Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

ちゃんとした結果が僕です

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TBSドラマ「カルテット」より。

 

このドラマ、今めっちゃハマってます。その面白さを書けって言われたらたぶんまたいつもの悪い癖ですごい長文書いてしまうんで今日のところはやめときますが(最終回終わったらたぶん書く)

今週放送された第9話。「うちら、もうそろそろちゃんとしなくちゃ…」と言うカルテットの他メンバー達(松たか子満島ひかり高橋一生)に対し、松田龍平 演じる「別府さん」が放った言葉が、ストレートに胸に刺さったのです。

 


別府さんの言葉

 

ちゃんとした結果が僕です。

「ちゃんと練習しようよ」「ちゃんと楽譜見ようよ」
子供バイオリン教室の頃から、僕、周りの子達に言ってたんです。

その頃ちゃんとしてなかった子達は今、世界中で活躍してます。
「ちゃんとしようよ」ばっかり言ってた僕は、今…

飢え死に上等、孤独死、上等じゃないですか。

僕たちの名前は、カルテットドーナツホールですよ。穴がなかったらドーナツじゃありません。
僕は皆さんの、ちゃんとしてないところが好きなんです。

 

例え世界中から責められたとしても、僕は全力でみんなを甘やかしますから

 

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ちゃんとしろ、ちゃんとしなくちゃ、ちゃんとやれ

ちゃんと、に縛られる僕ら。ちゃんとしなくちゃ人から後ろ指を指されるんじゃないか、ちゃんとしなくちゃダメ人間と思われるんじゃないか、ちゃんとするのが当たり前、、ちゃんと、ちゃんと、、

ちゃんと からは発想は生まれない。ちゃんと からは変人は生まれない。ちゃんと からは、トンデモない個性は育たない。

自分自身、子供の頃から全然ちゃんとしていなかったし、大人になった今も、実にちゃんとしていない。(申し訳ございません)


それで結構。全然いい。ずっとそう思っていたしそういう人間であることに自分で誇りすら感じていたのに、でもふと気づいたら、子供達に「ちゃんと」を無意識に求めてる時があったりする。自己矛盾してることに気づいて、自己嫌悪に陥る。
実はこれを書いている今この真っ最中も、昨日の練習を思い出して自己嫌悪のループが続いている。昨日に戻ってやり直したい。
でも、やり直せはしない。人生をやり直せるボタンはない。次、これからしかない。

 

どこか欠けてるから魅力になる。どこか欠けてるから、味わいになる。
もう、ちゃんと という言葉からは無縁のサッカークラブにしたい。

 

mdpr.jp

 

ひとつのstyleを押し付けること

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昨今話題の塚本幼稚園、あの園で行われている愛国教育は、偏狂的といってもいい。
あそこまでいくと、もはや教育ではなく、洗脳だ。

サッカーの育成年代でも「ひとつのstyle」を押し付け、それこそが唯一の正解かのように指導しているチームをよく見かけるが、それも、僕から言わせれば塚本幼稚園の偏狂的な愛国洗脳と同じである。

教育とは
「違いを認める多様性、海へ出て行く冒険心、弱者の側に立つ優しさ」
「人と人の中で生き、その中でも埋没せず、自分の力で生きていく強さ」
これらのベースをつくることだと思う。

そして
信じる心と疑う心を持ち、取捨選択の力を養うこと
理解と納得の違い、事実と真実の違いを知ること。

サッカーの育成年代での指導も、根本は同じ。これらのスタンスを持ちながら、目の前の選手達が「大切なもの」を自ら感じ取るように導いていくべきだ。
そのためには、常にフラットでいたい。フラットでいるからこそ何にも縛られず、見えないものが見えてくる。


