Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

自分一人ではリセットできないことを知る旅

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伊勢にいたる時、人はそこに、日本の本然の姿を発見するであろう。
川下より源流に遡る道である。
(忘れちゃったけど誰かの言葉)

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年度始め。4月1日から3日までが、自身つかの間のOff期間。

今年はスエルテも一般社団法人にすることだし、自分も単なる個人事業主ではなくなり一応「社団法人の代表理事」とかになってしまうわけなので
ここはさすがにしっかりお参りでもしようかなと思いました。

そうは言いつつ自分の中での大きな目的は、お参りよりも、煩悩とサッカーだらけで淀んでしまった自身の心の洗濯。
しばしサッカーから離れ、三日間のんびりしながら心を洗い、2016年度の濁流をリセットし、自身を見つめ直し、新たに始まるこれからを夢想したいなと。

ということで
昨年の年度始めは乃木坂46の聖地・乃木神社へ行って結局お参りもせずただウキウキして浮かれて帰ってきただけだったので今年は反省し心を入れ替えて
乃木坂46の聖地どころか日本の聖地、日本の中心とも言われる「伊勢神宮」へ、この三日間を使って行ってきたのです。

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伊勢神宮へ行くのは初めて。前から行きたかった場所でもある。

風習どおり、外宮から内宮へ。外宮でも身が引き締まったけれど、内宮は外宮の遥か上をいくほどに壮大で神秘的で、見えない力をとても感じられる場所だった。
最初、鳥居をくぐり橋を渡っていくところの風景、あの厳粛さと壮大さは世俗ではなかなか味わえない。

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僕は保守的な人間ではないし、日本大好き・日本スゲー!っていうようなウヨウヨ界隈とはまるで反対側にいる人間なのだけれど、それでも、ここでは全身がそわそわした。

日本の聖地に来た。素直にそう思えた。

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こんな僕でも、天照大御神のことはさすがに知ってる。めっちゃ簡単に言えば、日本の始まりみたいな存在、って神話でいわれてる人でしょう。
内宮の正宮から覗く本殿やその向こうの山々の奥、五十鈴川の源流には、その天照大御神がいる(と言われている)

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三日間とも内宮には通い、正宮まで歩いて毎日お参りした後、本殿の奥をしばし眺め、
あの奥に神様がいるのか…と想いにふけるととても静かな気持ちになれたけれど、
でも結局、頭の中(心の中)に自然に思い浮かんできたのは、亡くなった父と愛犬と教え子の顔でした。

「きっと見守ってくれている」と想える存在こそが神様なのだとしたら、それぞれが自分の中で、大切にする自分だけの神様がいる。不謹慎かもしれないけれど、天照大御神の御前で、うん、それでいいんだよなって思ったのでした。

上でも書いたように、鳥居をくぐり橋を渡って内宮へ入っていくのだけれど、この橋は、五十鈴川という川の上にかかっている。
この五十鈴川が、実に神々しい。静かで、厳かで、緩やかで、美しく幻想的。

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この五十鈴川の水を触ることで、身を清めることになるらしい。実際触ってみたけれど、とてつもなく冷たかった。神が棲んでる。そう思えた。

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この五十鈴川の河原にのんびり座って上流を眺め、神様を夢想し、自分を見つめる時間。
この時間を持てただけでも、伊勢に行って良かったと思える。今度は大切な人と行きたい。

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しばしサッカーから離れるとか言いつつ、二日目には、同じ伊勢にある「伊勢フットボールヴィレッジ」へ遠征に来ている京都精華の試合も観に行った。

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新しい試みに取り組んでいる精華のサッカーは、以前観た時よりも数段スケールアップしていて、とても魅力的なものだった。今年かなり楽しみですね。

新年度が始まると、スエルテの6年生達もすぐに公式戦(FAリーグ)が始まってしまう。
6年生最後の年だし、いきなり公式戦だし…!と鼻息荒くイキリ倒して自分を見失い、彼らの良さも見失わせてしまうところだったかもしれない。

でもここで精華の選手達が魅せてくれていた魅力的なサッカーを目の当たりにして、僕らジュニア年代の指導者が急いでしまうことの愚かさを改めて思い出したし、自戒し直せたし、新たなアイデアやモチベーション、これからのワクワク感をも、持つことができた。

やっぱり魅力を追求し、選手それぞれにとっての愛せる居場所になるようなクラブとサッカーでなきゃね。

サッカーには一切触れない三日間にするはずだったけれど、越智さんに呼ばれて行った伊勢フットボールヴィレッジにて、大切なことをまた一段と自身に言い聞かすことができた。
行って良かった。
越智さん、牡蠣やサザエご馳走さまでした。この後に行った、二見浦の夫婦岩も綺麗だった!

