Neutral football

現実の殻を破る。フットボールと社会をつなぐ

選手を試合に全員出さなければいけない、3つの理由

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最近、自分の身近な場所でこんなことがあった。

2日間の大会に連れて行かれ、2日間で計5試合ある中で、1試合も、1分も試合に出られなかった小4の女子選手。


そのチーム自体はブロック2位という好成績だったらしいのだけれど、その裏では、ほぼ主力選手だけで5試合を戦い、2日間、宿泊もしてずっと一緒にいながら、試合に参加すらさせてもらえなかった彼女のような選手がいたこと。しかも、出場機会がなかったのは彼女だけでなく、3人もいたとか。


なぜ自分がそこまで詳細にこのことを知ってるかというと、これはうちの選手の話だから。
うちの活動と並行して、その女子チームでも活動している彼女が実際に味わったこと。
それを聞いて自分はどうしても納得できなかったので、そのチームの監督さんにメッセージを送り、そこで、ことの経緯を詳しく聞くことができた。


ただその監督さんも2日間帯同したわけではなく他のコーチに任せていたということで全てを把握していたわけではなかったらしく、申し訳ないことをした、選手に謝罪したい、と仰っていた。


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夏休み前に行われたあるリーグ戦でも、相手チームの控え選手がやたら多いので、ハーフタイムに「相手はきっと後半はメンバーを総とっかえしてくるから。だからよく観察するんだぞ」なんて言って送り出したんだけど、結局そのチームはほとんど選手交代せず、ベンチの子は最後までベンチに座ったままで、こちら拍子抜け…ということもあった。
ちなみにそのチーム、その日はその1試合だけ。


あの日あの子達は、何をしにあの試合会場に来させられたのだろうか。


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「試合に、選手を全員出せるかどうか」


育成年代に携わる指導者の力量を示す上で、これは重要なファクターのうちの一つだと思う。
何も上記のようなことが身近で起こったから書こうと思ったわけではなくて、これは前からずっと思っていたこと。


自分が考える、選手を試合に全員出さなければいけない理由は3つ。


① 選手は試合で上手くなる。試合に出ないと経験を積めない
② 出られないと、選手同士でその試合を共有できない
③ 勝つためには全員が必要、という育成を指導者は目指すべき

 


① 選手は試合で上手くなる。試合に出ないと経験を積めない


これについては、当たり前すぎて皆さん共有している考えだと思うので(だよね?)
ここで説明するまでもないでしょう。

ただ、これが当たり前じゃない感覚の人が多くいるのが現状なのも事実。

大人の見識の問題ですね。

 


② 出られないと、選手同士でその試合を共有できない


これは、大人が考える以上に大きな比重を持つと思う。


例えばある試合があったとして、その日のうちにもう1試合あるとする。
次の試合のために終わった試合を振り返りながら選手同士で話す、あるいはコーチ主導で試合を振り返るなんてことはよくあると思うのだけれど、1分も出てない選手からしてみたら、そこに自分は「同じ試合を体験した同士」としては参加できないことになる。


今週の試合を踏まえ、次週の試合に向けて練習するとしても、他の皆は出たけれど自分は出ていない、という中では、その子にとってリアリティーのない練習になってしまう。


もちろん外から試合を観た上で話し合いに参加したり、試合に出られなかった悔しさをバネにして練習すればいいという考えもあるだろうけれど、それは大人の勝手な考えで、自分はそんな疎外感を子どもに味あわせたくないし、味あわせるべきではないと思う。

 


③ 勝つためには全員が必要、という育成を指導者は目指すべき


自分が一番重要視するのがこれ。


もちろん、その時点での実力差はあるでしょう。しかしその子のことを一番理解しているはずのコーチならば、それでも、その子の持つ良さを最大限活かしてあげられる術を考えてあげて、試合には絶対に出すべきなんです。小学生ならば「再出場OK」の試合がほとんどなはず(中学生でも)だから、なおさらそれは出来るはずだ。


