に振り返った時、どうしても「何かを伝えたい」という思いが強すぎて、やや一方通行、押しつけになってしまっていたな、と感じる日の方が多い。そんな日は、いつも自己嫌悪に陥ってしまう。

こういうサッカーを伝えたい、こういう考え方を体現してほしい…という思いが強すぎてそれが溢れてしまうと、逆に子供達は心を閉ざす。
これは自分の経験上でも充分に痛感してきたし理解しているつもりなのだけれど、毎日、毎時間、全て自制してずっと笑顔でいられるほど、僕は心も強くないし自制心もない。

これが単なる外部コーチの身ならば、きっともっと気軽に子供達と接することができる。
現にスエルテ以外で外部コーチとして関わっているクラブでは、実際そうなのだから。

スエルテでも、同じような自分でいたい。そう思いながら、毎日を過ごしていた。
正直、もっと楽になりたいと思いながら、スエルテの練習や試合に行く日々。

そんな時に藤代さんのこの本書を読んで、スエルテでの「なりたい自分」はどんな姿なのか、を冷静に省みることができた。

自分が子供の頃、好きだった大人のようになりたい。
子供達に「ここでサッカーするのが、なんか好き」と思ってほしい。

結局、この二点に尽きるのだ。

僕は子供の頃(小2〜中2)空手をやっていた。体も小さかったし運動神経も良い方ではなかったから別に強くも巧くもなかったけれど、なぜかこの空手道場に行くのが毎回大好きで、だからこそあんなに長い期間、続けられたのだと思う。

あの頃「師範」として関わってくれた先生達は、怖い人も優しい人も面白い人もいたけれど、それぞれに共通していたのは
「この人は僕のことを認めてくれている、ちゃんと見てくれている」と思わせてくれる人ばかりだった。

本書でたびたび出て来るフレーズ
「質問は正解を導くためではなく、子供達に自ら考えてもらうため」
「答えは全て正解」

今振り返れば、あの先生達も、これを実践してくれていた気がする。だからこそ組手の試合で負けても、型の演武でミスしても、腐らず劣等感も持たずに数年間も空手を続けられたんだろうなと、あの頃の思い出が一気に蘇ってきて、練習に向かうバスの中で本書を読みながら、少し泣きそうになってしまった。

こちらから一方通行で「やらせる」「出来るようにさせる」のではなく、
「共有できるもの、信じられるものをその瞬間に生み出す」ような練習が、僕の中での理想。そんな練習ができるのは、月に一度くらいだけれど。

でもそんな練習ができた日を思い返せば、自分も常にポジティブで、子供達に対して笑いながら接してて、子供達とイーブンな関係で会話できている日。
だから自然に問いかけもできるし「しつもん」ができている。それに対する子供達からの答えも素直に受け止めることができて、そこからまた想定外の方向に話が進んで、新しい練習が思いついて脱線したり。
脱線て大事。そういえば、学校でもすぐ話が脱線する先生の授業は楽しかったし、人気もあったよね。

本書のページをめくりながら、あぁ、確かにそうだよな、自分の心持ち一つで、練習の雰囲気が左右されてしまうよなぁって、良くも悪くも納得できた。

本書を読み終わってまず湧いてきた感情は
「子供達にとって、自動販売機のような存在でありたい」というものだった。

飲み物を供給するだけでなく、暗い中でも光を発している存在。
子供が自分に何を求めているのかに応え、それにプラスアルファできる存在。
子供達から、自然に寄ってきてもらえるような存在になりたい、と。

そのためにも、まずは自分から。子供達の声もミスも受け止め、そこで一緒に考え、ポジティブな脱線を繰り返しながら、共有できるものをたくさん生み出せるように。

そのためにも「しつもん」をしていくことで、それぞれの子供達の、まだ見えていないどこかに光を当てることができるかもしれない、と思った。

上述した空手時代や、中高でのサッカー部時代、また指導者講習会などで選手役となった時に、コーチや先生から言われて嬉しかった言葉は、意外と単純で
「なるほど」「それ、イイね」とかだったりする。

自分のアイデアが認められること。自分発、の嬉しさ。
これは、子供でも大人でもきっと変わらない。
認めてくれた、受け入れてくれた、アイデアを採用してくれてそれを他の仲間達も共有してくれた…っていう嬉しさ。

「しつもん」で、そんな嬉しさを子供達にもっともっと実感してもらいたい。
そう思ったら、次にスエルテの練習に行く二日後が、何だかとてもワクワクしてきました。

楽になりたい、と思っていたけれど
本書を読み終わって、本当に、少し楽になれた気がします。藤代さんありがとう〜