Neutral football

イメージした理想が現実を塗り替える。フットボールと社会をつなぐ

乃木坂46とは、生田絵梨花のことである

f:id:neutralfootball:20161103215932p:image

勝手に『 乃木坂46の素晴らしさを語り尽くす 』シリーズ

「お前はサッカーのことだけ真面目に書いてればいいんだよ!」というクソ真面目な人にはこのコラムは向いてませんので、ごめんなさい。前回も書いたけれど、ジャンルや先入観だけで垣根を作ってしまうのはもったいないよ。そういうのを全て取っ払って、リミッターも外して、僕は面白おかしく生きていたいのだ。

 

さて 前回は、卒業&芸能界引退 を発表した橋本奈々未の潔さと、その魅力について書きました。

今回は、乃木坂46というグループ全体が持つ、稀有な魅力に焦点を当てます。

自分が乃木坂LOVEということは以前から色々な媒体で公言してるし、もう好き過ぎて、FootballEDGE にも「チームづくりと乃木坂46」として、2回もコラムを書かせてもらったほど。

なぜ、こうまで乃木坂46に惹かれてしまうのか。コラムだけでは書き切れないその魅力を、僕なりに語り尽くしたいと思う。前回と同じく、サッカーのことは一切書きませぬ。

FootballEDGE のコラム内にも書いたけれど

乃木坂46とは、◯◯◯のことである』と評する時、この◯◯◯にメンバーそれぞれの名前を入れるとすると、僕はそのメンバーの数だけ、それぞれ違う見方と文脈で乃木坂46というグループ魅力を語ることができる。それはきっと僕だけではないはず。これが今、乃木坂46の魅力を表すには一番わかりやすい方法のような気がする。

 

つまり乃木坂の魅力はメンバーそれぞれの多様性であり、その多様性が交わり一つのチームとなった時に発する圧倒的な魅力に、僕らファンは虜になってしまう。
一つのチームになる時、その主役は様々。メンバーそれぞれに違う個性と魅力があるので、乃木坂は入れ替わり立ち替わりで主役を替えられる。その都度、他のメンバーがその主役を引き立てるためにうまく脇を固め、また違う色と魅力を発していく。

中でも

僕が乃木坂にハマるきっかけにもなった『いくちゃん』こと生田絵梨花のことだけは、どうしても真っ先に書かなければならぬ。

 

乃木坂46とは、生田絵梨花のことである 』

彼女は乃木坂が誇る天才。ドイツ生まれ、ピアノで東京都代表になるほどの才能の持ち主であり、現在は某音大に通う19歳。もちろんピアノだけでなくその歌唱力は本物で、彼女がピアノの弾き語りで歌った『君の名は希望』は本当に美しく、これは一聴の価値がある。

ちなみにこの『君の名は希望』のサビメロディーが、今春から東京メトロ乃木坂駅の発車ベルにもなっている。これも、彼女がピアノで弾いたもの。通勤や通学で乃木坂駅を利用している人は、彼女のピアノを毎日聴いてることになる。いーなー。

…と

彼女の音楽的才能をあげたらキリがないのだけれど、それ以上に彼女が天才的なのは、その独特な感性と、面白いことを面白いと思わず、真剣にやりきってしまうところ。このセンスがもう… 最高で。大袈裟でもなく、彼女は本物のエンターテイナー。うまく説明できないのだけれど、一度観たら、誰もが彼女にハマると思う。そして毎回毎回、彼女には笑いの神が降りてくる。

例えばこれとか。顔…w
↓↓

 

いくちゃんのことを語り出したら止まらないのでもうこの辺で止めておくけれど(ホントはもっと語りたい)彼女の面白い動画は他にもいっぱいあるので、興味を持った人はご自分でググるYouTube検索を。

とにかく、彼女はもっと『知られるべき』逸材なのだ。

 

こんな天才いくちゃんを筆頭に、他にも多種多様な個性あるメンバーが多数。前回登場させた橋本奈々未、そして西野七瀬白石麻衣齋藤飛鳥堀未央奈生駒里奈高山一実若月佑美、北野日菜子、中元日芽香…まだまだいるけどクドくなるのでやめておこう(ちなみに中元日芽香の妹は、BABYMETALの中元すず香である)

メンバーそれぞれの魅力を一人ずつ語り出したらそれこそ超絶に長い文章となるので、苦渋を飲んで、次に移ります。

 

バナナマンの存在。

乃木坂ファンのほぼ全員が同意してくれると思うのだが、この多様性をうまく交じ合わせるためにどうしても欠かせない存在が、人気お笑いコンビのバナナマン。これは Football EDGE のコラムにもしつこいくらい書いたので、こちらを参照して下さい。

 

【久保田コラム】チームづくりと、乃木坂46 のはなし | FootballEDGE

【久保田コラム】乃木坂46とバナナマンの関係性に見る、育成年代の指導者の理想的なあり方 | FootballEDGE

 

コラム内で繰り返しているように、バナナマンの2人が、乃木坂46メンバー達の個性や魅力を存分に引き出していてるんですよ。乃木坂がここまで人気者になった、最大の立役者。

 

ほんの一例たち

↓↓


 

このようにキャラをつくったりいじったりして面白くしてあげるだけでなく、彼女達への愛情、優しさを惜しげもなく見せることもあるし、時には熱くなることもあった。

 

いかがでしょうか。このように『乃木坂46とは、バナナマンのことである』
と評したとしても、乃木坂46についての説明がほぼ出来る。それくらい、乃木坂とバナナマンの結びつきは深い。
バナナマンがいなかったら、乃木坂がここまで人気者になることはなかったんじゃないかな。これ、ファンの人達はほぼ同意してくれるはず。

 

