Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

ペトロビッチの美学

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当時この記事を新聞で読んで、切り取って、財布の中にずっと入れてありました。
理想と現実との狭間で迷いそうになった時は、これ読むことにしてます。

 

ペトロビッチの美学
(2009年10月 / 朝日新聞・潮智史さんの「side change」より)

すごみすら感じた。ぞくぞくするような。25日の川崎・等々力競技場。大勝した川崎の攻撃ではない。7点を奪われた広島の戦いぶりにだ。

前半18分、足が止まったスキを突かれて失点。7分後に森脇の退場で10人に。ここから一人ひとりがギアを一段上げて果敢に攻めた。J1でも最強であろう川崎のカウンターは承知の上。

リスクを負ってDFが攻め上がり、速いパス交換から1トップの佐藤寿人を走らせてゴールに迫った。10人が11人を慌てさせた。後半6失点の数字だけを見れば、無謀な惨敗と言えるかもしれない。不利な状況を考えれば、さらなる失点は命取り。むしろ守りを固めて逆襲に徹するのが普通だ。

広島は勇気を持って攻め、何かを起こそうとした。もともと相手の鼻先でパスを回す攻撃的なスタイル。選手に無謀な攻撃という意識はない。自らのやり方を貫くことで逆転勝利の道を探ったまで。優勝争いに残るためにリスクを冒す価値がある試合であることも、守り倒すようなマネができないことも計算済みだった。

試合後、ペトロビッチ監督は穏やかな表情で選手を迎えた。
「守って0-1で負けて良かったと思うよりも、大敗した方が学べる。痛い敗戦だがこれで死ぬわけじゃない。これが我々のスタイルだ」
彼と同じように「攻撃こそサッカーなのだ」と説いたオランダのスーパースター、ヨハン・クライフは「美しく敗れることは恥ではない。守って無様に1-0で勝つことが恥であり、それはサッカーではない」と説いた。

等々力まで足を運んだ広島サポーターは選手に拍手を送った。0-7で負けてもクラブに誇りを持てるサポーターは幸せだ。

 

この記事から7年。今のペトロビッチさんは、どうなんだろう。

 

教育をはじき返す野生の力

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前記事では、美智子妃の言葉 を紹介しました。

 

 引き続き、今回も

『 丘の上のバカ 〜 ぼくらの民主主義なんだぜ 2 』高橋源一郎 著)より。

 

わたしは、自虐教育が子供達の心を蝕んだというのは明らかに事実誤認だと考えている。なぜなら 子供達は「教師の話なんか聞いていないから」である。

それが自虐史観であろうと愛国教育だろうと、子供というのは、先生の話をマジメに聞いたりはしない。そういう話を先生がしていると「あぁ、早く退屈な授業が終わらないかなあ」と考えるものなのだ。

それでいいのだ、と思う。

大人達が躍起になって何かを教え込もうとしても、子供達は聞く耳を持たない。なぜなら、この世の中にはもっと楽しいことがあって、それは「授業が終わった後」「学校の外」に存在していることを、彼らはよく知っているからである

この「大人によって教えることのできない」子供達の性質を、鶴見俊輔さんは
「教育をはじき返す野生の力」と呼んだのである。

わたしには、なぜ百田さんが子供達を信頼できないかがわからないのである。百田さんにとって子供とは、外から教育されるとすぐそれを信じてしまう「おバカちゃん」であるようだ。それは子供達に対して失礼なことだ、とわたしは思う。

安倍さんや百田さんやわたしが束になって立派なことを教えようとしても、子供達は、やはりつまらないと感じるだろう。わたしにとって、希望 とはそのことである。

トム・ソーヤーの物語は、アメリカ文学にとって永遠の名作、アメリカ人たちが必ず戻る故郷となった。それは、彼らが 教育によって変えることのできない魂 の象徴だったからである。

 