それは貴重な経験を積ませることにもなるし、自分もチームの一員なんだ、と思わせてあげるためでもあるし、そしてそれ以上に「勝つために、君が必要なんだ」というメッセージを伝え「自分は信頼されているんだ」と、選手に自信を持ってもらうためでもある。


育成年代では勝つことと育てることのバランスをどうしていけばいいかジレンマがある、とかよく言われるけれども、自分は正直、どっちも目指せばいいじゃない、と思う。


勝とうと思って全力でプレーしないと上手くならないし、その上で負けたのならば仕方ない。もちろん指導者が「勝つこと」だけに目を奪われると冒頭にあげた悪しき例になってしまうのだけど、相手も真剣、うちらも真剣、その中でプレーしてこそ得られるものがある。

だからこそなおさら、大きな大会とか、勝負がかかった試合には全員出すべきなんだよね。
そこでの負けも、もちろんきちんと受け入れる。


そして
「勝つためには全員必要」「勝ちたいから、全員出す」
究極を言えば、育成年代の指導者はこれを目指すべきだと思ってる。


この大会は絶対に負けられないから、とか
関東大会だから、全日本少年サッカー大会だから、そこにつながる大事な予選だから主力選手だけを出す、というのは指導者の怠慢だし、
「僕は未熟です、余裕がありません、懐が狭いです」
「指導者として力不足です」と、自ら宣言しているようなもの。


毎年冬、全日本少年サッカー大会が行われた後に必ず問題になってるじゃないですか。
「出場機会がなかった選手、極端に短かった選手」が多数いる問題。


全国に駒を進めるほどのチームが、この「程度」で育成とか言ってるわけです。
これじゃあ、日本は指導者のレベルが低いと言われても文句は言えない。


だって、勝つために出せる選手が限られているわけでしょ?つまりはそれ以外の選手達を伸ばすことができていませんということなんだから。
まずは「誰を出しても遜色ない」ように普段のトレーニングで育成してあるのが本来のはず。それが出来ていないのならば、自身の腕がないわけで。


選手間に歴然とした差があるとしたら、それは間違いなく指導者の力不足。


そうは言っても、もちろんそれぞれに多少の実力差は残るでしょう。うちだってそう。
でも、そこをまたうまくコーディネートして試合に臨ませてあげるのも、指導者の大事な役目なんだろうと思う。


選手それぞれに良さがある。個性も特性もある。そこをうまく組み合わせて、相互作用や化学反応を起こさせて、誰を出しても「勝つために有効な事象」が起こるように仕向けてあげるのが指導者の腕でしょう。


「勝ちたいから、全員は出せない」 ではなく


「勝ちたいから、全員を出す」
「全員を出したからこそ、勝てた」


これを目指せば、指導者も鍛えられる。選手も指導者も、両者がHappy-Happyじゃないですか。


理想論と言われるかもしれないけれど、この理想を、自分は実際にやっている。
小学生も中学生も、公式戦でもどんなに大きな大会でも、うちは全員「戦力として」出している。


その時点でどんなに技術が劣る子でも、その子の持つ良さを目の前の試合にどうアジャストさせればいいか、どの味方とどう組み合わせてあげればいいか、この試合状況で、その子に「これをまずはやってくれ」という「君にしかできないこと」を伝えて、必ず試合に送り出してる。
もちろんそれでうまくいくこともあればエラーもたくさんあるけれど、育成って、本来そういうことなんじゃないでしょうか。


本当なら全国に出てそのレベルでそれを実際にやって見せて、こうして意見を言ってこそ説得力もあるのだろうけど、まあそこは許して下さい(汗)


手前ミソな例で申し訳ないのだけれど、今年の3月、あるビッグなU-11リーグ戦への「参入戦」という試合があった。
その日は1Dayのトーナメントで、優勝したチームだけが新シーズンから上位のカテゴリーで参入できるというもので、負けたら即おしまいというレギュレーション。


