Neutral football

現実の殻を破る。フットボールと社会をつなぐ

攻撃と守備の概念は逆じゃないのか

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Offenseを「攻撃」Defenseを「守備」と訳し、その文字の見た目と響きのままに解釈してしまっているから、日本のサッカーは、ちょっと厄介なことになってる。

言葉をひっくり返そう。

「攻撃」は、こちらがボールを持たない時。
相手のボールを攻めに行く。

「守備」は、こちらがボールを持った時。
文字通りボールを「守」りながら、ボールが相手に渡った場合にも「備」えつつチャンスを伺い、
相手の間をすり抜け、かいくぐり、虚をつき、上をゆく。

ゴールは攻めるものではなく、陥れるもの。

攻撃だ、行くぞー、進むぞー、となるから緩急ないサッカーになるし、守らなきゃ…となるから、腰が引けてボールを奪いに行けない。

そんな話を、今日の練習にて子供達に話しました。

ボールのない時が攻撃
ボールのある時が守備

この概念で子供の頃からサッカーしたら、日本サッカーはひっくり返るんじゃないか。

そんな妄想してます。そしてそれを自分の手で証明したい。

井の中の蛙

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先日行われたU-12の県大会にて

あの試合、特に後半うちの選手達は相手に対し今までにないくらい激しく強い寄せをずっと繰り返して、それが後半の失点ゼロに繋がったのは間違いないのだけれど、少し遅れてアフター気味に行ってしまったり、気持ちが抑えきれずに相手のシャツを引っ張ったり…みたいなファールをしてしまうことも、しばしば。
その場合はもちろん、笛を吹いてもらって一向に構わない。当たり前だ。

けれど、ただ強く当たって相手が倒れるとか、それだけでピッピピッピと笛を吹かれることには、やはり到底納得できない。しかも主審の方はいつも歩いていて、遠くでその競り合いを眺めて、競り合いで倒したらゆっくり笛を吹いてばかり。前半1失点目のFKだってそうだ。あれのどこがファールなのか。全く馬鹿らしい。

また、後半に吹かれたあるファールに対し、試合後の整列時に「故意で悪質」と断罪してうちの選手に対し主審が諭していたらしいが、走りもせずルールも理解せず、ピッチ上の警察官気取りで偉そうに教育ぶって、うちの大切な選手に対し何か言うのはやめてほしい。言われた選手はどれだけ傷つくと思っているのか。

あんなに遠くから見て、なぜ「故意」と断定できるのか。全く意味がわからない。アナタは視力6.0のサンコンさんなのか。選手の頭の中を覗けるエスパーなのか。
選手を馬鹿にするのも、いい加減にして欲しい。

審判をリスペクトしましょう!とかよく言われるけど、本気でやってくれている人なら、例えそれでミスジャッジをされても、何も言わないし何も思わないし、リスペクトして試合に臨むのは当たり前。
しかしサボって不勉強で尊大で、しかも偉そうに教育者ぶってよその選手に説教垂れる人に対し、リスペクトなんかできるわけないでしょう。

あの主審も含め、うちの選手達のプレーを「荒い」とか評する人の、その眼力こそが荒い。

うちの選手達は昨秋に前橋でオーストラリアや韓国のチームから「本物の戦い」を挑まれ吹き飛ばされ、砂にまみれて「本物のフットボール」の片鱗を知り、それを機に、前橋が終わってからも激しく強い当たりを自分達で習慣づけて、当たり前の基準を上げてきた。

それを「市」とか「区」の狭い地域だけで「公式戦」とか呼び喜んでいる井の中の蛙のような人達が、何も知らないくせに「荒い」とか言っちゃう滑稽さ。
FAリーグでも、そういう声は何回も聞こえてきた。倒れたらすぐ「おいー!」ってベンチが叫ぶチームもいたね。