『 丘の上のバカ 』

このタイトルは、いうまでもなく、ビートルズの名曲( The fool on the hill )に由来するが、その「丘の上のバカ」とは、地動説の発見者、ガリレオ・ガリレイのことだとされている。世間の指弾を浴びながら、バカと罵られながら、彼は一つの真実にたどり着いた。そのエピソードを聞いたとき、わたしが思い浮かべたのは、異なった時代の、異なった「丘の上」にいた「バカ」ものたちのことだった。

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ハックルベリーフィンの冒険』は、アメリカでは聖書と並んでもっとも読まれてきた。そしてその主人公「ハック」は、仲間のトム・ソーヤーと同じく、どんな型にも染まらず、学校や社会や体制からははみ出す少年だった。世間や先生や親が喜ぶ「いい子」などではなく、勉強が嫌いで、イタズラが大好きな「バカ」ものだったのだ。

自由を求め、どんな批判にも屈することなく、ただひとりで世界に漕ぎ出してゆく「ハック」の姿こそ、アメリカ民主主義の背骨を支えるものだった。

またどこかに新しい「バカ」ものが現れるとするなら、彼らこそが、来るべき「民主主義」の担い手なのかもしれない。

 

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子供達は僕らの希望であり、未来そのもの。思惑を持った大人達が彼ら彼女らをいかに教育しようとしたって、きっと最後の最後ではじき返される。それでいい。

子供達が持つ「教育をはじき返す野生の力」を僕ら大人が信じ、守り、そしてそれを操作しようとする濁った大人達とは、まずは「こちら側」にいる僕らが、戦っていかなきゃならない。

サッカーだって一緒。教えようとしたってはじき返される。操作しようとしたって、ますますそっぽを向く。教えようとし過ぎるとますます下手になり、いずれはサッカーを嫌いになっていく。

サッカーは自由なスポーツということを彼らに伝え、本当の自由って何なのだろうということを、彼らが自ら見つけて掴む手助けをしていくこと。

そのためにも、まずは大人達がもっと自由にならないとね。

 

技術や戦術を教え込む前に、もっと大切なことがあるだろう、ということです。

 

honto.jp

 

美智子妃のことば

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皇后・美智子妃が、ある講演で読書について語った言葉を紹介します。

 

私が小学校に入る頃に戦争が始まりました。昭和16年(1941年)のことです。

四学年に進級する頃には戦況が悪くなり、生徒達はそれぞれに縁故を求め、または学校集団として、田舎に疎開していきました。
私の家では父と母が東京に残り、私は妹と弟と共に、母につられて海辺に、山に、住居を移し、三度目の疎開先で終戦を迎えました。

教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代に、たまに父が東京から持ってきてくれる本は、どんなに嬉しかったか。
ケストナーの「絶望」は、非常にかなしい詩でした。小さな男の子が、汗ばんだ手に1マルクを握って、パンとベーコンを買いに小走りに走っています。ふと気づくと、手のなかのお金がありません。街のショーウィンドーの灯はだんだんと消え、方々の店の戸が締まり始めます。
少年の両は、一日の仕事の疲れの中で、子供の帰りを待っています。その子が家の前まで来て、壁に顔を向け、じっと立っているのを知らずに。心配になった母親が捜しに出て、子供を見つけます。いったいどこにいたの、と尋ねられ、子供は激しく泣き出します。
「彼の苦しみは、母の愛より大きかった。二人はしょんぼりと家に入っていった」という言葉で終わっています。

この世界名作選には、この「絶望」の他にも、ロシアのソログーブという作家の「身体検査」という悲しい物語が入っています。貧しい家の子供が、学校で盗みの疑いをかけられ、ポケットや靴下、服の中まで調べられている最中に、別の所から盗難品が出てきて疑いが晴れるという物語で、この日帰宅した子供から一部始終を聞いた母親が、「何もいえないんだからね。大きくなったら、こんなことどころじゃない。この世にはいろんな事があるからね」と説く言葉がつけ加えられています。

