Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

写真家 チェ・ゲバラが見た世界

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『 写真家 チェ・ゲバラが見た世界 』に行ってきた。

 

che-guevara.jp

僕の中でゲバラは「自由な人」の象徴。ゲバラこそ、自らの由縁に素直に生きた人。


キューバ革命に参加する前に旅した南米の写真や、キューバ革命を成功させカストロからキューバ国籍を与えられ、政府の要人になった後に世界中を外遊した際の写真もたくさん。
そして家族の写真や、ゲバラ自身の写真も。

キューバを追われた後のゲバラの顔は、どこか、この後の自分の運命を悟っているようで、穏やかにも見えるし、悲しそうにも見えた。

 

日本にも来て、原爆を落とされてから14年が経った広島にも訪れたゲバラ
その時の言葉
「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」


一旦スパイクを置いて、俺も世界中を旅したい。

 

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民主主義思考とパスの意味

先日初めて会った池川君が、教員生活で一度も教科書を使わなかったという樋渡直哉先生の「平凡な自由」という本をプレゼントしてくれたことを、前の記事で書きました。

 

neutralfootball.hatenablog.com

 

それを彼が樋渡先生にも知らせてくれたらしい。
そしてそれに対する返信が先生から届いたそうで、僕に教えてくれた。池川くんありがとう。

「久保田さんはおもしろそうな人だね。女の子に指導を任せて石拾いに専念する姿は映画のシーンのようだ」(樋渡先生より)

園児のお姉ちゃんに指導を任せた話を、Facebookかブログで見てくれたのだろうか。

suertedream.pokebras.jp

自分はチームを強くするとか選手を上手くすることよりも、彼らと過ごす日常の中で、たまに起こるふとしたイレギュラーな出来事に楽しさを感じて、その時間を共有できることに嬉しさを感じてしまうので、あの出来事を「映画のよう」と評して下さるところが、何だかとても嬉しくて。そんな風に言ってくれる人は、なかなかいない。

「サッカー関係者に民主主義的思考の人が多いのは、パスという動作のもたらすところだろうか。独占しない、パスした先の仲間を信頼しなければならない。」(樋渡先生より)

パスと民主主義的思考の考察。ここで言われているパスの意味(意義)を、僕は選手達にどう伝えるかというところにいつも重点を置いているので、何だか心が軽くなった気が。

先生はサッカー関係者に民主主義的思考の人が多い…と言ってくれている。
確かに自分の周りにはそういう人が多い。多様性を当たり前のように認め、サッカーを活かしてそれを伝え、選手達の個性や自然体を、最大限に生かそうとしている人。

正しさよりも楽しさ。整然よりも逸脱。少数派こそ希望、という視点。
この最低限のラインを、僕も、一生守り続けたい。

でも
そんな思考や視点からは正反対の人が、最近のサッカー関係者に多いのも事実。
全体主義を愛し、それを選手にも乱用し、多様性も逸脱も許さない人。
歴史を改竄しようとし、中国や韓国を蔑視し卑下する優生思想の人。そんな人が、自分の周りにも、SNS界隈にも最近増えている。

そういう人が、パスに込められる意味を理解できるのだろうか。
そういう人が、サッカーの本質を理解できるのだろうか。
そういう人が、子ども達にサッカーを指導できるのだろうか。

そういう人がサッカー関係者の中に最近とっても多い、という矛盾とも戦っていかなければならないのだと、最近特に、強く感じている。

樋渡先生、ありがとうございました。

 

 

平凡な自由

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『 楽しさに満ちていた学校が急に色あせて見え始める。
それでいいんだ。そのうち担任がくだらん凡人に見えてくる。それはもっとすばらしいことだ。君たちの人生から学校で習ったことを全部取り去ると、そこに残るのが君たちの人格と教養だ。君はいま、それを見に出かけるのだ 』
(平凡な自由)