ピッチ上での原理原則は不変。
【 受ける、離す、奪う、拾う 】この中に、ほぼ全てが含まれる。

ここから逆算して、ベース(自分なりの捉え方、考え方、体現する術)を身につけていき、どんな世界(チーム、指導者)に飛び込んでも自分を失くさず、なおかつ孤立せず、
人と人の間でプレーが出来るために
そのチームや指導者なりの方法で、選手達と協同探求していくことが必要だろう。

繰り返すが
これが正解!これが全て!これがうちの拘り!と、指導者の趣好でひとつのstyleを押し付けるのは、塚本幼稚園の偏狂な愛国教育と全く同じなのである。

指導者自身が、もっと自由にならないといけない。
何にも縛られず、フラットで、ニュートラルで在り続けること。それでいて初めて、
サッカーをより深く、幅広く捉えることが出来る。

これこそ、大切なものを選手達に自ら感じ取ってもらうためには不可欠な、
指導者の在り方なのだと思う。

すべて国民は、個人として尊重される

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心が追いつかない、死にたいと相談も受けていたというのに、ワイドショーを見ると「突然辞めて、どれだけの人に迷惑かけると思ってるんだ」との論調ばかり。
SNSを見ても、一般の人でもそういう論調の人は結構いる。

あぁ、こういう人達が日本全体に蔓延るブラック企業の体質を下支えしているんだなぁと、強く実感した。

人は簡単に首を吊るし、簡単にビルから飛び降りる。

5月まで契約が残っていると言うけど、その前に彼女が心を壊して最悪の行動を起こしてしまっていたら、どう言い訳したんだろうか。
彼女には宗教という逃げ道、守ってくれる存在があったから、まだ良かったのかもしれない。もちろん、今後この教団の広告塔として使われてしまうのだろうけども。

でも、劣悪な労働環境から抜け出すこともできず、守ってくれる存在を見つけられないでいる人は日本中にいっぱいいる。

日本国憲法第3章の18条の中に「国民はその意に反する苦役に服させられない」という条文がある。解釈の仕方は様々だろうけど、この事務所だけでなく、日本中のブラック企業をこの言葉でやっつけられないものだろうか。

だいたいこのレプロって事務所は、のん(能年玲奈)さんも所属していた事務所。
彼女に本名を使わせない、という仕打ちをいまだに続けてる。
だいたい、芸名ならともかく自分の本名を名乗って仕事ができないなんておかしい。これこそ憲法に違反してるんじゃないか。

第3章の13条、すべて国民は、個人として尊重される。

そういえば以前、少年サッカーの移籍問題で「移籍なんか自由にさせればいいじゃないか」というコラムを書いたら、けっこう炎上した。
「指導者の承諾なしに辞めるのはおかしい」とか
「会社と同じ、自分が辞めたら周囲にどれだけ迷惑がかかるか考えさせるべき」とか。

辞めたくなるような環境をつくっておきながら、そんな自分の至らなさは棚に上げて、子供達にさえ従順な帰属意識と同調を求めるこの風習。これと一緒だね。

はぁ、ますます根が深い。

 

夕凪の街、桜の国

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この世界の片隅に」原作者のこうの史代さんが2007年に描いた
「夕凪の街、桜の国」を読みました。

 

昭和30年の広島から物語が始まり、原爆で人生を狂わされた家族と、ずっと続いていくその子孫の物語。
被爆者差別の現実を描いていて、「この世界の片隅に」よりも残酷で、悲しく、せつない。でも「この世界の片隅に」と同じように、全編にわたって強い強い優しさが流れてる。

本の帯にも書いてある通り、読み終わった後、まだ名前のついていない感情が心の深い所を突き刺してくる。まさにそんな物語。まだ未読の人、これ絶対読んだほうがいいです。

原爆を落とされた十年後に原爆病を発症し、23歳で死んでいく「皆実」の言葉が強烈。
↓↓
誰もあのことを言わない
いまだにわけがわからないのだ

わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ

のどをまた、生ぬるいかたまりが通ってくる
もうただの血ではなくて
内臓の破片だと思う

うでは便器を持つのが精一杯
髪も抜けとるのかもしれんが
触って確かめる気力もない
あしたにしよう
あした…

嬉しい?
十年経ったけど
原爆を落とした人はわたしを見て
「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?