思い出すと、戦争中にはとかく人々の志気を高めようと、勇ましい話が多かったように思うのですが、そうした中でこの文庫の編集者が、「絶望」やこの「身体検査」のような話を、何故ここに選んで載せたのか興味深いことです。

世界情勢の不安定であった1930年代、40年代に、子供達のために、広く世界の文学を読ませたいと願った編集者があったことは、当時これらの本を手にすることの出来た日本の子供達にとり、幸いなことでした。
この本を作った人々は、子供達が、まず美しいものにふれ、又、人間の悲しみ喜びに深く触れつつ、さまざまに物を思って過ごしてほしいと願ってくれたのでしょう。

当時私はまだ幼く、こうした編集者の願いを、どれだけ十分に受けとめていたかは分かりません。しかしえ、少なくとも、国が戦っていたあの暗い日々の最中に、これらの本は国境による区別なく、人々の生きる姿そのものを私に垣間見させ、自分とは異なる環境下にある人々に対する想像を引き起こしてくれました。

自分とは比較にならぬ多くの苦しみ、悲しみを経ている子供達の存在を思いますと、私は、自分の恵まれ、保護されていた子供時代に、なお悲しみはあったということを控えるべきかもしれません。しかしどのような生にも悲しみはあり、一人一人の子供の涙には、それなりの重さがあります。私が、自分の小さな悲しみの中で、本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。

そして最後にもう一つ、本への感謝を込めてつけ加えます。読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。


朝日新聞出版・高橋源一郎
『 丘の上のバカ 〜 ぼくらの民主主義なんだぜ 2 』より

honto.jp

 

すずさんを巡る旅

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12月16日(金)の夜から19日(月)まで、ふらりと広島に行ってきた。
映画『この世界の片隅に』の舞台となった、広島の江波や呉の街をどうしても巡ってみたくて。

 

江波にも呉にも、映画に出てくる建物や街並みがまだそのまま残されてるところがとても多い。でもそれも当然のこと。なぜならこの作品は、あの時代の風景、街並み、そして人々の暮らしを、片渕須直監督が徹底的に取材してリアリティーにこだわり抜いて創り上げたものだから。この片渕監督の数年越しの執念が、僕らに『すずさん』のリアルを想像させてくれるのだ。

 

確かにアニメーションだしフィクションだから、登場人物が実在したわけではないしそこにいたわけではないのだけれど、でもこの映画のすごいところは、本当にあの時代、この場所に主人公すずさんがいたんだろうなって本気で思わせるくらい、徹底してリアリティーの再現にこだわっているところ。再現というか、限りなく正確に近い描写、というか。

実際、本当に『すずさんみたいな人』がたくさんいたんだろうな、というのは想像に難しくないわけで。

 

だからどうしても「すずさんがいた場所」「すずさんも見ていた風景」に実際に行きたくなってしまって、夜行バスに乗って広島へと行ってきたのです。

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1日目、まずはすずさんの実家がある江波に。広島から路面電車「広電」に乗り、海の近くにある終点の町が江波。駅を降りるとすぐにカモメの鳴き声が聞こえて、潮の香りも漂ってくる。あまり人は歩いていないけど、いかにも漁業の町という佇まい。すずさんの家は海苔を造っていたけれど、今の江波は歩けば歩くほど、ずっと牡蠣の香りがしていた。

 

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トンネルを抜けて左方面にずっと歩くと、すずさんの実家があった辺りに着く。
映画冒頭のシーン、すずさんが海苔を背負わせられてる海沿いのあの道を見つけて、この旅まず最初の聖地へ到着。ふぅ…
すずさんやすみちゃんがいたあの情景が浮かんでくる。すでに少し、感慨に耽るわたし。

 

さらに
すずさんが船に乗せてもらった船着場と、毎日通った松下商店。

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この松下商店は本当にそのまま。子供の頃はこの前をすみちゃんと笑いながら走って学校に通い、大人になってからは、お兄ちゃんの骨を抱いて、家族で歩いた。

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そして水原哲との思い出の場所である、江波山も。江波山、グッと来たな…