先日、有坂さんの教え子、池川くんという青年に会った。イマイジーニョも呼んで3人で渋谷で飲みまくったけど、時間があっという間に過ぎるほどに楽しい時間だった。

高校の卒業式、答辞の中で教育委員会にメンチを切り、コスタリカなどを遊学して、沖縄の運動にも参加し行っているという。
実際会ってみたらやっぱり、良い意味で心が軽くてニュートラル、リアルリベラルなカッコいい男だった。

その日
「この本こそ、久保田さんに読んでほしいと思って」と池川くんがプレゼントしてくれたのがこの本。

「平凡な自由」樋渡直哉

教員生活で一度も教科書を使わなかったという、樋渡直哉先生の著作。

今までずっとうまく言葉にできなかった自分の中の感性や矛盾を、言語化してくれている本に初めて出会った。
もっと早くこの本に出会っていればよかった、、と思わずにはいられない。

昔を思い出せば、樋渡先生ほどではないが、僕らの時代にはこんな先生はたくさんいた。今の日本の教育現場ではきっと変人扱いされ、淘汰されてしまうだろう。

いつも必ず、僕ら生徒の側に立ってくれる人。
校則よりも、管理職の目よりも、指導要領よりも教育委員会よりも、まず僕らの側に立って、いざという時は必ず守ってくれた先生がいた。
頭髪制限などは憲法違反。こんな校則守る必要ない、と言ってくれた先生もいた。

この夏の間、この本を何回も読み直しながら、本当の自由とはどういうものかをもう一度、自分の中で見つめ返そうと思う。

これ以上、この本の内容や感想をうまく書くボキャブラリーが僕にはないので、いくつか抜粋して紹介します。

池川くん、ありがとう!また近いうち必ず。

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このクラスでも僕は、信念に従ってリーダーづくりも班づくりもしなかった。上からのリーダー養成にはなぜか本能的に身の毛がよだつのだ。

とりたてて誰かが目立つわけではないが、皆が一人ひとり際立っている。制服が邪魔だ。
僕はこんな集団が気に入っている。監督のいないラグビー神戸製鋼、指揮者のいないオルフェウス管弦楽団、担任のいない学級。

学級がホームルームと呼ばれるのなら、そこは誰もが安心してくつろげる場であればよい。授業でたとえ神経が切れるほど緊張し疲れようと、自治活動でうんざりするまで担当教師と言い争おうと、クラブで人間関係が崩れ泣きたくなろうと、学級だけはホッとして笑える場にしておきたい。

ロングホームルームはただ一つ生徒が自治的に自由に使える時間だ。だから教師抜きで、できれば追い出して、悪い相談をしてもらいたい。

子どものやる気を引き出す7つのしつもん

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友人の藤代さんが

子どものやる気を引き出す7つのしつもん という本を出しました。

http://shimt.jp/book/


献本までしてもらい、感想をお願いされていたのにずっと読めずにいて
昨日ようやく読むことができたので、感想書きます。

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スエルテ横浜での試合や練習があった日、その帰り道や夜などに、自分がその日どういう姿(言動、振る舞い)で子供達に接していたかを客観的に振り返った時、どうしても「何かを伝えたい」という思いが強すぎて、やや一方通行、押しつけになってしまっていたな、と感じる日の方が多い。そんな日は、いつも自己嫌悪に陥ってしまう。

こういうサッカーを伝えたい、こういう考え方を体現してほしい…という思いが強すぎてそれが溢れてしまうと、逆に子供達は心を閉ざす。
これは自分の経験上でも充分に痛感してきたし理解しているつもりなのだけれど、毎日、毎時間、全て自制してずっと笑顔でいられるほど、僕は心も強くないし自制心もない。

これが単なる外部コーチの身ならば、きっともっと気軽に子供達と接することができる。
現にスエルテ以外で外部コーチとして関わっているクラブでは、実際そうなのだから。

スエルテでも、同じような自分でいたい。そう思いながら、毎日を過ごしていた。
正直、もっと楽になりたいと思いながら、スエルテの練習や試合に行く日々。

そんな時に藤代さんのこの本書を読んで、スエルテでの「なりたい自分」はどんな姿なのか、を冷静に省みることができた。

自分が子供の頃、好きだった大人のようになりたい。
子供達に「ここでサッカーするのが、なんか好き」と思ってほしい。

結局、この二点に尽きるのだ。

僕は子供の頃(小2〜中2)空手をやっていた。体も小さかったし運動神経も良い方ではなかったから別に強くも巧くもなかったけれど、なぜかこの空手道場に行くのが毎回大好きで、だからこそあんなに長い期間、続けられたのだと思う。