そういう人達はもう一生、そのちっぽけな世界だけで楽しんでればいいじゃないか。
こっちの世界に口を出さないでくれ。

こういう大人が偉そうに楽しんでいる光景は、本当に虫唾が走る。そして、こんな人がまだたくさんいるのが「公式戦」という場所。

日本サッカーを本当に強くしたいのなら、こういう大人を淘汰していかないと、いつまでたっても日本は井の中の蛙のまま。

だって、井の中の蛙が指導者をしているのだから。

なぜ日本は子どもを練習漬けにしてしまうのか?燃え尽きる高校生が出る理由

スポーツメディアのVICTORYさんからご依頼を受け、書かせていただきました。

victorysportsnews.com

あくまでも現場で感じるものを書いたので、一概に「少年サッカー」を全て括って批判しているわけではないのですが、この記事が届いてほしい人は、身近にも遠くにもたくさんいます。

 

おかげさまで「Yahoo!スポーツ」で1位…
バレーボール界のレジェンド・大山加奈さん、そして総合格闘技界のレジェンド・佐藤ルミナ選手にも、記事を拡散していただいたようです。

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たくさんの人に読んで頂けるということは、そのぶん反発も多いはず。しかし議論が起こることで初めて変化も生まれるのだから、それも含めて、皆さんからの反応が楽しみです。

日本はサッカーさせ過ぎです。
この記事でかなりの波風は立つでしょうが、このまま波が立たないよりは全然いい。大波が向かって来るのなら、波乗りを楽しんでやります。
全て大人の問題なのだから、変えていくのも大人の義務。僕らの義務です。

 

本能を探り起こす言葉があるのかもしれない

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以前、こんな記事を書きました。

この記事内でも書いたように、言葉選び一つの違いで、子ども達への伝わり方はまるで変わってきてしまう。

僕ら指導者、つまり「人に何かを伝える」立場にある者は、言葉選びが最も重要な要素ではないか。もちろんそれで失敗することのほうが、圧倒的に多いのだけれど。

 

最近の話をすれば

「奪いに行け」
と言ってもなかなか行けず、相手との間合いを詰められず
もしくは
相手の状態も見ずにただただ突っ込んであっさりかわされてしまうケースが多いのだけど

でも
「邪魔しに行け」
って言うとなぜか途端に出足が早くなり、相手が嫌がる間合いまで激しく詰めて、なおかつ、簡単に抜かれない最強の「邪魔な位置」に行けて、結果、ほぼ奪える。

「奪う」ってことはボールを奪うことしか目的がないけど
「邪魔する」ってことは、目的が奪うだけにとどまらず、多岐に渡ってくる。
自分でサジ加減を図れるからこそしなやかに動けるし、自分だけの間合いを見つけられるのかなって。

これはひょっとしたら、眠っていた野生動物の本能の部分なのではないか。
そんな動物的本能を探り起こす言葉がきっとあるのかもしれない。最近そう実感しているのです。

あと最近よく使うのは「遊び半分」てワード。
遊び半分。スポ根な人からしてみたらこの言葉はネガティブな響きに感じる人も多いかもしれない。「遊び半分でやってんじゃねぇよ!」的な。

けれど、サッカーって元々は遊びなはず。もちろん必死にやらなきゃいけないところもあるからこそ、この「遊び半分」て言葉は、サッカーやるには実に適した、いい言葉だなって思ってます。

遊び半分でやれ。ダラけ半分やふざけ半分では困るけど、遊び半分なら最強だぜって。

あ…ちょっと待てよ、半分じゃなく3分の1くらいにしとくか。
【遊び、冷静、必死】常にこの3つを自分の中で持ち合わせながらやろうよって言うと、途端にプレーが変わります。

必死さ全開!前へ前へ!という感じでゆとりのカケラもなかったような子が途端に止まったり、歩きながらプレーをし出したり…
あと不思議なことに、味方と相手の動きをすごく見極めるようになって、プレーに幅が出てくる。え、そこ観えてたの!?というパスも増えてきたり。