興味を持った方は『乃木坂工事中』を是非ご覧下さいませ。

次に

バナナマンと並んで、乃木坂を語る上で絶対に欠かせないのが、楽曲とMV(Music Video)のクオリティの高さ。

ニューアルバムに収録された『きっかけ』は、Mr.Childrenの桜井さんがLiveでカバーしたほど。

youtu.be

そして前述した『君の名は希望』は、彼女達の代表曲とも言える曲で、昨年初出場した紅白歌合戦でも披露された。

これらだけでなく全体的にクオリティーは高いのだけれど、他に強いて挙げるとするならば

『何度目の青空か』『今、話したい誰かがいる』『僕がいる場所』

『失いたくないから』『羽根の記憶』『気づいたら片想い』…

うーん、絞りきれない。

 

MVに関して言えば、乃木坂のMVは「曲そのもののMusic Video」というよりも、その曲の世界観をモチーフにして創られる独立した一つの作品、と言えるもの。これまでも、その作品づくりには新進気鋭の映像作家が名を連ねてきた。

 

新曲『 サヨナラの意味 』

感情の起伏により体に棘が浮き出るという架空の人種『棘人』と、その村に暮らす人間達が、偏見や垣根を越えて次第に心を通わせていくという物語。曲の魅力をさらに膨らませる、美しく壮大な世界観のドラマになっている。

必見。

他にお薦めを少し挙げるとすれば

・彼女達の天真爛漫な魅力を堪能したいのならば『夏のFree&Easy』

・コメディエンヌとしての彼女達を楽しみたいのなら『そんなバカな』

・映画のような世界観に浸りたいのならば『何度目の青空か』
・女優としての彼女達を観たいのならば『月の大きさ』か『立ち直り中』

・完成された映像作品を観たいのならば『無口なライオン』

 

乃木坂46論 | 青弓社

第6回 乃木坂46が紡ぐ「個人PV」という織物 | 青弓社

 

最後に

いつか終わりが来ることへの寂しさ。

今年6月には深川麻衣が卒業し大きな変革期を迎えた。そして前回も書いたように、結成時からグループを支えてきた主力中の主力、橋本奈々未も卒業そして芸能界からも引退するという。


乃木坂46には、今、22〜24歳になる初期からの主要メンバーが数名いる。

今回の『橋本奈々未の卒業』という大きな出来事をきっかけにして、これら初期メンバー達の卒業が、あと1.2年のうちに相次ぐのではないか。もちろんそれは仕方のないことだしその日がいずれ来ることはわかってはいるのだけれど、想像すると、なんだかとても切ない。間違いなくそうなることも、わかっては、いるのだけれど。

 

冒頭で「乃木坂46の魅力を僕なりに語り尽くしてみたい」とか書いたくせに、結局、僕の拙い文章力ではとてもとても書き切れない。あれもこれも…ともっとたくさん書きたくなってしまうのだけれど(もう充分、書き過ぎだろ、と言われるだろうが)思いつくことを全て書こうと思ったらキリがないし誰も読んでくれなくなるので、もう止めておきます。

前回と併せ、このコラムをきっかけに少しでも興味を持った人がもしいてくれたら。その人がそれぞれなりに、彼女達の新しい魅力を見つけてくれればいいと思う。きっとたくさんの見つけられるよ。

 

 

サヨナラの意味

f:id:neutralfootball:20161027142305p:image

日本で一番、乃木坂46のことが大好きなサッカーコーチは誰か。はい、僕です。
日本で一番ということは世界で一番。つまり僕よりも乃木坂46のことを大好きで愛しているサッカーコーチは、間違いなくこの世にいないということである。

 

ジャンルを問わず、良いものは良い。自分が何歳だろうが、おじさんだろうが若者であろうが関係ない。アイドルだろうが演歌だろうがRockだろうがjazzだろうがbluesだろうが何だろうが、心の琴線に触れて揺さぶられ、胸に残るものに対しては素直に「良い」と言える感性でいたい。歳を重ねれば重ねるほど、僕はそのハードルがどんどん低くなっている。
どんなジャンルでも、何に対しても 「いいね」「好き」「もっと知りたい」と思えることって、幸せなことだと思う。

というわけで

このコラムは別にサッカーだけのことを書くわけではなく、自分の感性に基づいて社会のことを何でもNeutralに書くと決めているので、今回はサッカーは一切出てきません。悪しからず。

乃木坂46の稀有な魅力と素晴らしさ、なぜここまで惹かれてしまうのかということを、僕なりに掘り下げて書いてみたい。こうしてアウトプットでもしなきゃ、もう好き過ぎて頭がパンクしそうなのだ。

 

好き過ぎるので二回に分けて書くけれど、第一回目の今回は、先日卒業を発表した

橋本奈々未さん 』のこと。

f:id:neutralfootball:20161027155704j:image

橋本奈々未。初期からの主力中の主力で、グループの顔とも言える大きな存在の一人。

彼女は乃木坂46を卒業するだけではなく、なんと芸能界も引退するという。

このニュースを聞いた時、やっぱりか…というショックな気持ちと、彼女らしくて潔いな、という気持ちの両方が浮かんだ。他のメンバーとは違う独特な世界観や価値観を持っている人だなというのを、彼女の言動や佇まいから、僕らファンはいつも感じていたから。

 

彼女はいわゆる『アイドル』という器だけには到底収まりきらず、掴みどころのない不思議な魅力がずっとあった。他のメンバーが『動』だとしたら彼女は『静』。常にどこかクールな一面を醸し出し、その美しいルックスはもちろんのこと、頭の回転の速さと頭脳明晰な知的さ。小学生時代には、全国模試で一位を獲ったこともあるらしい。


高校卒業後に上京し奨学金で大学に入り、学費と生活費は全てアルバイト代でまかなっていたという。その頃の生活が苦しくて、毎日おにぎり一つという日が続くことも多かったらしい。

その生活苦から抜け出したくて「芸能人になればロケ弁を毎日食べられると思ったから」という理由で乃木坂46のオーディションを受けたというのは、有名な話。


そして次の目標は「弟の大学の学費を全額納入すること」と公言していた彼女。弟さんの学費だけでなく、お父さんの借金も彼女が完済したという。

その目標を達成しスパッと芸能界を引退する、というのがいかにも彼女らしいというか。それが一番の理由だと彼女が明言したわけではないので、もちろんそれが全てではないかもしれないが、間違いなく、大きな理由の一つではあるんだろう。