あの頃「師範」として関わってくれた先生達は、怖い人も優しい人も面白い人もいたけれど、それぞれに共通していたのは
「この人は僕のことを認めてくれている、ちゃんと見てくれている」と思わせてくれる人ばかりだった。

本書でたびたび出て来るフレーズ
「質問は正解を導くためではなく、子供達に自ら考えてもらうため」
「答えは全て正解」

今振り返れば、あの先生達も、これを実践してくれていた気がする。だからこそ組手の試合で負けても、型の演武でミスしても、腐らず劣等感も持たずに数年間も空手を続けられたんだろうなと、あの頃の思い出が一気に蘇ってきて、練習に向かうバスの中で本書を読みながら、少し泣きそうになってしまった。

こちらから一方通行で「やらせる」「出来るようにさせる」のではなく、
「共有できるもの、信じられるものをその瞬間に生み出す」ような練習が、僕の中での理想。そんな練習ができるのは、月に一度くらいだけれど。

でもそんな練習ができた日を思い返せば、自分も常にポジティブで、子供達に対して笑いながら接してて、子供達とイーブンな関係で会話できている日。
だから自然に問いかけもできるし「しつもん」ができている。それに対する子供達からの答えも素直に受け止めることができて、そこからまた想定外の方向に話が進んで、新しい練習が思いついて脱線したり。
脱線て大事。そういえば、学校でもすぐ話が脱線する先生の授業は楽しかったし、人気もあったよね。

本書のページをめくりながら、あぁ、確かにそうだよな、自分の心持ち一つで、練習の雰囲気が左右されてしまうよなぁって、良くも悪くも納得できた。

本書を読み終わってまず湧いてきた感情は
「子供達にとって、自動販売機のような存在でありたい」というものだった。

飲み物を供給するだけでなく、暗い中でも光を発している存在。
子供が自分に何を求めているのかに応え、それにプラスアルファできる存在。
子供達から、自然に寄ってきてもらえるような存在になりたい、と。

そのためにも、まずは自分から。子供達の声もミスも受け止め、そこで一緒に考え、ポジティブな脱線を繰り返しながら、共有できるものをたくさん生み出せるように。

そのためにも「しつもん」をしていくことで、それぞれの子供達の、まだ見えていないどこかに光を当てることができるかもしれない、と思った。

上述した空手時代や、中高でのサッカー部時代、また指導者講習会などで選手役となった時に、コーチや先生から言われて嬉しかった言葉は、意外と単純で
「なるほど」「それ、イイね」とかだったりする。

自分のアイデアが認められること。自分発、の嬉しさ。
これは、子供でも大人でもきっと変わらない。
認めてくれた、受け入れてくれた、アイデアを採用してくれてそれを他の仲間達も共有してくれた…っていう嬉しさ。

「しつもん」で、そんな嬉しさを子供達にもっともっと実感してもらいたい。
そう思ったら、次にスエルテの練習に行く二日後が、何だかとてもワクワクしてきました。

楽になりたい、と思っていたけれど
本書を読み終わって、本当に、少し楽になれた気がします。藤代さんありがとう〜

 

上達への近道は、別腹の時間をつくること

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自分はサッカーコーチだけれど、家に帰ればサッカーのことはほとんど考えない。
サッカーが仕事になっているからこそ、サッカー以外の生き甲斐や趣味に対して割く時間を、より大事にしたい。

最近はギターを買って、家に帰ればギターばかり弾いて練習してる。高校生の時に少しだけかじって以来だから、およそ20数年ぶり。大好きなBOØWYの曲を必死に練習して、指は痛いし肩も凝るけど、楽しくて楽しくて、全く苦じゃない。
自分の中に刻み込まれているメロディーを自分の指で再現できる幸せ。夢中に弾き続けて、気づいたらいつも真夜中になってしまう。