そう、遊び、必死、冷静 というワードを手に入れると、感性の豊かな子は味方の「遊び」を感じ取り、その遊びに協力して相手の裏を取ったり、わざと寄っていってトリックに参加したり、ノールックパスの受け手になり始めたり。
遊びは一人じゃつまらない、みんなで遊ぼうぜ、っていうチームワークが生まれてくる。

これら、スエルテの子達で実証済みです。

 

言葉の威力、魔力、そして怖さも。
僕らは、子ども達に教わっているのだ。

 

最後に再び、デビッド・ボウイの言葉を。

表現主義とは、人生というものを具体的な形ではなく雰囲気で映し出すアートフォームなんだ。これこそ自分の進む道だと思ったね」

 

再び、今に見とけよの積み重ね

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『 今に見とけよ、の積み重ね 』

2014年6月、ブラジルW杯コロンビア戦に敗れ予選敗退が決まった後に書いたブログです。
来年のロシアW杯の初戦でまたコロンビアと当たるという、神様のイタズラな巡り合わせに、思わず再掲。

あの時に思った「今に見とけよ」は、いちファンとしてではなく、日本に生きるサッカー人としてのもの。上記のブログ内にもあるように、過去に味わい続けた「今に見とけよ」の想いが積み重なってあのブラジルまで辿り着き、そこでまた新たな現実を突きつけられたのは決してザックジャパンだけでなく、僕ら日本中のサッカー人すべて。
この国のサッカーの歴史、文化、土壌、現状、現実…それらすべての代表として、彼らが戦っていたわけだから。

あの時は、初戦のコートジボワール戦がせっかく日本時間で日曜の午前中に行われるというのに、その時間に子ども達の試合や練習を組んでしまう大人達がたくさんいて。
いろんな方に協力をしてもらいながら「子ども達にリアルタイムで観せよう」キャンペーンを大々的に張ったら、全国津々浦々、各方面から罵倒、炎上、嘲笑、冷笑の嵐。

当時、大反響をもらったブログ ↓↓

suertedream.pokebras.jp


いいね!が4855人…汗

この時は、関西の某連盟会長からは「オマエ」呼ばわりで罵倒もされたっけ。
あぁ、所詮この程度のサッカー文化の国が勝てるわけないよねぇ、という諦めの気持ちも、どこかにあったりした。

あれから3年半。僕らがどれだけ進みどれだけ差を詰めたのか。もしかしたらさらに差を広げられてしまっているかもしれないけれど。
ハリルさん率いる日本代表は
「今に見とけよ」の想いを持ち続けてそれぞれの現場で生き続けた、僕らの代表でもあるのだ。

だから、応援するのは当たり前なんです。何度でも繰り返すけれど
だって僕らの代表なんだから。

 

君たちはどう生きるか

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吉野源三郎 著『君たちはどう生きるか 』を読みました。

 

君たちはどう生きるか - Wikipedia

 

80年前に書かれた、歴史的名著。ただ恥ずかしながら自分がこの作品を知ったのは、ジブリ宮崎駿監督が引退を撤回し、この作品をモチーフにした次回作をつくる、と宣言してから。
タイトルも、そのまま『君たちはどう生きるか』にするらしい。

 

この胸を直接ズシリと突いてくる刺激的なタイトルにも触発されて、さっそく購入。読み始めたのは、大阪へと向かう飛行機の中だった。

 

この作品の主人公・コペル君と、父親がわりの「叔父さん」の物語。

コペル君が友人たちと過ごす日常の中で起こる出来事、そして、叔父さんがコペル君に宛ててノートに書き記した「ものの見方、考え方、社会の仕組み、その中での、自分とは何か」を軸に物語は進む。

天動説から地動説へ。自分は社会の分子に過ぎないことを知る。これは、大人になっていくための大事な思考変化なんですね。

僕はこれからジュニアユースを始める。それを、自分で勝手に師と仰ぐ方に伝えに行くために大阪へ向かった。その飛行機の中で偶然読み始めた本の主人公・コペル君は、中1の設定。
僕がこれから出会うのも、中1の子達。この巡り合わせにまずグッときて