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結局、自分一人だけではリセットできないことを知る。誰かがリセットボタンを押してくれる。それはきっと神様よりも、身近にいる存在なのだろう。
押してもらうだけではなく、自分もその「ボタンを押す誰か」になれるように、今年はがんばろう。

チームメイト同士でも、そんな関係性がつくれたらいいだろうな。

そんな三日間。行けて本当に良かったです。お参りだけでなく、赤福も食べたし伊勢うどんも食べたしおはらい町もおかげ横丁も存分に楽しんできました。あそこカオスやで。

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伊勢神宮、毎年行こうー


伊勢神宮・外宮の中にある「せんぐう館」の中に、次のような文章があった。

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未来へ
神宮式年遷宮は、持統天皇の御代から今も継続されています。
繰り返すことによって、限りあるものを永遠なものにする

進化の一方で伝統を守る。
途切れずに続くことの尊さ。いつも古くて新しい、それが神宮の姿

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神宮式年遷宮 - Wikipedia

神宮式年遷宮は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)である。神宮では、原則として20年ごとに、内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)の二つの正宮の正殿、14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷す。このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎のほか、装束・神宝、宇治橋なども造り替えられる」
wikipedia 本文より)

 つまり神宮式年遷宮とは、持統天皇の代から20年ごとにずっと行われている伊勢神宮の伝統的行事で、神宮内の社殿を造り替えることなのだという。でもそれはすぐに終わるわけではなく、全ての工程が終了するまでには何年もかかるらしい。で、終わった頃には次の式年遷宮の準備をし出すのだという。

つまり自身を新しくしていく作業を、伊勢神宮は常にしているわけだ。リセットという言葉をここでも使うとするならば、いろんな人が紡いできたものを守りながら、いろんな人たちの力で常にリセットを繰り返していく、進化的な存在。

歴史や伝統を守り大切にするだけではなく、新たに生まれ変わっていくことを続けている。進化の一方で伝統を守り、伝統を守る一方で、進化を図る。その上で、全ての人を受け入れる。この姿って潔いし、カッコいいよね。

自分もそうありたい。
さぁ新年度。いろいろ頑張ります。

 

伊勢神宮の調和に、繁栄と平和の未来を創るという我々の願いが映し出されますように。
(カナダ首相、ジャスティン・トルドー

音楽もスポーツも、喜ぶためにやってるんだぜ

喜びを表現するための音楽、スポーツ、サッカー。
今回はそんなお話。

 


HOTEI (布袋寅泰) JUSTY ~ NO NEW YORK (LIVE) DRUMS 高橋まこと

 

これは2012年2月、さいたまスーパーアリーナで行われた布袋寅泰デビュー30周年記念Liveの映像。

中学生の頃からのBOØWYフリークである僕も、もちろんこのLiveに参戦していた。

そしてこのLiveのアンコール時、スペシャルゲストとして登場したのが、BOØWY時代のドラムスであり、ファンの皆から「まこっちゃん」と呼ばれて愛された 高橋まこと 氏だった。(以下、愛を込めてまこっちゃんと呼ぶ)

 

24年ぶりの共演。BOØWY時代の名曲「Justy」と「No.NY」を演奏したふたりが見せた本当に楽しそうな顏。ただ楽しいだけでなく、懐かしさ、信頼感、安心感、一緒にステージに立つ喜びと、そして僕らには決してわからないであろう、ふたりの間にだけ流れる感情と。

それら全てが織り混ざってこその、極上の楽しさ。ふたりのこの楽しそうな顏こそがまさに音楽、音を楽しんでる顏じゃないかって、観ていて自然に涙が出てきてしまった。

 