乃木坂を卒業してソロ活動したとしても、女優やタレント、モデルとしても間違いなく売れる。でも、そんな用意された道に甘んじずに芸能界自体をスパッと引退して新しい道に進むというこの潔さが、いかにも彼女らしくてカッコ良すぎる。
この異例とも言える決断も、彼女ならばやはり納得してしまう。聞くところによると、秘書の勉強もずっとしていたとか。

 

普通ならば憧れの対象であり、そこでずっと輝いていたい、脚光を浴びていたいと思うであろう『芸能界・有名人』というその場所に、彼女はそれほど価値も重きも置いていなかったんだと思う。冒頭にも書いたけれど、それは彼女が発する言動や佇まいから、何となく感じ取れていた。

きっとこれからやりたいことがいっぱいあるんだろう。もう会えなくなるし顔も姿もきっと見れなくなってしまうのだろうけど、僕らファンは、彼女の勇気と新しい人生を心から応援したいと思う。

そしてこの潔さを、素直に見習いたい。

f:id:neutralfootball:20161027142336j:image

精魂尽くして颯爽たり、顧みるときの微笑み 

以前、彼女が新聞の取材で「好きな言葉」として紹介していたこの言葉を、自ら体現したんだね。

 

11月発売の16枚目シングル『サヨナラの意味』は、乃木坂46の過去16枚のシングルの中で屈指の名曲。そしてMusic Videoも、感情の起伏により体に棘が浮き出るという架空の人種『棘人』と、その村に暮らす人間達が、偏見や垣根を越えて次第に心を通わせていくという物語。曲の魅力をさらに膨らませる、美しく壮大な世界観のドラマになっている。

 

この『サヨナラの意味』で、いよいよ彼女が待望の初のセンターを務めることに。卒業まで時間もない。今回のニュースで初めて彼女のことを知ったという人も、これをきっかけに興味を持って見てもらえると、その唯一無二の魅力が伝わるかと思います。

f:id:neutralfootball:20161027142227j:image 

『 終わることためらって 人は皆立ち止まるけど

僕達は 抱き合ってた腕を離してもっと強くなる 』

 

 

 

 

小さい頃から戦術戦術!小さい頃ならドリドリ!について

f:id:neutralfootball:20161022073909j:image

小さい頃から、戦術を教えなければいけない!

小さい頃なら、ドリブルだけやってればいい!

最近、こういう派閥同士の対決が各地で細々と行われているような。

 

僕はどちらでもない。どっちも大事だけど、ぶっちゃけ、どっちもそれほど大事じゃない。全部大事なんだから。

 

拘るのは大事なことだけれど、その拘りは本当に信念と言えるだけのものなのか。誰かの受け売りだけでなく、自分が迷って試行錯誤して苦しんで、子ども達と戦って子ども達から教わった上でようやく辿り着いた本物の言葉として、魂を込めて放てるものなのか。

 

『小さい頃から戦術戦術!小さい頃ならドリドリ!について』

このお題でコラムを書く前に、まず前提として、子ども達への指導に対して

「あくまでもチーム戦術の中で」とか
「こうあるべきなのです」とか

こう「エッヘン!」とばかりに主張する20代や30代の若い指導者の方が、なんだか多い。

お、おぅ、、ごもっともですね、でも…なんだかなぁという微妙な違和感を、最近感じてます。

 

いや、言ってることは確かにほぼ正しいし指導者として自信を持つのは大事だけど、なんだかこう…
誤解を恐れずに言えば、若いうちからそんなに達観しちゃうのはもったいないと思うんですよね。しかも丸い方向に悟っちゃうのが。それだと自分が丸くなるだけじゃなくて、子ども達も一緒に丸くさせちゃうというか。

 

自分自身もっと尖って、子ども達も尖らせて、気が鱗れて、気を鱗れさせて…と、ハチャメチャな若い指導者がもっとたくさんいてもいい。
あいつまだ青いな、何もわかっちゃいねーなと、頭の固い守旧派の年寄りから嘲笑されるくらいのエッジを持ったっていいんじゃないかと。いろんなものに手を出し、触れて、そしていろんな人に会い、たくさん迷って失敗して恥かいて、それで辿り着いた結論ならば説得力もあるけれど。

 

大きなお世話なのは重々承知だけど、若いうちから早くも悟った気になるのはもったいない。まだまだ違う可能性あるのに、早くもご意見番みたいなこと言うなよと。俺なんかこの歳になってもまだまだ迷ってるし尖ってるし、さんざん後ろ指さされとるわ。
(それはそれで問題ありかもだけど 泣)

 

『自分を守るのは何かを残した後だぜ 形にこだわっちゃ古びたものしか見えない』
『やたらと計算するのは 棺桶に近くなってからでも 充分できるさ Life is On My Beat』
BOØWY / ON MY BEAT)

----------------------------------------

さて、ここからが本題。
まず【 小さい頃から戦術教えなきゃいけない!信奉に関して 】

 

もちろん、必要なことは教えるべきだと思います。でも教えすぎは絶対にダメだし、むしろ、戦術というよりも『相手、味方、局面』の見方、考え方、捉え方を教えて、頭の中で描ける戦略を増やしてあげることが必要かと。そこに技術を乗っけてくのだよと。

 

でもどうしてももっと教えたい!戦術教えたいんす!というのなら
・日本人の気質や特性を理解してるのか
・あなたが信じてるその戦術や原理原則は、本当に正しいのか
・あなたのマスターベーションではなく、目の前の子ども達に則したものなのか
という大前提の自問自答と試行錯誤が常に必要となる。

 