 

僕はまだまだ広島のことを知らない。戦争のことも原爆のことも。そしてそれらはまだ終わってない。
また広島に行かなければ、と思ってしまったのだ。

 

夕凪の街、桜の国

 

 

靖国神社と遊就館に行ってきた

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最近歴史に関心があって、特に、日本の近代史にとても興味がある。幕末から明治維新を経て、太平洋戦争まで。
いろんな立場や史観があるけれど、自分のスタンスだけに強情になる前に、もう少し「逆側」の立場のものを見てみたいと思い、そんな象徴の場所でもある、靖国神社遊就館に行ってきた。

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市ヶ谷駅から数分歩き、靖国神社に到着。門をくぐる前に手袋とネックウォーマーをとり、聴いていた音楽は止めた。礼儀知らずの僕でも、さすがにそれくらいはする。靖国神社のスタンスや主張には反対だしそれを礼賛し利用する人達のことは大嫌いだけれど、それとこれとは別だ。
ちなみに本殿の前には立ったけど、二礼一拝一礼、という決められた形での参拝はしなかった。

でもその本殿の前は、なんだか凄くゾワゾワした。原爆ドーム前で感じたあのゾワゾワ感を思い出した。やっぱりただの神社ではないことは、この場の空気感で伝わってくる。誰か、いや「誰か達」がこの場にたくさん眠っている(漂っている?)ことは、明らかに感じ取れた。

靖国神社の境内は、ダブルの黒スーツに坊主頭、肩を揺らして歩く、そんな香ばしい人がやたらと多かった。
その反面、息子さんであろう人に手を取られて参拝に来ているお婆さん、そして遊就館のエントランスから少し隠れたところで号泣し、一緒に来ているであろう周りの人に慰められているおばさんもいた。戦争で亡くなりこの靖国神社に祀られている旦那さんやお父さんをお参りに来たのだろうか。そんな人達の想いは、素直にそして静かに、尊重しなければいけない。

早く甘酒を飲みたい衝動を抑え、靖国神社の敷地内にある遊就館へ。

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ヤマトタケルノミコト の時代からの展示物もあり、太平洋戦争だけでなく、日本の国の成り立ちのところから、展示が始まる。てっきり太平洋戦争のことしか展示してないと思ってたから、少し驚いた。神武天皇を普通に実在の人物として書いてるところに、おいおいというツッコミを入れてからのスタート。

そうとは言え、やはり展示に重きが置かれているのは、明治維新後、日本近代史について。

簡単に言えば、日清戦争から始まり太平洋戦争終結まで、戦争をしたのは仕方ない、日本は全て悪くない、という主張を滲ませる文言ばかり。戦争の正当化と、戦争の美化が続く。
勇ましい言葉も多く、わかりやすく言えば、反省の色がひとかけらもない。もちろん、反省のひとかけらもない人達が作ったものだろうから、当たり前だけど。

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館内で上映されていた『私たちは忘れない!』という映像作品も観た。ちなみにこの作品の企画制作は、あの日本会議らしい。

映像にナレーションが乗る形で作品はつくられているけれど、そのナレーションはまるで、北朝鮮の国営放送のアナウンサーのように勇ましい口調だった。

そこで語られていた内容を、用いられていた言い回しはそのままに、ざっくり書きますね。

日本民族には誇り高い歴史がある
・日本は、清国の属国となっていた朝鮮の独立を願った。アジアの安定を願ったから。しかし清国がそれを許さずに、日清戦争が始まった。

大東亜戦争は、黒船襲来からの、日本近代史の総決算である。
大東亜戦争は、日本近代史においての、最大の使命だった。
大東亜戦争は、アジアを代表する存在の日本による、欧米の大国への抵抗であった。