コペル君にたくさんのことを教える叔父さんは、決して正解を教えるのではなく、あくまでも見方、考え方を教えてくれる。僕にとってのあの方のように、だ。

僕はこれから、中学生となり夢を持って会いに来てくれるまだ見ぬコペル君たちにとっての、新たな「叔父さん」にならなくてはいけない。

そう考えたら、この旅の始まりにこの本を読み始めたことの巡り合わせと運命にただただ胸がときめいて、飛行機の中で景色すら見る間もなく、一気に引き込まれて読み入ってしまった。

 「君たちはどう生きるか

自分がどう在りたいか。そこを突かれる作品です。
叔父さんから「明日わかるかもしれないし、一生わからないかもしれないけれど」と出された問題。コペル君は自分でその答えを見つけました。

そして最後、作者の吉野源三郎さんが僕らに問いかけます。「君たちは、どう生きるか」と。

自分はどう在りたいか。= どう生きるか。
僕は選手たちにとっての「叔父さん」になろうと決めたのだ。

 

最後に
物語の後半、心が壊れかけて病に伏すコペル君に対し、お母さんが自分の少女時代の話をするシーンがあるのけれど
コペル君がなぜ心を壊れかけさせているのか、直接聞かなくてもそれを察し、自身の体験を優しく話してくれるお母さんの愛情。ここは何回読んでも涙してしまう。

本当に、たくさんの人に読んでほしい一冊です。漫画版もいいけれど、できれば活字版で。

 

聖和の流儀

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カンゼン社から出版された『 聖和の流儀 』を献本して頂きました。Y編集長、ありがとうございます。

興味深く読ませて頂きました。せっかくなので感想書きます。 

 

聖和を語る上でどうしても外せないのが、2016年1月に行われた全国高校サッカー選手権の1回戦、野洲高校との対戦でしょう。

あの試合、三ツ沢球技場はスタンドから人が溢れ出すほどの超満員。もちろん自分もその場にいたけれど、スタンド全体が、本当に異様な熱気に包まれていたんですよね。

試合前は、一体これからどんな試合が観られるのだろう、という高揚感が溢れていて

試合中は、聖和と野洲、両チーム選手達の一挙手一投足を見逃せない、という釘付け感がすごかった。

実際、本書の中で加見監督も書いている通り、高校サッカーの試合ではブラスバンドやチアガールを交えた応援団の声が大きく行き交う中での試合が普通だけれど、この試合だけは、試合中、スタンドがシーンと静まり返っていることが多かった。

それだけ、観客は両チームの個人技と、そこに見える生き様、こだわりに引き込まれ、釘付けにされていたわけです。

この試合を観た後の高揚感を抑えきれなくて、当時、一心不乱にブログも書きました。参考までに、宜しければ読んでみて下さい。

この試合についての記述も、本書の中では詳しく書かれてます。僕は自分の勝手な見方でこの試合についてのブログを書いたけれど、当事者にしかわからないことが当然あるわけで、聖和と野洲の魅力的な攻防を観て感銘を受けた人は、この試合について書かれた章だけでも、この本を読む価値はあるんじゃないかな。

 

さて、聖和といえばどうしても、その独特なスタイルが故に、拒否反応を示す人も多いですよね。

あんなのサッカーじゃない、サーカスだ、とか

ドリブルだけでは勝てない、とか

周りが全然動いていない、とかとか…

サッカーってグローバルなスポーツですよ。スポーツという存在を超えて、世界中の人が共有し熱狂し、愛する文化。つまり様々な人種、価値観、考えに基づいて世界中の人が接しているもの。