没頭すると、ついつい時間を忘れてしまう。これは音楽やスポーツに限らず、どんな趣味でも同じだろう。
僕らが子供の頃だって、時間を忘れて日が暮れるまで公園で遊んでた。そこに大人の干渉も関与もないし、もちろんコーチもいない。こうしなきゃいけない、なんて理屈っぽい概念だって無縁の時間だ。

何が言いたいかというと
『トレーニング、習う、レッスン、スクール、セレクション、◯◯しなきゃいけない、サッカーとはこういうものだ、etc … 』
これらのような響きとは一切無縁の時間と場所が、今、日本でサッカーをしている子供達にはもっと必要な気がする。

教えたがり、関与したがりな大人達に囲まれ、最近のサッカーキッズは概念づけられ過ぎ、縛られ過ぎな子が多いですよ。ありきたりな表現だけど、金太郎飴が多い。

このままだと…強化うんぬん言う前に、文化としてのサッカーも根付かない気がするけどな。競技としての選手人生を終えた時、心が疲弊してサッカーから離れてしまう、サッカーとは距離を置きたくなる人も多くなってしまいそう(あくまでも主観だけど)

さて、ギターが楽譜通りに弾けるようになると、次は弦を押さえる左手の指をもっと効率よく動かせないかという模索を始め、楽譜よりも自分の耳に忠実になって、楽譜通りに弾く必要がなくなり、楽譜から離れられる。
弦の押さえ方、弦の弾き方、抑揚の付け方 … に、自分のアレンジを加え始められる。

古武術の甲野先生が仰っていたように、教えられたことではなく、自分で見つけたことだけが会得できる。自得こそ会得。この言葉を、ギターで実感する日々。

技術を習得し自分のものにする過程という点では、ギターもサッカーも同じだ。

「ギター教室」に通って、一から十まで先生に教わって…だったら、こうはいかなかっただろう。先生の言葉に忠実になって、ここまで毎日楽しく弾くことはできないかもしれない。
会得できるものも、今より圧倒的に少ない気がする。

自主的に練習すること = 自主練。自分で主体性をもって練習すること = 自主練。

自主練は別腹だ。
いくら満腹になって苦しくてもデザートは食べられるように、いくらチームの練習(仕事)で疲れたとしても、その後に自分の意思(意志)とペースでやれる自主練ならば、疲れを感じない。そしてこういう時間に、自分だけの発見があり、自分だけの色を付けられる。

焼肉を食べる時、女子がよく言う。肉で満腹になったとしても、肉と肉の合間にデザートを挟むと、また肉が食べられるって。
女子の言葉は真理だ。実に深いぜ。

 

自分が監督をしているクラブ(スエルテ横浜)では、毎週金曜日の練習は全体練習を一時間半で終え、その後の30分を自由時間にしてます。帰ってもいいし、仲間を募ってゲームの続きをしてもいいし、自分一人で練習してもいいし、ただただくつろいでいるだけでもいい。

その前の練習でクタクタになるまで真剣勝負のゲームをして体力は尽きているはずでも、その「自由時間」になると、また何故か全快Maxでみんな走り回ってる。

この姿が、きっと真理だろう。縛られてない時間の姿。

 

自主練に限らず、練習でかかってくる疲労の違いは、心理的な要素がかなり大きいと思う。

心が縛られているか、縛られていないかの違い。これが一番大きいのではないか。

いくら有名なコーチがレッスンしたとしても、そのコーチの理論だけを一方的にやらされる練習では心が疲労する。その通りにやらないとその都度「コーチング」されてしまうから、心は縛られ、自得どころか、そのコーチに合わせることがまず最優先されてしまう。
こういうの、よく見る光景だ。

心が縛られない場所でサッカーをすることが、上達への一番の近道だと思う。そんな場所を、僕ら大人がつくれるかどうか。

 