・海外ではこうだから!と画一的に言う人、それを信じ切ってしまう人
・考えが違う人達とは一生わかりあえない、時間の無駄と言い切ってしまう人
・他の見方や意見を尊重できず『それ以外の良薬』もあることを認められない人

 

これらは典型的な日本人のマインドとも言える(と、僕は思ってる)のだけれど、そのような人達が「これが正しい、こうすべき」と子ども達に『戦術』(と思い込んでるもの)を教えることこそ、本末転倒で悲劇になる可能性が大。どこを切っても同じ、その状況なら必ずそれやるよねという金太郎飴がきっとたくさん生産されるよ。てか、もう大量生産され続けてる。

「ここではこのやり方、ここではこう。でもそれを踏まえて、状況によって自分で他のアイデアを出してもいいよ」と、口ではみんな言う。

「型がないのは型なし。型破りとは違う」
「まず型をつくり、型にハメて、そこから飛び出せる個性こそが型破り」
・・・とか、聞き飽きたわもう。

確かにその通りですよ、でも
その指導者の性根かDNAのレベルで、その《型破り》を許せない人がほとんど。日本人なら特に。そういう人、僕は今までたくさん見てきた。

ハミ出そうとする八重歯の存在を、端正しようとしてしまう。無意識にでも、それが口調や所作、振る舞いに表れる。

そして大人から言われたことに対し「なぜ?」「僕はそうは思わない」「僕はこうした方がいいと思ったからこうしたんだ」と言える日本人の子どもが、さてどれだけいるか。これはもう学校教育の領域にもなるけれど、そんな子ども、まだほとんどいないでしょう。ごく稀に、たまにいるけど。
大人側の意識や教育環境が変わり、そんな子どもの方が圧倒的に数が多くなれば、戦術、ガンガン仕込んで教えるべきだとは思います。

 

でも現実は選手にハミ出されることを許容できない指導者がまだ多く、ある一つの方向性や見方、やり方へと子ども達を押し込んでしまうニュアンスを、自らの声がけや導き方の中に込めてしまう。発問形式のコーチングがいいというけれど、ほとんどの人は誘導尋問してるだけ。資格取得講習会や指導者講習会に行くと、気持ち悪くニヤニヤしながらの誘導尋問が横行してる。

 

全体で同じことをやらせたい、全体で同じ向きを向かせたい、一糸乱れず…
平均的な日本人はこれが大好き。これに縛られていて、逃れられない人が多い。

子どもは、そういうコーチの姿や「在り方」を敏感に察知する才能を持っている。空気を読む天才だかんね。自分の思ったことを自粛して、そのコーチが喜ぶような方法を取ってしまう。
そうさせたらダメなんですよ。僕も自分のそんな弱さといつも戦って、敗れて、の繰り返しだけれど。人のことは言えないかもしれない。

だから
戦術を教えるなら、自由の本当の価値と意味を知るリベラルな人間であり、変人と言われるくらいの人が丁度いい。あのオッちゃんが一番自由だわ、と言われるくらいがいい。

「お前らに、格好の戦術教えたる。でもな、これに背くのも全然アリなんやで」
これを、心の底から本気で言える人。そしてそれを本当に許容できる人、子どもが放つ《型破り》をワクワクしながら見ていられる人こそが、目の前の子ども達に合った戦術を教えるべきなんだと思います。

f:id:neutralfootball:20161022073757j:image

そして僕のスタンスはハッキリしてます。こうすべき、という『やり方』以上に、魅力的で、美しくて、カッコ良くて…という『在り方』を子ども達自身が見つけ表現できるように、自分の自由さを見せながら、サッカーの楽しさとともに伝えていきたいんすよね。理想論と言われるかもしれないけれど、理想を持たなければ、そこには一歩も近づけない。

f:id:neutralfootball:20161022073810j:image

 

----------------------------------------

【 スペインと日本の違い 】

スペインでは育成年代でも週末の試合のためにトレーニングするスタンスがほとんどらしいが、だからといって日本もそうすべきだろうか。それは違うと思う。

 

バルセロナ水戸ホーリーホック、つまりスペインと日本の育成年代両方で指導経験がある村松尚登さんの言葉が、この問題を端的に表している。

「スペインでは、その選手が爆発的に伸びること、つまり《化ける》ことは期待されていないし、それが指導によって出来るとも思われていない。選手の成長は、他の選手やチームとの相互作用によってのみ生まれると思われている」

「しかし日本では、目の前の普通の選手を《化けさせる》ことができると信じて指導している指導者が多いし、実際に化けている選手も多い。そのためのノウハウも日本の方が多い。スペインには、そういった考えはない」

 

これは、日本の指導者の誇れる部分の一つなんじゃないだろか。

スペインと日本の両方で指導をし、両国の子ども達(指導者も)が持つ気質の違いを肌で感じた、村松さんならではの視点だろう。

だからどっちが正解でどっちが間違っているということではないし、わかりあえないということも決してない。海外と日本の良さ、うまくミックスすればいいじゃないですか。それこそ、日本人の得意分野じゃなかったっけ。

 

「サッカーには不向きな気質の日本人の子ども達にサッカーを教えてくということが、どれだけ難しいことか。スペインやオランダの指導者には出来ないことを俺らはやってる。俺らはプロ中のプロなんやで。もっと誇りを持っていい」(岩谷篤人氏)

 

----------------------------------------

【 小さい頃ならドリドリだけでいい!信奉に関して 】

 

「小さい頃なら、ドリやボール扱いのテクニックだけでいい!」ってのも違う。

「小さい頃だからこそ、それをまず最優先して教えた方がいい」と言うのならわかるけど、
「それだけでいい」と頑なになるのは、サッカーが持つ自由さとは正反対。指導者の好みの押し付けそのものだ。それこそ、金太郎飴が出来上がる。

 

つい最近、試合の場でこういうことがあった。
ボールを持ったらどんな局面だろうが相手との間合いがどんなだろうが、必ず下を向いてボールをコネコネ。味方も相手も見ないでボールに触り、股抜きとヒールリフトばかり狙ってくる。
残念ながらうちの子達もそういう相手は慣れてるから、1人目で抜かれても2人目で必ず捕まえるんだけど、そしたら露骨に後ろから腕引っ張ってくる。おいおい。