No.NYの間奏時、まこっちゃんが今にも泣き出しそうな顔で、でも楽しそうに叩いてる。そして後ろはまこっちゃんに任せて、花道を思いっきり駆けていく布袋さん。一瞬、BOØWYが帰ってきた。

 

観客のみんなも、幸せそうな顔で一緒に歌ってる。(もちろん僕も)

 

本来、楽しむってこういうことなんだろう。

音楽もスポーツも同じ。喜ぶためにやってる。喜びを味わい、自分を表現するためにやってる。

こんな顔でサッカーをしてほしい。子供達が自然にこんな顔でサッカーしてくれるような、そんな環境をつくらないといけない。

今じゃなくても、彼ら彼女が数年後か数十年後かに再会した時、自然にこんな顔で楽しそうにボールを蹴ってくれるように。

 

だからこその、今が大切なんだよね。

 


BOOWY LAST GIGS NO NEW YORK (2回目)

 

 

触らないドリブル 〜 久保裕也の凄さ


KAA Gent Kubo 久保裕也スーパーゴール4人抜きゴール!KAAヘント対KVメヘレン

 

先日、ベルギーリーグで久保裕也が魅せた4人抜きゴール。このゴールは日本人選手があげたゴールの中では、近年稀にみるスーパーゴールだと思う。

では、このゴールのどこがどう凄いのか。

 

ドリブルって「ボールに触る」技術だと思いがちだけど、ボールに触らないでいることのほうが、相手に奪われにくい。
でも、触っていなくてもボールは自分が持ってる。これが、本当に巧い持ち方。持ちながら(ボールの一番そばにいながら)運ぶだけ。
ドリブルってそういうもの。

 

サッカーはミスが付きものなスポーツ。
丸いボールがあるからミスが起こるし、しかもそれを足で扱うからミスが起きやすいし、余計に触るから、ミスの可能性が高まる。

 

このゴールの久保を見てみると
まず、パスを受ける時にボールに触らず前を向き、相手を一人置き去りにして、タン、タン、タンの3タッチでただボールを前に持ち出し一緒に走るだけで、二人を剥がしてる。
そして4タッチ目で方向を変え後ろから追いすがる敵のコースに入り、三人に囲まれながらボールを運んでいくのだけれど、囲まれたこの時、久保は一切ボールに触ってない。ただボールを自分の懐に入れて、触らずに一緒に進んでるだけ。


周りには3人の敵が密集してきているのに、久保はまだボールに触らない。シザースを入れ体を揺らしながら、まだボールに触らない。

触らない。でも、ボールは俺が持ってる。ボールは俺の支配下にある。この感覚。これが最強の「持ってる」ってこと。

 

つまり「触っていないけど、敵よりも必ず自分が先にボールに触れる場所」に自分がいるだけ。この状態でボールを持てば、敵は飛び込めないよね。

で、最後のペナ内に侵入する時、急にダブルタッチをかまして相手をやっつけ、下手な選手ならここで勢いに乗りすぎてボールが流れがちだけど、でもまだ久保のそばにはボールがある。いや、ボールの一番そばに、久保がいただけ。

だからこそ、冷静に右足でファーサイドに流し込むシュートも打てた。
受ける→剥がす→運ぶ→やっつける→放つ この流れ、完璧すぎてメシが三杯食える。

 

結局40メートルをぶっこぬいて最後はダブルタッチも混ぜたくせに、シュートまで合わせても、計8回しかボールに触ってない。

 

敵の様子と動きを完全に見切ったスーパーゴール。これを可能にする持ち方。


うちの子達がよくやる「内足で持つ」ことも、これに近い感覚。

触らないから、ボールに気を取られない。敵の様子を最後まで伺えるし、動きを見切れる。
触らないから、触りたい時に先に触れる。

これが最強の持ち方。
この感覚、この持ち方を身につけることで、視野も変わるし頭の中も変わるし、つまり判断の質が上がるし、つまりプレーが変わる。

 

ボールに縛られずに、ボールから自由になれるってこういうこと。
それを実戦の場で狡猾にやってのけた久保くんは、かなり凄いヤツだと思うのだ。

 