ハルノートは、日本にとって到底受け入れられるものではなかった。

満州での激烈な排日運動にも我慢を重ねてきたし、せっかく手に入れた権益を捨てるわけにはいかない。

・戦争を避けるという道もあった。全ての権益を捨てて、日清戦争以前の日本に戻るという選択肢もあった。しかしそれは、戦争をしなくても戦争に負けたということ。
日本に選択の余地はなかった。

・日本を悪者に仕立てたルーズベルトの謀略であり、極東の小国日本が、欧米の大国に立ち向かった大東亜戦争。自存自衛の戦争だった。

・特攻作戦は、祖国を守るための崇高なる散華であった。一億が火の玉となって戦った。

 

メモれたのがこの程度だけ。これ以外にも、作品の終始に渡り自画自賛と誇大、そして日本が行なったこと全てを正当化し、美化してる。
この作品を制作したのがあの「日本会議」だからこのような内容になるのは仕方ないのだろうけれど、さすがに、観ていて恥ずかしくなった。

この作品に限らず、遊就館の中の展示物や説明を見てみても、日本がアジアでやったことへの言及は一切なし。全てにおいて「仕方なかった、欧米列強の圧力があったからだ、あれは自存自衛の戦争だったのだ、悪いのは欧米なのだ」という主張ばかり。

終戦について書かれた展示物に「全国の部隊は、未だに烈々たる戦意を燃やしながらも、粛々と武装解除を受け入れた。抵抗する者は一人もいなかった」って書いてあったけど、これ嘘やん。宮城事件もあったし。

 

そんな館内全ての展示物を見終わり、エントランスに出て来るとお土産コーナーがある。ここには、日の丸の他、靖国神社グッズ、軍艦グッズ等の他に、百田尚樹や石平太郎といったコテコテ右翼作家の著作が並び、それ以外にも、お決まりの「日本はぜーんぜん悪くないもん!」という本がたくさん並べられ、売られている。

つまり、そういう施設だということです。

百歩譲って、そのような見解や主張をするのも別にいいですよ。そういう人達が日本にいっぱいいることも知ってるし、そのような主張があったってもちろんいい。日本には思想の自由も言論の自由もあるんだから

でもこのような偏った主張(日本は悪くなかった、全て外国が悪い、特攻は素晴らしい作戦だった…等)を声高にあげ、反省のかけらもみせないこんな施設を抱え持つ靖国神社に、政府の要人が参拝に行くのは絶対にダメ。日本の公式見解と受け取られても文句言えない。一回だけでは足りないと思い僕は二回行ったけど、改めて、その思いを強くした。

 

特攻で死んでいった人の手紙や遺言、残された奥様の手記などもあった。それらを読めば、やっぱり胸が締め付けられる。

中でもこの手記は、たまらなかった。
戦後も再婚せず、戦死した旦那さんのことを想い続けながら、ずっと一人で生きてきたというお婆さんの手記。脳梗塞を患い手が不自由になったけど、リハビリを重ね、なんとかまた自分の手で書いたという手記。よれよれの文字だったけど、だからこそ、この方の想いが余計に強く伝わってきた。

「 天国のあなたへ   

娘を背に日の丸の小旗をふって、あなたを見送ってから、もう半世紀がすぎてしまいました。たくましいあなたの腕に抱かれたのは、ほんのつかの間でした。

三二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは、今どうしていますか。
私も宇宙船に乗って、あなたのおそばに行きたい。
あなたは三二歳の青年、私は傘寿を迎える年です。 おそばに行った時、おまえはどこの人だ、なんて言わないでね。
よく来たと言って、あの頃のように寄り添って座らせて下さいね。

お逢いしたら娘夫婦のこと、孫のこと、また、すぎし日のあれこれを話し、思いっきり甘えてみたい。
あなたは優しく、そうかそうかとうなづきながら、慰め、よくがんばったねとほめて下さいね。 そして、そちらの「きみまち坂」につれて行ってもらいたい。