つまり自分との違いを認め、様々な価値観を受け入れなければ、それはサッカーの持つ特性や素晴らしさを否定していることと変わらないでしょう。

このように多様性を持ち合わせない人たちが日本のサッカー界に多く存在することを僕は常々とても残念に思ってる。

つい最近でも、あの野洲高との試合動画がツイートされて、それを「周りが全然動いてないww」と揶揄したリプライを載せている「サッカー関係者」がいた。他にも同様なものがいくつか。

つくづく、残念だなぁと思う。

それに対しての僕のツイート

↓↓

 

上記のブログ内にも書いたけれど、聖和や野洲くらいになれば、もうあれは「拘り」という言葉だけでは済ませられない、もはや生き方のレベル。人の生き方や価値観を揶揄したり否定するようなことは、誰にも出来ない。このことを履き違え、正しさを押し付ける人たちが、いかに多いことか。

… と、全く関係ない部外者の僕が勝手につい荒ぶってしまうのだけれど、この点についても、本書の中で加見監督が冷静に言及されてます。

「あらゆる方向性を持つ指導者が存在するのだから、ショートパスをつなぐサッカーやロングボールを蹴るサッカーを否定しているわけではない。

その指導者の数だけ目指すサッカーがあって良い。
サッカーは様々な形があって良い。

様々なサッカーがある中で、私たちの特長はドリブルであり、個の技術に注目しながらサッカーを磨き上げようとしているわけで、私たちのようなチームがあっても良いのではないか。

静岡学園野洲高、久御山高、聖和学園など、様々な高校が個を大事にしようとしているが、それぞれが違った考えを持っている。そのほうがサッカーにそれぞれのオリジナリティーが表現されるし、だからこそ違いがあって良い」

(本書内より抜粋)

 

こういうアプローチ、独自性があってもいいんじゃない? という人と、
こうでなければいけない!という人の違い… でしょうか。

このゆとりの差は、必ずや大きなバタフライ効果となって、選手たちにも伝わっていくんじゃないか。

それにもリンクするけれど、本書の中に何回も出てくる「ゆるさ」

加見監督が自身のことを「ゆるい性格」と言っているように、逆にそのゆるさを活かして、選手たちには自由な雰囲気のもとにサッカーを楽しみながら打ち込んでもらって、そこから自然に出てくる自由で面白い発想を大切にしたいとのこと。勝手に上手くなる環境をつくりたい、と。

 

押し付ける指導や上意下達で全て決められるようなことはなく、あくまでも選手の自主性、主体性に重きを置いているからこそ、あのスタイルが持続そして発展できているのだろう。

絶対にドリブルしかするな!こういう持ち方をしろ!っていう押し付けは、ある意味地獄だもんね 笑

 

そしてこれは決して放任主義ではなく、むしろ厳しい環境なのだと。選手たちが自分で考えなければいけないのだから。

 

「グランドでは大いに遊んでもらって結構。
気持ちが前向きになって楽しいと、子どもたちは良い顔をする。目が輝いている時のほうが色々なチャレンジをするし、だからこそ、色々な発想が出てくる。

恐怖や権力で押さえつけて顔色を伺うようなサッカーをやり始めてしまったら、選手たちはミスをしないことしか考えなくなる。
選手が指導者に怒られないことをまず選択している状況では、面白い発想などは絶対に出てこない。

そうした考えに行き着いたのは、聖和学園女子サッカー部総監督の国井先生のおかげ。
国井先生が実践する子どもたちの創造性を引き出す指導に、大きな影響を受けた。」

(本書内より抜粋)

 

ドリブルに特化したスタイルに行き着いた経緯や、大きな影響を受けたという聖和学園女子サッカー部の国井先生、エスポルチ藤沢の広山さんの話も出てきます。

読む人それぞれに聖和スタイルへの賛否はあるでしょうが、それはひとまず置いておいて、サッカーに携わる指導者の方々にとっては、読んでみる価値のある一冊だと思うな。

 

守備の原理原則を打ち破れるドリブラーは強い。
相手の戦術を上回れる存在。

サッカーとは本来、そういう選手こそが怖い存在になるのでは?

(加見成司)