ちゃんとした結果が僕です

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TBSドラマ「カルテット」より。

 

このドラマ、今めっちゃハマってます。その面白さを書けって言われたらたぶんまたいつもの悪い癖ですごい長文書いてしまうんで今日のところはやめときますが(最終回終わったらたぶん書く)

今週放送された第9話。「うちら、もうそろそろちゃんとしなくちゃ…」と言うカルテットの他メンバー達(松たか子満島ひかり高橋一生)に対し、松田龍平 演じる「別府さん」が放った言葉が、ストレートに胸に刺さったのです。

 


別府さんの言葉

 

ちゃんとした結果が僕です。

「ちゃんと練習しようよ」「ちゃんと楽譜見ようよ」
子供バイオリン教室の頃から、僕、周りの子達に言ってたんです。

その頃ちゃんとしてなかった子達は今、世界中で活躍してます。
「ちゃんとしようよ」ばっかり言ってた僕は、今…

飢え死に上等、孤独死、上等じゃないですか。

僕たちの名前は、カルテットドーナツホールですよ。穴がなかったらドーナツじゃありません。
僕は皆さんの、ちゃんとしてないところが好きなんです。

 

例え世界中から責められたとしても、僕は全力でみんなを甘やかしますから

 

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ちゃんとしろ、ちゃんとしなくちゃ、ちゃんとやれ

ちゃんと、に縛られる僕ら。ちゃんとしなくちゃ人から後ろ指を指されるんじゃないか、ちゃんとしなくちゃダメ人間と思われるんじゃないか、ちゃんとするのが当たり前、、ちゃんと、ちゃんと、、

ちゃんと からは発想は生まれない。ちゃんと からは変人は生まれない。ちゃんと からは、トンデモない個性は育たない。

自分自身、子供の頃から全然ちゃんとしていなかったし、大人になった今も、実にちゃんとしていない。(申し訳ございません)


それで結構。全然いい。ずっとそう思っていたしそういう人間であることに自分で誇りすら感じていたのに、でもふと気づいたら、子供達に「ちゃんと」を無意識に求めてる時があったりする。自己矛盾してることに気づいて、自己嫌悪に陥る。
実はこれを書いている今この真っ最中も、昨日の練習を思い出して自己嫌悪のループが続いている。昨日に戻ってやり直したい。
でも、やり直せはしない。人生をやり直せるボタンはない。次、これからしかない。

 

どこか欠けてるから魅力になる。どこか欠けてるから、味わいになる。
もう、ちゃんと という言葉からは無縁のサッカークラブにしたい。

 

mdpr.jp

 

ひとつのstyleを押し付けること

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昨今話題の塚本幼稚園、あの園で行われている愛国教育は、偏狂的といってもいい。
あそこまでいくと、もはや教育ではなく、洗脳だ。

サッカーの育成年代でも「ひとつのstyle」を押し付け、それこそが唯一の正解かのように指導しているチームをよく見かけるが、それも、僕から言わせれば塚本幼稚園の偏狂的な愛国洗脳と同じである。

教育とは
「違いを認める多様性、海へ出て行く冒険心、弱者の側に立つ優しさ」
「人と人の中で生き、その中でも埋没せず、自分の力で生きていく強さ」
これらのベースをつくることだと思う。

そして
信じる心と疑う心を持ち、取捨選択の力を養うこと
理解と納得の違い、事実と真実の違いを知ること。

サッカーの育成年代での指導も、根本は同じ。これらのスタンスを持ちながら、目の前の選手達が「大切なもの」を自ら感じ取るように導いていくべきだ。
そのためには、常にフラットでいたい。フラットでいるからこそ何にも縛られず、見えないものが見えてくる。


ピッチ上での原理原則は不変。
【 受ける、離す、奪う、拾う 】この中に、ほぼ全てが含まれる。

ここから逆算して、ベース(自分なりの捉え方、考え方、体現する術)を身につけていき、どんな世界(チーム、指導者)に飛び込んでも自分を失くさず、なおかつ孤立せず、
人と人の間でプレーが出来るために
そのチームや指導者なりの方法で、選手達と協同探求していくことが必要だろう。