春、あでやかな桜花
夏、なまめかしい新緑
秋、ようえんなもみじ
冬、清らかな雪模様

など、四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。

私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ、愛情を支えにして生きて参りました。
もう一度あなたの腕に抱かれ、ねむりたいものです。
力いっぱい抱きしめて、絶対にはなさないで下さいね 」

せつない。つらい。でも、こういう方が、日本にはまだまだたくさんいらっしゃるのだろう。そんな人達のことを、想わずにはいられない。

靖国神社遊就館のスタンス、ここで掲げられている主張や見解には僕ははっきり反対の立場だけれど、それでも、自らの意に反して戦地に赴かされ亡くなっていった人達、残された家族の人達、戦争によって大切なものを失った人達に対しては、日本人として想いを馳せないといけないし、敬意を払わないといけない。

僕らが憎むべきは、あのような戦争に導いた指導者達であり、それを一般市民も疑わずに受け入れていたとするのならば、そうなってしまった「空気」そのものを恐れないといけないし、反省をせずに正当化と美化ばかりいして自らの自尊心を満足させようとしている愚かな人達に対しては、きっぱりとNoを突きつけないといけないのだ。

まだ真っ白な子ども達をここに連れて来るのもどうかと思う。子ども達に対しては、左右の立場限らず、一方的な側からの見方だけではなく客観的な視点できちんと教えるべきだろう。修学旅行で見学に来る中学や高校も多いらしいけど、純粋な子があっさり影響されてしまわないか心配だよな…

と思いながら、出口付近にある感想ノートを眺めていたら、ある高校一年生が書いた感想に目が止まった。

特別攻撃隊が世界の人々に感銘を与え、平和と発展の礎となったという◯◯さんの言葉には、驚きを隠せません。なんの反省も感じとることができませんでした。
なぜ遊就館では在日外国人(に対して)や海外で日本兵が犯した非道な行為について全くふれてないのでしょうか。残念です。
世界に平和をもたらしていくには自分たちのした行動を振り返り、反省し、子供達に伝えていくべきではないでしょうか。
自国を客観的な目で見ることを忘れないでほしいです。」
(◯◯さんというところは実名が書いてあったので伏せたけど、おそらく、見学した時に案内してくれたガイドさんのような人だろう)


遊就館を礼賛する感想ばかりが書かれてあるノートに、このような自分の意見をしっかり書ける高校一年生。字体からしておそらく女の子だと思うけれど、彼女のような若者こそが、日本の希望そのものなのだと思う。

 

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靖国神社にある売店の牛丼と甘酒は、うまかった。
でもこの売店では「晋ちゃんのびっ栗饅頭」なるものも売られてて、思わずびっ栗。

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こういうのつくるセンスがもう、ダサいよねぇ。

 

rikutukoneo.hatenablog.com

指導の仕方は違って当たり前 〜 吉田都さんの話

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バレエダンサー、吉田都さんの話

 

日本に比べたら、ロイヤルなんてもうバッラバラ。一人ひとりの主張が激しくて、その意思というかエネルギーが強く出てしまうのです。一方、日本人の鼓舞が美しいのは、形を真似るのが上手いからです。

Q)外国人バレエダンサーは、真似はそこまで上手くないんですか?