その初戦、まずスタメンを選手達が決めた。それは自分の想定したものとは違うものだったけれど、選手達が相談して決めたものだから、そこは尊重して試合に送り出す。
押し込まれながらもそのメンバーで前半を0-0で終え、ハーフタイムで、前半出場していない選手達を、1名を除きあとは全員出場させた。もちろんそれでもゲームは崩れないという確信はあったし、むしろそれぞれの良さが噛み合って結構うまくいくんじゃないか、という思いもあった。


しかし後半もまだスコアを動かせない。そこで、真ん中の位置でプレッシャーに苦労していたドリブラーの子を左サイドに出して、右サイドの子を真ん中に移動させ、空いた右サイドに、唯一まだ出場させていなかった子を入れる。


真ん中に移動した子が相手からボールを奪い左サイドへ展開、例のドリブラーが左サイドを崩してエグってシュート気味のクロス、こぼれたところに、一番最後にピッチに出たあの子が押し込んでゴール。


結局その1点が決勝点となり、クラブの歴史上それまで一度も勝ったことがなかった横浜の強豪クラブに勝つことができた。


このように「勝負がかかった試合でこそ、勝つために全員出す」ことを指導者がいつも目指せば、選手はそれこそ「真剣勝負の中で、練習ができる」のではないか。


ただこの交代劇にも、実は自分の失敗が含まれている。後半冒頭から左サイドで出した子を後半途中で下げたことによって、例のポジション移動を起こしたこと。つまりその子はこの試合で唯一、途中から出て、途中で下げた子、になってしまったわけで。


あとで後悔し反省し、その子には謝った。あの時、あの子を交代させないままで試合を動かす方法はなかったか。それは今でも考えたりすることがある。


もちろん他の学年の他の試合でも、あの子の出場時間が今日は短くなっちゃったな、ということもしょっちゅうある。もちろん、それでも「出さない」ってことはないけどね。


だから自分だって何も偉そうなことは言えないし、決して有能なわけでもなんでもない。
まだまだ力不足だからこそ、選手達の力を信じ、力を借りて、一緒に上手くなっていこうよ、一緒に時間を共有していこうよ、という想いだけは、なくしちゃいけないものなんだとも思ってる。


「あいつは出さない、出せない」なんて、上から目線もいいとこ。指導者はそんなに偉くないし、絶対的な存在になってはいけない。


だからこそ自分はボトムアップを大事にしていきたいし、でも子ども達に全任せではなく、一緒に考えて一緒にやる、その時間や場所を一緒に共有する、そこを大切にしていきたいと思っている。


多くの人も、そうなれば自然に
「勝ちたい!だから全員出てもらおう」って、きっとなると思うんだけどな。


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今回書いたのは、あくまでも「ひと学年10名ずつくらい」という、街クラブとしては平均的か少し小さいか…という、うちのクラブの例。


ひと学年に何十名もいてA〜Cチームまであるような街クラブもあるけれど、そういうところは、その時点でそれぞれのレベルに合った試合を機会の遜色なく組んであげて、その中で「全員出場」させればいいわけです。
何も「その学年の在籍選手を全部その試合に呼んで全員を出せ!」って言ってるわけじゃぁございません。


その日、そこに呼んだ選手は、必ず全員を出そうよということ。
しかも日常から「勝つために、全員を出す」というスタンスになれば、指導者も鍛えられますよね、というお話でした。


もちろん
「週末の試合に勝つこと」も大事だけれど、でもそれ以上に
「その選手の数年先の姿」のイメージを常に持ち、決して
「週末の試合に勝つ」ことだけを優先させることのないようにしながら育成していくのが、指導者の最大かつ最優先の使命だということは、最後に書き加えておきます。

 

www.footballnavi.jp

 