相手なんか関係ない、自分達さえ楽しめればいい、俺達こんなに技術に拘ってるんだぜカッコいいだろ、ウェーイ!ってやつ。僕から言わせたらあんなのドリブルでもないし技術でもないんだけど、まぁ、きっとわからないんだろう。
水たまりがたくさん出来ていたグランド。こちらにボールを奪われたら、水をバシャーンと蹴って水をかけてふざけたり。それ見てる指導者も何も言わない。ウェーイ!を生み出してる張本人だから、それも仕方ないか。

 

そんなチームとの試合、リードして前半を終えて帰ってきたうちの選手達が口を揃えて何と言っていたか。「もうこのチームと試合したくない。ふざけてるよ」と。
もちろんその通りだが、仕方ないから後半はこちらの練習のみに切り替えることにした。ボールのあるところに大量に群がって来る相手だから、奪った後、ボールをどう持ち出すかの練習にしよう、と。本当は、真剣勝負の中でいろんな練習をしたかったのだけれど。

このチームだけが極端なのではなくて、こういうチームが結構増えてる。そして同じ趣向の指導者同士が常に群がる。こういうチームは「技術に特化してる」と評するには値しない。本質を無視した大まかな言葉で、サッカーの本質を捉えていないチームと一緒にするのはやめてほしいものだ。

 

味方も相手も見ないドリブルなんか、ただの自己満で偽物のドリブル。技術のギの字もない偽ドリブラー。このチームと試合することは、もう当分ないだろう。

また、それとは少し毛色の違う話だが、3年前、女子サッカーの名門・東京の十文字中学校でコーチをしていた頃の話。
中2と中1の選手達を連れて、千葉県へと練習試合に出かけた日のこと。相手はドリブルと個人技に特化したスタイルで有名なチームだった。東京の中学年代でそういうスタイルのチームはないからうちの選手達も最初のうちは少し戸惑っていたのだけれど、時間が経つにつれ、だんだんと順応していく。

しばらく何も言わず見ていたら、相手のドリブルに対し、うちの選手達が同じようにドリブルと個人技主体のプレーで、相手に応酬し始めた。
最初はある一人がそれをし始めたんだけど、それが他の子達にも波及して、数分間の間、ドリブルと個人技のやり合いが続いた。みんな、少し意地になっているかのような表情だった。
私達だってやろうと思えばこれくらい出来るし、と言わんばかりに、まるでサッカーを始めた頃のサッカー少女そのものの顔で。

 

数分間の応酬を終え、落ち着きを取り戻したのか、うちの選手達は従来の「速く的確なプレー」に戻り、相手をさらに凌駕していった…という試合だった。
私達だってやろうと思えばあれくらい出来る、でも今は違うことを出来るようになるために、このチームで認められるために、大きくなるために必死に練習してるんだ、という彼女達の見えない意地。彼女達が数分間だけ垣間見せた本能と、でもそれを理性で抑えて相手をさらに超えていったあの姿を見て、彼女達のことがそれまでよりもさらに愛おしく感じた、今でもたまに思い出す、忘れられない試合。

 

あの子達は今、高2と高1になっている。どれだけ成長したか、今度久しぶりに試合を観に行こうと思ってる。

この例で僕が何を言いたいか、感じ取ってもらえる人は多いはずです。

----------------------------------------

オマケ
【 フットサルの導入に関して 】

 

Jr年代でフットサルを推奨するのはとてもいいと思う。
しかしこの『サッカーのためにJr年代でフットサルを多く導入する』というファクターだけでも、戦術信仰派閥とテクニック信仰派閥によって、その考え方は分かれてる気がする。

足元の技術だけでフットサルの良さを捉えてしまうと、たぶんサッカーには繋がらない。局面の捉え方から、オフザボールも含めた個人&グループ戦術の使い方へと選手の中で拡がるように指導し、そこに足元の技術を乗っけていけるようにしてこそ、フットサルはとてもいい題材になると思う。

----------------------------------------

【 結論。Jr年代の指導に関して、僕の考え方 ① 】

 

週末の試合に勝たせることが目的ではない。

Jr年代の指導者の役目は2つ。
・サッカーをもっと続けたい、と思って卒業させること
・中学や高校でのプレーの基礎となる土台を作ってあげること。

土台って何 〜 土台とは3つ。個人戦術、技術、しなやかな身体。
・サッカーというスポーツの捉え方、局面の捉え方、考え方
・味方の中でプレーすることを知る、攻守両方の個人戦
・それらを可能にする技術、頭と身体のしなやかさ。
これらで充分かと。

 

ちなみに
【 例えば・① 〜 技術とは 】

技術とは護身術。しかし最後は、味方のために使うもの。

ボールの扱い方だけではなく、状況察知(による使い分け)、閃き、ボディーバランスを全て複合したのが技術。これらを高いレベルでリンクさせられるのが巧い選手。

一人では出来ても、二人になると難しいことが多い。でも、そこを磨く。ジャストなタイミングでパスをつなぐことがサッカーの本質の一つでもあるから、そのためにも個人の技術が必要になる。
合わせたいタイミングで動けること。その時、相手よりも必ず先に触れる位置にボールがあること。これが真の技術。

 

相手を抜くためにドリブルをするのではなくて、良いパスをするためにドリブルやボールタッチを磨く。
メッシはドリブラーではなく、世界一のパサー。うちではこれが共通認識。

うちでは、そのために『ドリ練に見える練習』をやっている。でも子ども達の頭の中は、第三者が外から見るのとは全く違う回路で動いてるし、全く違う所を観て、遠くと先を感じながらやっている。
表面だけを見て、それを『マーカーやコーン相手にやってるただのドリブル練習』としか思えない人にはこの練習の意味はなかなかわかってもらえないだろうし、そんな表面的な見方しか出来ない人に『ドリブル教えるのは意味がない』とか、言われたくないってことです。