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江波山頂上にある気象台は、映画にも映ってますね。すずさんがお母ちゃんに鉛筆代の二銭ねだるシーン。

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海苔を背負って砂利船に乗せてもらったすずさんが降りた原爆ドーム付近の雁木はそのまま残っていたし(ここ以外にも、雁木が至る所にあった。水上の交通が盛んだったことが伺えます)

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すずさんがしばし佇んでいた大正呉服店は、今は観光案内所を兼ねたレストハウスになっている。平和記念公園を訪れたことがある人ならば、この建物のことはきっと知っているでしょう。

 

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人さらいのオッさんに会った相生橋。周作との出会いの場、でもある。

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2日目は、すずさんが18歳で嫁いで行った呉へ。
東洋一の軍港と言われた呉港と、それを見下ろす灰ヶ峰が象徴的な町。広島から呉線に乗り、映画にも出てきたいくつもの駅を通り過ぎて、気づいたら海沿いに出ていた。お嫁に行く日にすずさんも電車の中から見ていたのと同じ、あの海の景色が見えてくる。

 

そして呉の駅を降りたら、真正面にそびえ立つのが灰ヶ峰

呉駅から蔵本通りを15分くらい歩き、もう一つの大通りである今西通りとぶつかる辺りから、途端に景色が変わる。すずさんが砂糖を買いに出かけた闇市があった辺りも。

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砂糖の価格があまりに高いことに驚いたすずさんが、買うか買わないか「かーきーのーたーね」と地面にしゃがみこんで迷うシーン、超〜大好き。

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そして大通りを渡り、すずさんが闇市の帰りに迷い込みリンさんと出会った朝日町遊郭の跡地。そこからもう少し登り歩けば、すずさんが買い物に出かける時に毎日通っていた「三ッ蔵」が、急に現れる。

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すずさんの毎日の象徴的な場所でもあるから、この三ッ蔵を見た時は結構感動したなぁ。

 

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すずさんが歩いた道。

 

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リンさんと出会った日、帰りを急ぎ走り出す道。

 

三ッ蔵を過ぎてさらに進むと、どんどん街並みが古くなっていく。まるで戦前にタイムスリップしたような古い民家の間をクネクネ続く細い坂道。
そこを延々と登り続け、呉の象徴である灰ヶ峰の途中にある北条家のところにようやく辿り着いた!
間違いなくこの家が北条家のモデルだろう。でもさすがに人様の家を載せるのはどうかと思うのでここでは写真は載せないけれど、ここですずさんが生活していた、と思うとそれだけで、もう万感の思い。

 

呉駅から歩いて1時間くらい。この道を登るのは相当に体力が要るわ…
お嫁入りする日、坂を登ってようやく北条家に着いた時にすずさんをはじめ家族の皆が「やっと着いたぁ」て感じでハァハァと息を切らしていたけれど、本当にそれ。冬なのに汗ダクダクになって、めっちゃ疲れたよ…

 

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すずさんの家から見える、呉の町と港。すずさんも毎日見ていたであろうこの景色は、映画で観た風景と全く同じもの。この場所で僕はしばしの間、感慨で胸がいっぱいになって動けなかった。いや、動きたくなかった。

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家の前や裏にある段々畑も、本当に残ってる。段々畑はこの映画を彩る大事なファクターだから、これまたしばしタイムスリップ。すずさんが憲兵に捕まった畑、周作さんが通っていたであろう、畑の下にある細い道。すずさんと周作さんがずっこけて落ちた道でもある。空襲に遭った時にお義父さんが助けてくれた場所でもあり、晴美さんと二人で海を眺めて船を探してたのも、この畑。

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すずさんが下手くそすぎる化粧で顔を真っ白にして周作に帳面を届けた海軍鎮守府(今は自衛隊集会所になってる)や、
晴美ちゃんと手を繋いで登った病院の階段にも行った。