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いや、まぁ「つくる」とか言ってる時点ですでに過干渉なのだけれど、僕らのようにコーチと名乗る以上は、その場所をいかに自然な形で提供できるか、がこれから問われるのだと思う。いろいろ制約の多い時代。今の子供達は、僕らが子供だった頃より間違いなく忙しい。

子供達にとって、せめてサッカーだけは時間を忘れて没頭できて、自我を解放できて、自分のやり方を見つけられる存在であってほしい。

 

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自分のクラブがそんな場所になれているかと言われれば、まだ自信を持ってYesとは言えないけれど、、(がんばります)

 

 

ある青年の答辞 〜 自由であること

福岡県糸島に移住したアミーゴの有坂さんから、つい最近、ある青年のことを紹介されました。

8年前、その青年が高校の卒業式で卒業生代表として答辞を読んだ時の、その答辞全文と、壇上では話されることのなかった「付け足し」です。

 

その時の、有坂氏のブログ

blog.canpan.info

自由であること。それは心が自由でなければいけない。

彼がそう思えるようになったのは、きっとその高校のサッカー部でサッカーをして、魅力的な仲間と共に過ごして、そして何より、すぐそばには 自由な「有坂コーチ」がいたからこそ、その感性に辿り着いたんだなと、彼の答辞を読んで納得しました。

長文ですが、是非多くの人に読んでほしいです。
そして今僕が関わっている選手達にも、彼のような
「自由の意味を知る、本当に自由で強い」18歳になってほしいと思います。

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答辞全文 + 付け足し

春の風を感じるようになりました。
100年に1度の不景気と言われる世の中でも、 例年と同じように卒業の季節がやってきました。

僕らが入学した頃は、 新校舎の建築のためプレハブ校舎でした。
このプレハブは少しの地震でも大きな揺れがくるのが難点でしたが、
教室や廊下は広く、ロッカーも廊下にあり、 エアコンも自由に使えて、僕は大好きな校舎でした。

そんな校舎からスタートした学校生活は、緊張の連続だったことを覚えています。
みんなと打ち解けるまでの期間は恐ろしいほど長く感じましたが、打ち解けてからの今までは、あっという間の出来事のように思います。

石神井での思い出は
ここにいる人数分以上あると思いますが、僕の場合は部活なしでは語れません。
話題の中心も、悩みの中心も、問題の中心も、喜びの中心も、笑いの中心も、
常に中心には部活の存在がありました。
これぞまさに、苦楽を共にした一生の友と言えます。

このように僕自身、部活を中心に考え、優先させていたばかりに、行事などではみんなにたくさん迷惑をかけてしまいました。 すみませんでした。
特に体育祭の時の話し合いは、体育祭の幹部もこっちも熱い思いを持ってのものだったのでよく覚えています。

このように体育祭だけでなく
さまざまな場面で3年間たくさんの人たちと関わってきて、みんなの真剣に取り組んでいる姿はかっこよかったです。 部活の時間だけでなく、自ら進んで練習やトレーニングをしている所など見ると、自分もとても刺激を受けることができました。

石神井高校を選んだ理由はみんないろいろあると思います。
私服の高校だから、自由な校風だから、自分のやりたい部活があったから、行事が盛んだから、家が近いからなど、たくさんあると思います。
しかし最初の理由は違えど、一緒に生活していくうちに 共通の目標ができたり、
同じ楽しみができ、少しずつ一体感が生まれていくのが僕は好きでした。

少し話は変わりますが、
僕は中学の時も答辞というものをやらさせてもらって、 その時はこう話してる最中に泣いてしまったのですが、今ここで泣いていないのは3年間のちょっとした成長かなと思います。

またこのことだけでなく、石神井での3年間は、自分の変化や成長を感じることのできる3年間でした。
必ず全員3年前と今とで、変化を感じることができると思います。

僕はその変化として、世の中への疑問や矛盾を感じるようになったと思います。

今この場でも
目に見えない強制、圧力というものがあると思います。
これから僕らが出て行く社会は、今ここで感じることのできる疑問や矛盾、不正、そのようなものがたくさんあるのかもしれません。