【 例えば・② 〜 守備への入り方について 】

うちでは《攻守の切り替え》とか言うの禁止。切り替えなんてしてちゃダメ。攻守は一体で、ずっと続いてるもの。
奪われ方はこっちが決める。奪われる場所、奪われる選手、どうなればほぼ奪われる?
これを先に知っておけば、相手よりも先に守備に入りやすくするための攻撃が出来る。

気づいてないようで気づいておく、気づいていないように相手に見せておいてインターセプトするとか、気づいていることを出し手に見せて、そこへのパスを諦めさせるとか。

↑↑
これくらいは、小学生でもガンガン教えてます。これを戦術というのなら、うちはめっちゃ戦術教える派閥に入っちゃうけど。

 

--------------------

【 結論。Jr年代の指導に関して、僕の考え方 ② 】

 

僕の理想は明治神宮聖徳太子。めっちゃ日本的やで!

為末大さんが言っていたのだが、明治神宮の様式美は、計算された無作為らしい。一見バラバラな造りの建物ばかりでただの寄せ集めなのだけれど、全体として見ると、あるコンセプトが浮き出て見える。これは東洋ならではのカッコ良さ。

そして
みんなが勝手にやっていながら合う。それが聖徳太子の【和】だという。
対して、みんな同じことをするのは【同】。

君子は【和】をし、小人は【同】をする。
君子は【周(調和)】し、小人は【比(前の人と同じことを)】をする…

和して同せず。僕は《バラバラな個性が和していく》チームづくりを目指したい。

 

決められた統一感や、仕込まれハメられたやり方ではなく、選手それぞれの特徴が交わり活かされた結果、そのチームならでは(そのチームゆえ)のコンセプトが浮き出て見えるように。無理矢理ではなく、あくまで自然にそうなる姿が美しい。そう持っていくのが、指導者の腕の見せどころではないか。

Mr.Childrenの曲『Pieces』の歌詞中にある、この一節を忘れずにいたい
「僕らは一つ。でも、一つ一つ」

 

----------------------------------------

【 最後にオマケ。コーチとしての気概 】

 

指導者ならば、勉強はたくさんすべき。でも、きっとほとんどの選手は『僕のコーチは世界一や』って信じてくれてる。

人と同じ本ばかりを読み、人の教えや考えを有り難がって
「こんな本を読んでます!」
「こんなに勉強してます!」
「こんなにすごい人と関わってます!」ってアピールする前に、まず自分でやるべきことがあるはず。自己研鑽は隠れてやらなきゃ。勉強してることをあからさまに誇るのはカッコ悪い。子ども達は、そういう姿もちゃんと見てるよ。見られてないようで、めっちゃ見られてる。

虎の威を借る狐 にならぬよう、自戒を込めて。

 

・・・

とツラツラと偉そうに書いてしまったけれど、結局何が言いたいかというと、この文章の内容だってあくまでも僕の意見やスタンスであり一つの見方でしかないし、僕がこれまで紆余曲折を経て恥ずかしい思いもして修羅場もくぐってようやくこの程度に辿り着いたものでしかないのだから、この文章を読んで「そうだ!その通りだ!俺もそうする!」となびいてしまう人は、戦術なんか絶対に教えちゃダメだよってことです。

 

自分で決められることの大切さ ② 〜 ストイコビッチが教えてくれること

f:id:neutralfootball:20161012142548j:image

前回『自分で決められることの大切さ』という記事を書いて、少しばかりの反響をいただきました。 

その記事内にも登場させたストイコビッチの映像を見直してたら、あぁまさにこの人、自分で決めてる よと、改めて驚嘆するわけです。それも高い次元で。

そして思ったのが、自分で決められるということはつまり、身体が 何でもできる状態 にあるということ。

例えばこれ。天皇杯のキックフェイント3連続。

ストイコビッチ 超フェイントゴール 2000/1/1 Dragan Stojković /amazing feint goal

解説の木村和司さん「何でもできる体勢ですよね」
まさに。そして体勢だけでなく 何でもできる心、でもあったんだろう。プレーを決めつけてない。おそらくストイコビッチは、これまでのFootball人生で、強制と矯正をされていない。

 

何にも縛られてない。自由ってこういうことだ。

身体が何でもできるようなニュートラルな状態でいるだけでなく、心 も《何でもできる》ような、ニュートラルでフラットな状態にあるということ。見ての通り、めちゃくちゃ楽しそう!

 

つまり選手にプレーさせる立場の我々指導者としては、ここが一番大事なポイントなんだろうと、ストイコビッチが教えてくれてる。自由に動ける身体づくりと、発想を体現できる技術をつけること、そして何より、心を縛らないこと。

 

ワールドカップという大舞台でスペインDFを手玉に取り尻餅をつかせて奪ったマジカルなゴールも、まさにそれ。

歴史に残るようなスーパーゴールは、身体と心が 何でもできる 自由な状態にあったからこそ生まれたんだ。


1990 World Cup Yugoslavia vs Spain (Dragan Stojkovic)

ゴールは2:20頃〜

 

子ども達の心をガチガチに縛ってしまっている大人が、未だに多い。当然、心を縛られたら身体も固まるのは当たり前。技術を発揮できないし閃きも出てこない。
自分で選ぶ、自分で決められることの大切さをまずは指導者自身がもっともっと自覚しないと。特に日本人の子どもを指導するならば。


心を縛らず自由にさせてあげること。許容し、促すように。
そのためには僕ら大人が、もっと自由になる、自由でいることが大切なんだよな。

 

そしてこの人はやはり、大人になっても現役を終えて監督になってからも、自由な身体と心を持ち続けていた人だった(喜)