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あらゆる『聖地』を巡った後、東京に帰る前に広島でもう一度映画を観た。
八丁堀にある、サロンシネマという映画館。ちょうどこのサロンシネマがある辺りの前で、すずさんは福屋や路面電車をスケッチしてる。

 

サロンシネマはお座敷席もあって、いかにも昔の「シネマ」といった風情。ラッキーなことにお座敷席に座れてのんびりと観れたけど、東京で観る以上に、周りは年配の方が多かった。そこでそんなに笑うんか!というところで、みんなゲラゲラ笑ってたりして、何だか幸せな心地だったな。
案の定、後半からは、笑い声がすすり泣きの音に変わったけれど…

エンドロールも全て終わった後、僕の隣で観ていたお爺さんが、とても満足そうな顔をされて、胸の前で小さく拍手をしていた。

 

広島の地で映画を観たら、広島に来る前とはまた違う感情が湧き上がってきた。

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当然、平和記念公園にも行った。資料館も入った。自身3回目の資料館だ。

この平和記念資料館には、ボランティアの人の話を真剣に聞く外国人旅行者がたくさんいた。

ここは平和の象徴の場所なんですよね。国籍問わず、広島は平和を願う人々が集う象徴の場所なんだろうと思った。

 

この世界の片隅に。まだ観ていない人は、絶対に観に行ったほうがいい。100年語り継がれるであろう、日本映画史上に残る名作。愛おしくてかわいいすずさんに、会いに行って下さい。

 

居場所の物語 〜 この世界の片隅に・最後の考察

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このコラムだけでなくいろんな媒体で何回も書いているけれど、11月から、映画「この世界の片隅に」に完全にハマってます。

 

 

実はこれまで、すでに8回も観に行ってしまった。自身の人生で、同じ映画をこんなに何回も観に行くなんてもちろん初めて。

12月には、とうとう舞台である広島にも行って来た。物語に出てくる江波や呉を歩き倒し、実際にまだ残っているロケ地を巡って歩いた。

 

このコラムでも2回「この世界の片隅に」を自分なりに考察したけれど、今回は新たに感じた部分を加えました。ネタバレもありありですので、あくまでも自己責任でご覧下さいませ。

すでに映画を観た人ならば「あぁ…っ!」てなってくれるとこ、多いと思うけど…


はてさて、どうじゃろか。

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すずさんは背中で語る。
・子供の頃、中島本町をワクワクしながら歩く背中
・江波山で、水原を見つめる背中
・広島が恋しくなり、段々畑で小さく座る背中
・会いに来てくれた水原を、もう会えないかもと思いながら見送る背中
・周作に助けられ、側溝の中で感情を閉ざし、へたり込む背中

小さく丸まったすずさんの背中を思い出すだけで、もう泣けてしまう。。

 

16歳の時、広島の街でアサリを売りながら、すごく短くなっている青い鉛筆で絵を描いている。あの時、江波山で水原からもらった青い鉛筆。きっと、ずっと大切に使っていたのだろう。

 

「うちは、よう ぼーっとした子じゃぁ言われとって」
子どもの頃、あんなにほんわか、のほほんとしていたすずさんは、周りに流されるまま嫁に行かされ、まだ子どものままでいたいのに、いつの間にか大人にされ、時代の波に揺られ続ける。それでもすずさんは、明るく日常を紡いでいく。

 

「姿が見えなくなれば、言葉は届かん」(すずさん)きっと、水原に自分の想いを言えなかった後悔もあったのだろう。
電車の中で周作に怒るすずさん。頭巾を外してる。これから本音を話すという表れ。
対する周作は、旗色が悪く言い訳もするので、ヘルメットを深くかぶる。

 

戦争によって大切な人やものを失い続けながらも、明るく生きていくすずさん。

しかし自身の「ある部分」を失ってからその感情に変化が表れ、自身のこれまでと、今と…の間で葛藤し、だんだんと心を歪めていく。
家の中に落ちて燃えている焼夷弾を睨んで涙を流し、感情のまま炎に飛びつく。自らの歪んだ心を必死に消そうとしているようで、このシーンを観るのは本当につらい。