とにかく真似るより、自分の踊りがしたいのです。自己主張が激しい分、教える側もすべて論理的に説明していきます。

日本人は練習時間が短くても、いま申し上げたように形を真似る力が高いから技術的なことはどんどんできちゃいます。その分、内側から湧き上がるような表現力というのはなかなか教えられないので、苦労するのです。

週刊文春阿川佐和子のこの人に会いたい」より)

 

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その人の内部から滲み出る魂であったり情熱であったり、悲しみ、喜び、欲求、煩悩…それらを表現することが、スポーツや音楽、アートの最終目標なんだと思う。勝敗や優劣はその結果の数字でしかなく。
だから、それら「何かを表現する」もの全てにおいて、そのやり方や指導方法に決められた正解があるわけじゃない。

僕らサッカーコーチからすれば、目の前にいる選手が全て。日本人とスペイン人ならば指導方法に違いがあって当たり前。同じ日本人同士だって、本来バラバラなはず。だから指導の仕方は違いがあって当たり前。


海外ではこうだから…と画一的な原理原則をどこでも同じように当てはめるのではなく、
いま目の前にいる選手に合わせて、自分の中の信じた正解をいかようにも疑ってかかり、時には捨てて、発する言葉も接し方も指導のアプローチも、柔軟に変えていく姿勢が何より大切なんだと思う。

「スペインではこうでした。だからサッカーはこうあるべきです」
とあっさり断言してる人が日本人の子どもにサッカーを指導するのって、とても危険だと思うよ。おおよその日本人はどういうメンタリティーを持っているか、そして良くも悪くもどういう教育を受けているかを、もっと草の根から這いつくばって肌で痛感してから、自分の中の正解を見つけた方がいいと思うけど。そこから外れる例外的な子達にも、目を向けながら。

 

サッカーは自由なスポーツなのに、もっといろんな考えがあっていいはずなのに、そして自分で新たな概念を生み出したっていいはずなのに、答えを最初から決めつけてしまう人が多い。そして悲しいことに、それをあっさり信じてしまう人はもっと多い。だって、大人子ども問わずほとんどの日本人は、教えられたことに対して、そして教えてくれる人、にはとても素直で従順なんだから。

 

やっぱり、大人がもっと自由にならなければいけないんだと思う。

 

ペトロビッチの美学

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当時この記事を新聞で読んで、切り取って、財布の中にずっと入れてありました。
理想と現実との狭間で迷いそうになった時は、これ読むことにしてます。

 

ペトロビッチの美学
(2009年10月 / 朝日新聞・潮智史さんの「side change」より)

すごみすら感じた。ぞくぞくするような。25日の川崎・等々力競技場。大勝した川崎の攻撃ではない。7点を奪われた広島の戦いぶりにだ。

前半18分、足が止まったスキを突かれて失点。7分後に森脇の退場で10人に。ここから一人ひとりがギアを一段上げて果敢に攻めた。J1でも最強であろう川崎のカウンターは承知の上。

リスクを負ってDFが攻め上がり、速いパス交換から1トップの佐藤寿人を走らせてゴールに迫った。10人が11人を慌てさせた。後半6失点の数字だけを見れば、無謀な惨敗と言えるかもしれない。不利な状況を考えれば、さらなる失点は命取り。むしろ守りを固めて逆襲に徹するのが普通だ。

広島は勇気を持って攻め、何かを起こそうとした。もともと相手の鼻先でパスを回す攻撃的なスタイル。選手に無謀な攻撃という意識はない。自らのやり方を貫くことで逆転勝利の道を探ったまで。優勝争いに残るためにリスクを冒す価値がある試合であることも、守り倒すようなマネができないことも計算済みだった。

試合後、ペトロビッチ監督は穏やかな表情で選手を迎えた。
「守って0-1で負けて良かったと思うよりも、大敗した方が学べる。痛い敗戦だがこれで死ぬわけじゃない。これが我々のスタイルだ」
彼と同じように「攻撃こそサッカーなのだ」と説いたオランダのスーパースター、ヨハン・クライフは「美しく敗れることは恥ではない。守って無様に1-0で勝つことが恥であり、それはサッカーではない」と説いた。

等々力まで足を運んだ広島サポーターは選手に拍手を送った。0-7で負けてもクラブに誇りを持てるサポーターは幸せだ。

 

この記事から7年。今のペトロビッチさんは、どうなんだろう。