横浜F・マリノスvs名古屋グランパス・ストイコビッチ監督ボレーシュート

最高。心も身体も自由な人。少年の心を未だ保ち続けている人。いつかまた、日本に帰ってきてほしい。僕らにもっと、本当のサッカーを教えてほしい。

 

f:id:neutralfootball:20161012142602j:image

好きなだけ鮎食べられるよ!早く帰って来てー

 

 

強く望むことが世代を越えていつしか形になるならこの命も無駄じゃない

f:id:neutralfootball:20161012151033j:image

『Fútbol & Cafe mf』が9月いっぱいで閉店してしまった。
裏原宿のそのまた奥、原宿とは思えない静かな場所で静かに時間を過ごせるこのmfが僕は大好きだった。とは言いつつそんな頻繁に通ってたわけではないけれど、地方から来たサッカー仲間や「この人とゆっくり話したい」みたいな時は、まずmfを選んで連れて行ったなぁ。

mfの魅力は、店長を務めていた有坂さんが熟成させたもの。店のゆったりした雰囲気、でもラテンの熱い香り。ゆったりと熱さが実に良い感じで混ざり合う、mfでしか味わえない独特な雰囲気を有坂さんが熟成させていったんだろうなと。僕も含め多くの人は「mfにお茶しに行く」というよりも「なんとなく、有坂さんに会いに行きたい」という感覚で店を訪れた人が多かったと思う。

閉店にあたり、その有坂さんのインタビューが Football EDGE に掲載されてます。
こちら → http://www.footballedge.jp/lead/5843

で、mf閉店から5日後の先週水曜日に、渋谷で有坂さんと二人で飲む機会を作ってもらった。今後しばらくの間ご夫婦で中南米を旅する予定とのことなので、その前に、二人でゆっくり話せて本当に良かった。

f:id:neutralfootball:20161011105753j:image

色々なことを話した。

サッカーは自由なスポーツだということ、リベラルであり続けたいということ、坂本龍馬のこと、育成のこと、南米のこと、社会とサッカーとの関わりのこと、人のこと

特に…自由でありたい、ということ

 

この日、有坂さんに会う前に「mfお疲れ様でした」の意を込めて何かプレゼントを…と思い、でも何にしようかと迷いに迷って渋谷をブラブラ。閉店に合わせてきっといろんな贈り物を貰ってるだろうし、普通のものではなく少しひねりのあるものにしたいと迷っていたところに、目の中に飛び込んできたのが麒麟の置物。そう、首の長いキリンさん。

あ、これにしよってすぐに決めた。なぜキリンかというと…

Mr.Childrenの『進化論』という曲の一節に、こういう歌詞があるんです。

 

進化論では 首の長い動物は 生存競争の為に そのフォルムを変えてきたという

強く望むことが世代を越えて いつしか形になるなら この命も無駄じゃない

空を飛び 海を渡り 僕らの夢はまた膨らむ

誰も傷つけない 優しい夢を 素敵な夢を 君に引き継げるかな

空を飛び 月を歩き それでも自然に脅かされる

全て受け入れて 見果てぬ夢を 素敵な夢を 君と見ていたい

 

素敵な歌詞ですよね。特にここ

『強く望むことが世代を越えて いつしか形になるならこの命も無駄じゃない』

この部分が、僕は大好き。

 

毎日生きてく中で、僕らは未来に望みを持ってる。それがどういうものかを具体的に説明するのは難しいけれど、自由でありたいという大前提の中で、きっと楽しくなれる、きっと…と、強い望みを持って生きてる。同じように有坂さんも、強く楽しい望みを持ってこれから自由に生きていくんだろうという、同じ匂いをとても感じる人だ。

だから、これから新しい生活を始める有坂さんに贈るにはピッタリだと思って「お互いこれからも強く楽しく望んで生きていこうぜよ!」という意を込めて、キリンをあげました。気に入ってもらえたかなぁ。どうか、トイレにでも置いてやって下さいませ。

 


Mr.Children「進化論」from Stadium Tour 2015 未完

 

生きてる間に形になるかは分からないけれど、それを強く望むことでいつしか形になるなら、今を精一杯、自由に生きることは決して無駄じゃない。有坂さん、今後もよろしゅう頼みます。

 

「どんな時でも望みはある。望みがワシを生かしてくれちゅう」(坂本龍馬

 

 

 

教え子から聞いた沖縄のこと


Mr.Children - 1999年、夏、沖縄

2004年から今年3月までの約11年半の間、僕は都立国際高校の女子サッカー部でもコーチをしてたんですが

先週金曜の夜に、その国際女サカの卒業生と久々に会ってきた。

もう25歳になる彼女は今、沖縄問題に関心を持ち活動していて、実際に先月は高江にも行ってヘリパッド建設反対運動のサポートもしながら、現地の状況を見てきたという。その話が聞きたくて、僕から連絡して会ってもらった。

自分の細かい思いはそのうちまたこのブログに書くけれど、国際高校という「普通ではない」学校、隣の席には、当たり前のように違う国籍の子が座ってるという多様性そのものの学校。そこでサッカーというツールを通じて3年間に渡り関わった子が、大人になった今、こうして社会のことに関心を寄せ、自分のことのように怒り、悲しみ、実際に行動してる。僕はそれがとても嬉しい。

 

自分と自分の周りさえ良ければそれでいい、面倒くさいことや難しいことには関わりを持たない方がいい、勝ち馬に乗って虎の威を借る狐でいればいい、というサイレントマジョリティの側に属する方が簡単だし楽だし傷つかずにも済む。そういう大人、たくさんいるじゃんか。

けれど、彼女があえてその道を選ばず、自分の意思で考え動き始めてることが、とても嬉しい。
彼女の話す言葉に嘘はないし、心の底から言葉を発してくれた。僕は彼女のその言葉と顔に、今、すごく心を動かされてる。サッカーだけやってりゃいいってもんじゃない。

年内に彼女と一緒に沖縄に行くことになった。今から楽しみだ。

 

f:id:neutralfootball:20161011104904j:image

自分で決められることの大切さ

以前、小学1年生と練習してる時に面白い現象を体感したことがある。

3段階に分かれた練習で
① … 来たボールをリターン
② … 来たボールをリターンと見せかけ前を向く
③ … ① と②、自分で好きな方を選ぶ
みたいな感じだった。