サッカーをサッカーでしか語れない指導者

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画像は newsweek.japan.jp から

 

今回は「サッカーと社会は切り離せない。歴史も、政治も」という観点から。


同じ神奈川で活動する指導者で、屋良さんという方がいる。屋良さんはブラジルやコロンビア、エクアドルでプロ経験もあり、今は小学生のスクールとジュニアユースのクラブチームを運営していているのだけれど、数年前にはJFAからシリアに派遣されて、現地のアカデミー、そしてシリアA代表のコーチまで務めた。自分では到底及ばない、数々の経験と修羅場をくぐってきた方でもある。自分が尊敬する、数少ない指導者の方の一人だ。

その屋良さんのクラブとよく練習試合をさせてもらうのだけれど、毎回毎回、お互いのゲームを観ながら、ピッチ横で屋良さんと色んなことを話す。話すというか、ほぼ屋良さんの話をこちらが聞かせてもらってるという感じなのだが。


その時に話すこと、それは当然サッカーの話から始まるのだが、話をしているうちに、話の内容がどんどんどんどんサッカーから離れていくんですよ。
日本の教育のこと、社会のこと、政治のこと、歴史のこと、そして世界のこと…


目の前のピッチでお互いの選手達がサッカーをしているその横で、それを肴にして話し始めたはずが、話が進むにつれて、社会情勢や世界情勢、政治や歴史、教育の話になっていく。


「話がサッカーから離れていく」と書いたけれど、これは間違った言い方でもあって
これら全部、サッカーとは切り離せないんですよ。絶対に。だからこそ、自然にそんな話になっていくわけです。


目の前でプレーしている選手達のパーソナリティーや性質は、現在の教育の問題点からは切り離せないし、今現在、僕らや選手達を含めこうして生活していて何不自由なくサッカーをしているのは、これまでの歴史がつくってきたもので、現在の社会の中で、政治の下で、僕らは生きている。


選手達はこれから大人になり、社会人となり、自分の力で生きていかなければならなくなる。僕ら指導者も歳を取り、やがて老後を迎える。


ほら、僕らの現実、生活、未来は、政治と社会からは避けて通れないでしょう。
そして歴史にも、目を背けるわけにはいかない。昔の日本人がしてきたことを、僕らは背負って生きていかなければならないのだから。


そしてサッカーは、世界と密接に繋がっている。
世界中で一番愛されているスポーツであり、一番多くの人々を熱狂させるスポーツであり、文化でもある。
だから、こと日本だけを見てサッカーは語れないし、サッカーをしているつもりになってはいけないんだと思う。


なぜあの国であんなにサッカーが愛されているのか。あの国の人はこういう歴史があって、気質があって、こんな文化があって、その中にサッカーがあって…と、国や民族の数だけ、サッカーというフィルターを通して語れる。


例えば、屋良さんが行っていたシリアは、屋良さんがいた頃まではとても平和で、のどかな国だったという。それが今では、内戦の果てに国はボロボロになり、未だにアサド政権は国民を蹂躙し続けている。


W杯のアジア予選やアジアカップで、日本もシリアとは何度も戦ったでしょう。内戦中でも、シリア代表は日本に試合をしに来ていた。


「僕らのサムライブルー!」が満員の埼スタで試合をし、みんな陽気に応援しているその一方、このシリアという国は、今なぜ内戦となってしまったのか、その最中に、どうして日本に試合をしに来られるのか、この選手達は、どういう経緯の中で選ばれた選手達なのか…


そんなことを想像したり、同じサッカーファミリーとして想いを馳せたり、実際に調べたりした「サッカー指導者」は、果たして何人いただろう。


話が長くなってしまった。何が言いたいかというと、日本で「サッカー指導者」をしている人達は、あまりにもサッカー以外のことに対する認識、興味、そして知識と見識がなさすぎる。