 

空襲に遭った時、海から逃げてきたサギを見つけ「ここに来ちゃいかん、あっちへ逃げ!あの山を越えたら広島じゃ!」とサギを追いかける。
サギは水原との思い出の象徴。江波、羽根ペン…
この空襲があった日、軍艦・青葉は米軍の攻撃で海に沈んでいる(これは史実に基づいている)つまりこの日、水原は…

 

子どもの頃、船に揺られてあんなに嬉しそうにふわふわと川に浮かんでいたすずさんが、
大人になり大事なものを失い、この空襲に撃たれる寸前で周作に助けられ、側溝の中に落ち、水の上にへたり込みながら、とうとう心を壊して周作に対しても感情を閉ざす。

同じ水の上。この残酷なコントラスト。この時のすずさんの小さな背中を見て、僕はいつも号泣してしまう。

 

あのサギは、水原が最後にもう一度、すずさんを迎えに来たということだったのでは。それをすずさんも感じとって、引き止める周作に対して強情に「広島に帰る!」と言い張ったのだろうか。

 

径子さんの言葉と、周りの優しさ。自身の中でようやく居場所を取り戻し、北条家に留まる決心をしたすずさん。しかし終戦の日、その感情を爆発させる。
この国は正義だと思っていたのに。そんなものなのだと思っていたことが、だから我慢していたことが…全て飛び去っていく虚しさ。


自分達は暴力に屈していたことを知り、そしてそれは知らないうちに自分もその暴力に加担していたのと同じことなのだと悟り、今度もまた、他国の暴力に屈するのかと。

「何も考えんと、ぼーっとしたままのうちで死にたかったなぁ…」と、号泣するすずさん。

 

終戦の夜、とっておいた白米を炊いてみんなで食べる時、径子さんだけは食べようとしない。晴美ちゃんのことを思ってたんだろう。

 

原爆の後、お母ちゃんを探しに行った妹すみちゃんとお父ちゃん。そこでいわゆる「入市被曝」をしてしまい、お父ちゃんは死に、妹のすみちゃんは病に伏してしまう。
すみちゃんを見舞いに行った時、一緒に寝転びながら天井を眺め、子供の頃を思い出し、お兄ちゃんの南洋冒険記を楽しそうに想像して話す。この時のすずさんは、子供の頃の話し方に戻ってる。
きっとすみちゃんと一緒にいる時は、子供の頃に戻れる時間だったんだろう。

この2人のシーンは劇中に何度か登場するけれど、どこもすごく好き。すみちゃんが病気から回復して、その後すずさんと一緒に幸せな人生を歩んでいてほしい、と心から願わずにはいられないのだ。

 

原爆で母を失い、5ヶ月もたった一人で街を放浪していた孤児・ヨーコ(映画では名前は出ないが、ノベライズ本ではヨーコと記されてる)
ヨーコのお母さんは、原爆でガラスの破片がたくさん刺さり右手を失っていた。

広島駅でたまたま周作とすずさんに出くわし、すずさんが落とした海苔巻き(江波巻き)を拾う。お腹が空いて食べたくて仕方ないはずなのに、すずさんに自身の母を投影して、その海苔巻きを返そうとするヨーコ。このシーンで泣かない人はいないだろう。
「えぇよ、食べんさい」と優しく言うすずさんの声、この時のすずさんの話し方は、すっかりお母さんのようになってる。

 

周作におぶられながら、ずっとすずさんの右腕を離さないヨーコ。

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これは「居場所」の物語

・嫁入りの日「よろしくね、すずさん」とお母さんに優しく言われた時の、嬉しそうな顔。
・風呂に入ってる時の、すずさんの幸せそうな顔。それで僕らはホッとする。
・おつかい(街に行くこと)が好きだったすずさん。これも居場所。
・径子さんが料理を全てやってしまって居場所を見出せず、塞ぎ込んでいるすずさん。
・自分が料理をやれる時の、張り切るすずさん。
・「わしは必ず帰って来るけぇの、すずさんのとこへ」と周作さんに言われた時の、嬉しそうなすずさんの顔。周作さんの居場所になれた、と思えたんじゃないだろうか。