①の時。つまり必ずリターンしなきゃいけない時は、その子から返ってくるボールが毎回とてもブレる。
②の時もそう。必ず前を向かなきゃいけない時も、実にぎこちない動きになる。
でも、どちらか好きな方を自分で即興で選んでいいという③の時。
その子から返ってくるボールは全てズバッと僕の足元に来て、前を向く動作も実にしなやかになる。

これは興味深いな、きっと何か理由があって必然なはずだ、と。
こうしなきゃいけないと決められた時は動きが固まりカチコチになって、逆に自分で決められる時は、頭も身体もしなやかになるんじゃないか…と思いFacebookに投稿してみたら、
『アレクサンダーテクニーク』の高椋さんが、すぐにメッセージをくれました。

アレクサンダーテクニーク・高椋さんの話
「これは、脊椎動物の刺激に対する反応の仕組みから説明すると分かりやすいかと。餌を自分で探して見つけるなど動物にとって快と感じる行動の場合、背骨が伸びる方向に動きが起こります。危険、恐怖など不快な刺激に対しては、緊張で背骨が収縮して急所を守ろうとする反応が起こります。人間の精神活動はより複雑ですが、自分の意志で動けないなど葛藤が生じる時は、後者の反応が起こります。背骨の緊張が習慣化されていない育成年代の指導では、選手が自発的にプレーできる環境を作ってあげることが、結果として良い体の使い方でプレーできる選手を育てることにつながると思います。あとは、良いお手本の模倣も大事ですね」

…なるほど!完璧な答えを頂きました。高椋さんありがとうございました。

『アレクサンダーテクニーク』http://alexander-fun.com/?page_id=1535

 

つまり
強制、限定された時の脊髄の反応と
自分で決めていい、選んでいい時の脊髄の反応には、明らかな違いが出る。
これはもちろん、動きのしなやかさにも繋がることでしょう。

そうなると、僕ら指導者が普段の練習で子ども達にどんなメニュー設定をしどんな言葉がけをしたほうがいいのか、自ずと決まってきますよね。試合でもそう。決めつけや断定、子どもが判断する前に先回りして指示を出してしまうことは、例えそれが良かれと思ってしてることでも、おそらくマイナスに働いてしまう。

打て!と言われて打ったシュートが力み外れるのも、打て!って言われたからかも。少なくとも自分で「打とう」と決めて打ったシュートのほうが入る確率は高いだろうし、選んだ心の余裕があるぶん、打つと見せかけてタイミングをズラしてさらに決定機の質を高めることも出来るのではないか。

大人の声に左右されそれに縛られ従わないと罵声が飛ぶような試合会場では、ストイコビッチ天皇杯決勝で見せたようなキックフェイント3連発からのゴールや、90年W杯のスペイン戦で見せたキックフェイントで相手を尻餅つかせて決めたスーパーゴールを打てるような、アイデア溢れる選手は決して生まれないだろう。


ストイコビッチ 超フェイントゴール 2000/1/1 Dragan Stojković /amazing feint goal


1990 World Cup Yugoslavia vs Spain (Dragan Stojkovic)

スーパーゴールは2:20〜

f:id:neutralfootball:20161005191218j:image

例え相手が設定されていない、決められたことを反復して行うクローズドトレーニングをやる際にも、常に選択と発想の自由性、遊び、を持たせるようにする工夫が必要ですね。

----------------------------------------

武術家・光岡英稔さんは、こう語っています。
↓↓

f:id:neutralfootball:20161005191233j:image
教育したら人はすぐ弱くなります。「物事はこうでなければいけない」と教えたら、弱くなるのです。
学校をはじめほとんどの教育の内実は「こうでなければいけない」と刷り込んでいきます。もともとの才能を潰さずに教育するのは本当に難しい。

たとえば、私のもとで習っていた友人にジェームズという喧嘩屋がいました。彼は一時期、よそでボクシングを習い始めました。コーチは彼のパンチ力やヘビー級らしからぬスピードをみて「マイク・タイソンにも匹敵するスピードとパワーを秘めた逸材だ」と半ばスカウトして、彼をボクシングの世界に誘いました。

すると、それまで喧嘩では負け知らずのストリートファイターだったジェームズは、あっという間に弱くなっていったのです。

生の強さを活かせたらいいのに、下手にやり方やルールを教えてしまうとてきめんに弱くなる現象は、けっこう見られました。野性味あふれる強いファイターだと、周囲は「技術を学べばもっと強くなるだろう」と期待し、教育します。それがもともとの才能を潰すことになるのです。

これは個人だけでなく国家の規模で見ても同様で、だから異なる文化を持ち込むときには気をつけないといけない。異なる文化圏のルールやテクノロジーを持ち込むだけで、簡単に固有のよさを潰してしまえます。

 

上記は「現代ビジネス」の光岡さんインタビュー http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45934 からの引用です。

教育したら人は弱くなる。「こうでなくてはいけない、こうしなきゃいけない、こうすべきだ」と指導したことが、かえって選手の能力を潰してしまう…

このインタビューには続きもありとても面白いので、指導者や教育者の皆さん、是非ご一読を。

 

結論

空手家・大山倍達さんは、亡くなる直前まで「正しい拳の握り方がわからない」と言っていたそうだ。熊をも殺したという、誰もが知るあの達人でさえも。

f:id:neutralfootball:20161005184802j:image

大山さんが示すように、何事にも、これが正しいという正解は決してなく、それを常に探し続けるのが指導者の務め。
もちろん、それぞれの指導者がその人なりに信じる正しさはあっていい。でも、それを疑い続ける姿勢を保つこと。それが全てではないことを自覚し、選手に対し強制や矯正をしないこと。

わかること、は一生ない。わかったつもりになってはいけないのだ。