繰り返すが
これが正解!これが全て!これがうちの拘り!と、指導者の趣好でひとつのstyleを押し付けるのは、塚本幼稚園の偏狂な愛国教育と全く同じなのである。

指導者自身が、もっと自由にならないといけない。
何にも縛られず、フラットで、ニュートラルで在り続けること。それでいて初めて、
サッカーをより深く、幅広く捉えることが出来る。

これこそ、大切なものを選手達に自ら感じ取ってもらうためには不可欠な、
指導者の在り方なのだと思う。

すべて国民は、個人として尊重される

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心が追いつかない、死にたいと相談も受けていたというのに、ワイドショーを見ると「突然辞めて、どれだけの人に迷惑かけると思ってるんだ」との論調ばかり。
SNSを見ても、一般の人でもそういう論調の人は結構いる。

あぁ、こういう人達が日本全体に蔓延るブラック企業の体質を下支えしているんだなぁと、強く実感した。

人は簡単に首を吊るし、簡単にビルから飛び降りる。

5月まで契約が残っていると言うけど、その前に彼女が心を壊して最悪の行動を起こしてしまっていたら、どう言い訳したんだろうか。
彼女には宗教という逃げ道、守ってくれる存在があったから、まだ良かったのかもしれない。もちろん、今後この教団の広告塔として使われてしまうのだろうけども。

でも、劣悪な労働環境から抜け出すこともできず、守ってくれる存在を見つけられないでいる人は日本中にいっぱいいる。

日本国憲法第3章の18条の中に「国民はその意に反する苦役に服させられない」という条文がある。解釈の仕方は様々だろうけど、この事務所だけでなく、日本中のブラック企業をこの言葉でやっつけられないものだろうか。

だいたいこのレプロって事務所は、のん(能年玲奈)さんも所属していた事務所。
彼女に本名を使わせない、という仕打ちをいまだに続けてる。
だいたい、芸名ならともかく自分の本名を名乗って仕事ができないなんておかしい。これこそ憲法に違反してるんじゃないか。

第3章の13条、すべて国民は、個人として尊重される。

そういえば以前、少年サッカーの移籍問題で「移籍なんか自由にさせればいいじゃないか」というコラムを書いたら、けっこう炎上した。
「指導者の承諾なしに辞めるのはおかしい」とか
「会社と同じ、自分が辞めたら周囲にどれだけ迷惑がかかるか考えさせるべき」とか。

辞めたくなるような環境をつくっておきながら、そんな自分の至らなさは棚に上げて、子供達にさえ従順な帰属意識と同調を求めるこの風習。これと一緒だね。

はぁ、ますます根が深い。

 

夕凪の街、桜の国

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この世界の片隅に」原作者のこうの史代さんが2007年に描いた
「夕凪の街、桜の国」を読みました。

 

昭和30年の広島から物語が始まり、原爆で人生を狂わされた家族と、ずっと続いていくその子孫の物語。
被爆者差別の現実を描いていて、「この世界の片隅に」よりも残酷で、悲しく、せつない。でも「この世界の片隅に」と同じように、全編にわたって強い強い優しさが流れてる。

本の帯にも書いてある通り、読み終わった後、まだ名前のついていない感情が心の深い所を突き刺してくる。まさにそんな物語。まだ未読の人、これ絶対読んだほうがいいです。

原爆を落とされた十年後に原爆病を発症し、23歳で死んでいく「皆実」の言葉が強烈。
↓↓
誰もあのことを言わない
いまだにわけがわからないのだ

わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ

のどをまた、生ぬるいかたまりが通ってくる
もうただの血ではなくて
内臓の破片だと思う

うでは便器を持つのが精一杯
髪も抜けとるのかもしれんが
触って確かめる気力もない
あしたにしよう
あした…

嬉しい?
十年経ったけど
原爆を落とした人はわたしを見て
「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?

 

僕はまだまだ広島のことを知らない。戦争のことも原爆のことも。そしてそれらはまだ終わってない。
また広島に行かなければ、と思ってしまったのだ。

 

夕凪の街、桜の国