これは自分が実際に数々の指導者と接してきて嫌というほど感じたのと、そしてSNS等を見た限りの肌感覚でしかないのだが、正直、肌感覚が一番当たる。


たぶん、日本の7割の指導者は、社会のことも政治のことも歴史のことも世界のことにも、一切興味も知識もない人なんじゃないか。

(残りの3割の皆さんごめんなさい)


そして興味や知識がないことよりも、一番やばいのは「見識」がないこと。


香港でのデモについて、どう思いますか
7月の参議院選挙について、どう思いますか。そもそも投票行きましたか
憲法改正、するべきだと思いますか
原発再稼働、賛成ですか
安倍政権、支持しますか
消費税増税について、どう思いますか
子ども達がこれから大人になる日本、今のままで大丈夫だと思いますか
日本が過去にアジア諸国に対ししてきたこと、説明できますか

最近の日韓問題、どう思いますか


例を挙げればキリがないけど、例えば上記の問題について、皆さん、どんな見識を持ってますか?
これ全部、僕らや子ども達の未来と繋がってる話ですよ。

 

www.asahi.com


サッカーのことにしか興味がない、サッカーしか知らない、社会のことなんてどうでもいい、政治家に任せておけばいい、そんなことよりもグァルディオラの戦術を知る方が大事だし!みたいな
サッカーのことしか話せない…そんな指導者に、子どもを預けたいだろうか。


「僕はサッカーのことしかわからなくて…」
「難しいことはちょっと…」


なんて言う指導者に、僕なら絶対に子どもを預けたくない。僕なら、ですが。


そもそも、
JFAの指導者ライセンス取得講習会で、各自の歴史観、政治観、内外問わず社会問題についての見識を書かせたらどうでしょう。一番下のD級から。参加者同士、ディスカッションもしたっていいと思う。


たった2日、視野の確保がどうのファーストタッチがどうのなんて表面的なことを聞かされて簡単に取れちゃう資格なんて、ほぼ意味がないです。


サッカー以外のことにしっかりと自身の見識を持つ大人が、自制を効かせながら子どもに接し、サッカーを多角的に見ながら指導する…ということを、もっとみんな真剣に考えたほうがいいと思うんですよね。


自由なスポーツで、主体性がなければ始まらなくて、多様性を感受できないとやっていけない。

そんなサッカーというスポーツを通じて子どもに接していくサッカー指導者こそ、もっともっと、社会にコミットしていくべきだと思います。

 

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このコラム、ずっとほったらかしてました。すいません。


文章を書くこと自体、アウトプットだけでなくインプットにもなり、自身を整理しアップデートしていくには欠かせないライフワークだったはずなのに、すっかりサボってました。
ということで、また今日を皮切りに再開します。


自身のクラブのことはブログで、少しソフトなことはnoteで、そしてそれらとは違うラディカルなことは、この「Neutral football」のコラムで、また更新していきたいと思います。

 

 

note、はじめました

明けましておめでとうございます。

 

実は先月から、noteも始めてます。よかったら覗いてみて下さい。

note.mu

 

まだ今はこの「Neutral football」で過去に書いた記事を載せてるような感じだけど、せっかく年も明けたことだし、1月からは書く趣旨によってこのコラムとうまく使い分けながら、noteも活用して自身のアウトプットを続けていこうと思ってます。

 

宜しくお願いします。

 

 

 

 

スポーツは教育の取引材料じゃない

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前からずっと思っていたことだけれど、サッカーを(スポーツを)教育の取引材料にする人が多すぎる。

勉強の成績が下がったからサッカーやらせない
何か悪さをしたらサッカー行かせない、部活停止
家での生活態度が悪いからサッカーを取り上げる


家で起きたことは家で解決すればいいし、勉強の成績が下がったのなら先生や親の責任。
ご自分の教育の失敗、拙さ、その補完ツールとして、サッカーを使われる。
サッカーを、子どもとの取引材料に使う大人。学校の先生も、親も。