ただ僕は、疑問、矛盾、不正を感じた時、それを変えていくことすら制限されていく社会は嫌です。 これは、国や都道府県単位だけでなく、学校という社会においてもです。

学校の主役は生徒です。

生徒が学校を動かせないのはもってのほかですが、先生たちの意見が反映されないのももってのほかだと思います。 生きている学校を動かせるのは生徒であり、それを支えるのが先生だと思います。

石神井の生徒は
いい意味でも悪い意味でもかなりアクティブな集団だと思います。

ここで後輩たちに伝えたいのは、行事、部活、日々の学校生活で何かに気づき、何かを感じたら、声に出し、自分たちの思いを形にして、みんなが幸せを感じれるようにしていってほしいということです。

そのために、教科書なんかには載っていない、もっと大事なことをたくさん学んでほしいと思います。

何かを知るということは、心と体を動かす大きな一歩だと思います。

もうひとつ後輩たちに伝えたいことがあります。
おそらく毎年の答辞で言っていると思いますが、改めて自由の本当の意味を考えて行動してほしいです。
自由というのは、たとえそこに自由があっても、その人の心が自由でなければそれは自由ではありません。 そして、自由を背負う覚悟と責任が必要です。

これからの石神井から自由な心の持ち主が、たくさん巣立っていけることを願っています。

また、60年以上の間先輩たちが作ってきた石神井の貴重な自由の伝統の意義を考え、継承していってほしいと思います。

最後になりましたが、このような会場を作ってくれた後輩、先生、主事さん、そして本日会場に足を運んでくださった保護者の方をはじめとする多くの方々、ありがとうございます。
僕らはここにいる仲間たちで、これからも支え合いながら歩んでいきます。

この答辞を終える前に、一つ付け足します。
卒業式では、僕が言いたくても言えないことがありました。
なのでここで言えなかったことは、少しですがこれの続きに書いておきました。

僕を成長させてくれた石神井高校に、
そしてこのような表現しかできませんでしたが、 勇気を与え、後押しをしてくれた仲間に感謝しています。 ありがとうございます。

未熟な文章でしたが、 最後まで聴いていただきありがとうございました。

2009年3月7日 卒業生代表 “ ike ”


・つけたし・

高校生活最後のこの日に、残念ながら自由を感じることはできませんでした。

もしこれから石神井高校がこの大きな壁に挑むときは充分な準備をし、多くの人の意見を集めて声に出し、行動してほしいと思います。

必ずその声は何かを変えてくれます。こんな表現しかできなくてごめんなさい。

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以前、国際高校でコーチをしていた時、卒業式に乙武洋匡さんが「教育委員会代表」で来賓として来てくれたことがありました。教育委員会代表として決められたテンプレートを淡々と読み上げた後、原稿を捨て「さぁ、今から本音を話すよ!」と笑顔で言い放ち、生徒から喝采を浴びたことがあったんですよ。

色々な話をしてくれたけど、
「自由なマインドを持った君達のような存在が、社会の壁を越え、変えていくんだ」という乙武さんの言葉が、一番印象に残ってる。
彼の答辞を読んで、久しぶりにあの時のことを思い出してしまった。

この答辞から8年経った「今の彼」と、近々会うことになりました。
楽しみ!

 

 

結局すべては人。だから信用できない

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最近話題になった教育勅語について。

まず「教育勅語には良いことも書いてある」とか言う人は、教育者としても指導者としても、失格だと僕は思う。

文章には「前提」というものがある。書く側の立場をもとに、こういう結論に持っていきたいという前提。その前提次第で、同じ文言でもまるで違う意味になり、誰がどういう意図で書いたかによって、その文章が持つ意味合いは大きく変わってくる。

どんな文章でも、例えそれが同じ文章だとしても。
「誰が」何の目的で書いたか、その文脈、行間、前提。そしてそれを「どういう人達」が利用し、企み、広めようとしているかによって、まるで違う文章になってしまう。

文章とはそういうものだ。文章だけでなく、言葉もそう。言の葉は、誰が発するかによってその意味合いが変わってくるものだ。

そこを理解できず、ただその中で書かれている枝葉の部分だけを切り取って文章全体を擁護しようとしてる人は、子供に関わる大人としてはかなりイタすぎる。
それとも何か他の意図があるんじゃないの?と勘ぐられても仕方ない。