・死んでいった人達の居場所に自分がなる、と決めたすずさん。
「うちはずっと、笑顔の入れ物なんです」
・孤児を見つけてあげて、その子の居場所をつくってあげたすずさん

 

幸せとは…この世界の片隅にでも、ほんの少しでも居場所があることなんだ。

居場所がないから人は悲しみ
居場所がないのだと絶望して人は死ぬ。
居場所を見つけて喜び、居場所があるから安堵し、居場所があるから希望を持つ。

 

人の居場所を作ってあげる人になる。自らが、人の居場所になってあげられる人になりたい。この作品を観て、心からそう思えるようになった。

 

居場所って人間の本質。幸せそのものなんだろう。だからこそこの映画は何とも説明しがたい感動を得られ、万感の想いを抱かせてくれるのではないか。

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この映画は、リピーターがとても多いという。僕もすでに8回観に行た。たぶんこれからも行く。
きっとすずさんの気持ちを理解してあげたくて、何回も観に行ってしまうのだろう。

 

すずさん、あなたの人生は幸せなんだよって言ってあげたくて、僕らが理解者になってあげたい、そんな衝動に駆られて、何回もすずさんに会いに行ってしまう。

そう、これは観に行くのではなく、会いに行く作品なんだ。

 

まだ観ていない方。いや、まだすずさんに会いに行ってない方は、ぜひ、本当にぜひ。
一度、すずさん会いに行ってみて下さい。

 

この世界の片隅に聖地巡礼編 へ続く。

 

 

 

 

『少し前』のワクワク感

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その日最後に聴いた音楽が、ずっと頭の中を巡っていることがよくある。
知らぬ間に鼻歌になってたり、口笛吹いてたり。

調べてみたら、こんな記事を見つけた。

wired.jp

記事によると【 INMI(Involuntary Musical Imagery)無意識的音楽イメージ 】という科学的な名前もあるらしい。初めて知った。

無意識的に、その日聴いた音楽をイメージしてしまう…
ならば音楽じゃなくても、試合前とか、練習の最後とか、、その日最後にコーチに言われた言葉って、無意識に頭の中に残ってしまうんじゃないだろうか、ってふと思った。
言葉だけじゃなく、その時のコーチの表情とかも。

それがもしネガティヴな言葉や表情だったら、たまんないよね。試合前なら尚更のこと。その言葉が試合中もずっと頭の中をループしたりして。それで良いプレーなんか出来るわけないよなぁ。

言葉だけじゃなく、表情や、姿、立ち振る舞いも。
マイチェアーにどかっと座ってるコーチを見て「頑張ろう」とは決して思えないだろうし。

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話は変わるけど、僕は映画館に映画を観にいくのがとても好き。

映画館のロビーに入った瞬間、外の世界とは雰囲気が変わるあの感じが大好き。ポップコーンの匂いも。
映画だけでなく、何かが始まるのを『待つ』時間が好きなんだと思う。
映画館、飛行機に乗る前、新幹線のホーム、Liveが始まる前、照明が落ちて真っ暗になり、Liveが始まる瞬間も。

このワクワク感。
これらに共通するのは、これから『非日常の世界に行く』ということ。
非日常へ連れてってくれる、少し前の時間や場所。

だから普段の練習でも、選手達にはそんなワクワク感を持って練習に来てほしい。今日は何が起こるんだろう、っていう。
そのワクワク感は僕らが創り出さなきゃいけないんだけど、こうやって書いてる自分が、まだまだ全然そこに辿り着いていない。優れた演出家、そしてイベントプロデューサーになっていくために、もっと自身の感性磨かなきゃと、強く思う。

ということで、これからもやっぱり映画たくさん観に行こう…