最近、作家の高橋源一郎氏が教育勅語を現代語訳したTweetが、少し話題になりました。
以下、ここに引用します ↓↓

教育勅語
「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね」

教育勅語
「きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです」

教育勅語
「その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと」

教育勅語
「そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません」

教育勅語
「もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください」

教育勅語
「というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです

教育勅語
「いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです」

教育勅語
「そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。以上! 明治二十三年十月三十日 天皇

以上です。
もちろん高橋源一郎氏が教育勅語に批判的な立場であることを差し引いて見ることは必要だけれども、しかし、上記はほぼ間違っていない現代語訳でしょう。

つまり教育勅語は、いざとなれば国のため天皇のためにお前ら臣民は命を差し出せよ、
だからそのためにも普段から慎ましい生活を送り、徳のある人でいるんだよという、権力から国民(臣民)へと与えられた都合のいい「ご下命」と「余計なお世話」なトンデモ文章なのだ。

だいたい家族や友達を大事にしろとか夫婦仲良くとか勉強しっかりしろとか、大きなお世話やねんという話。そんなの誰だってわかってるし、いちいち国から言われる筋合いのものではない。

昔、これは誰が何のために書いたものか
昔、これをどう利用していた人達がいたのか
今、これをどんな人達が再び利用しようとしてるのか。

これらをよく考察しないといけない。

そんな文章をいまだに(今さら)擁護しようとしてる人は、お上からの「ご下命」がよっぽど大好きなコンフォーミストか、自分が生きてもいなかった頃の幻影に愚かなノスタルジーを感じる、かなり残念な人なんじゃないのか。

さて
「今の憲法はみっともない、いじましい憲法だ」
こう言い放ったのは今の日本国総理大臣・安倍晋三氏。さて、どっちがみっともなくていじましいだろうか。お前が言うなよと僕は思う。お前の方が余程みっともなくて、いじましいじゃないかと。

安倍晋三は史上最低の総理大臣であると僕は確信しているけれど、それについては次回たっぷりと書くとして、こういう軽薄な人物が政権を司っている中では、この男がどんな美辞麗句を並べようとも信用はできない。例えばこんな輩とその取り巻きに「共謀罪」という刀を与えたら、どんな目的でそれを使うかは、もう想像に容易いわけです。

そんな安倍晋三の周りにはたくさんの輩がいる。類は友を呼ぶ。バカはバカを呼ぶ。

自主避難者は自己責任、裁判でも何でも起こせばいい」と言い放った復興相がいたが、
さらにこの男は「震災が東北でよかった」というトドメまで刺して辞任していった。

警官による「土人発言」は差別ではない、と冷徹に言い放った沖縄担当相はまだその職に留まったまま健在だ。
「戦争は人間にとって霊魂進化の最高の宗教的行事」「国を護るために国民は血を流すべき」「国民の生活が第一なんてとんでもない」とまで言い、しかしまともに答弁もできない極右の人物が防衛大臣。さらにこの防衛大臣の夫は、軍事産業企業の株式を大量に保有してる。

そんなのばかりな集まりが「教育勅語を教育現場で使うのは問題ない」と、わざわざ閣議決定までしちゃった。もうこの人達、完全な末期症状です。

誰がその文章を書いたのか
誰がその言葉を言ったのか
誰がその法律を立案し、施行しようとしてるのか
誰がそれを利用しようとしてるのか
etc…

大切なのは人。人が全てを動かす。その「人」の集まりとして、今の政権は致命的に信用できないのだ。だからこそ僕はこういう文章を書いてる。そしてこれこそ、この文章の前提そのものである。


最後に繰り返す。
同じ文章でも、文脈、行間、前提の解釈、そして
「誰が」何の目的で書いたか、またそれを「どういう人達」が利用し、企み、広めようとしているかによって、まるで違う文章になってしまう。

教育勅語も、日本国憲法も、このコラムも。