サッカーに行く時間を削ったって、勉強やらない。
部活に行けなくなったって、そしたらなおさら遊ぶよ。


サッカーを取り上げられたくないなら勉強しっかりやれ、品行方正に生活しろ
これは動機付けとして間違ってる。


これを続けていくと
お父さんに怒られたくないから仕方なく勉強する、先生に睨まれたくないから真面目を演じる、サッカーを取り上げられたくないから勉強する、お父さんの言うことを聞く、その他…


これは悪名高きキラーワード【外発的動機】そのもの。
何か目に見える対価がないと頑張れず、評価されたい、叱られたくない、罰を受けたくない、好きなサッカーを取り上げられたくないから勉強をやる、言うことを聞く…


ご自分の子どもを、ご自分の生徒を、そうさせたいのだろうか。


勉強は勉強、サッカーはサッカー。二兎を追う者は一兎をも得ずと言うけれど、それは二兎を追う勇気のなく、その時間のコーディネートや自分のデザインをできなかった者の言い訳だし、子どもを操作し管理したい、自分もそうだったんだからと思い込んでいる大人の常套句だ。


二兎を追うものだけにしか、二兎を得るチャンスはない。


もし勉強の成績が下がったり、生活態度(これ自体も変な言葉だけど)が悪くなったのだとしたら、そこでサッカーを取り上げるのではなく(だって関係ないもん)
「お前、今日のサッカーを誰よりもしっかりやって来い。話はそれからだ」
と言うべきじゃないか。


ましてやサッカーはチームスポーツなので、そこにはチームメイトがいるからね。
決して親にはわからない、選手同士、選手⇆コーチだけの世界がある。
そこに立ち入る資格は、親には一切ない。


もちろん学校の先生も
部活を自分の教育の拙さを補完する道具に使うのは、もう本当にやめてほしい。


この辺のスポーツの捉え方を整理しないと、日本にスポーツが文化として根付くのは難しいと思います。

 

 

ドリ練をする理由、ドリ練の意味

うちのクラブでは、いわゆる「ドリ練」多くやります。相手つけずに。


「スペインではそんなドリブル練習もリフティング練習もしませんよ」という、通称・スペイン帰りの指導者の方の声を、よーく聞きます。


「ハイそうですね、でも僕は日本人で、そのスペインにいつか勝ちたいと思ってるのでスペイン人がやらないならラッキー、なおさらドリ練やろうと思います」といつでも答える用意はできてるんだけど、実際に自分はまだ面と向かって言われたことがないからいつか言われたい…w

 

まぁそれは置いといて…

無駄に論争をしても仕方ないので、ここで、僕が考えるドリ練の意味を書いてみたいと思います。


メッシのようなドリブルをさせたい!とか

ネイマールのような華麗な技をさせたい!とか

どうせそんなことを考えてドリ練させてるんだろという浅はかな誤解は、解いておきたい。

 

ドリ練をする意味、を書く上で前提になるのが、

『サッカーにおけるプレーは、一つ一つの切り張りではなく、全てセットで考えよう』というフェーズ。ここから、順を追って書いていきますね。


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【 セット ① ~ 攻撃と守備の同時進行 】


サッカーは、相手よりもスコアで上回れば勝てるスポーツ。ならば、目的はふたつ。

・相手よりも多くゴールを奪うこと

・失点を一点でも少なくすること

この両方を セットで考えるべき で、攻撃的、守備的 とサッカースタイルを分けること自体がナンセンス。


守備をしやすい攻撃 と、攻撃に移りやすい守備。

攻撃中に守備のことを考え、守備してる間に、攻撃に移る準備をしておく。

 

《 攻撃中に、守備の準備しちゃお 》


・奪われ方はこっちが決める。どういう形になると奪われやすいか、相手よりも味方のほうが知っている。だから、奪われる想定の陣形を先にとっておく。

・奪われることを想定していればすぐに奪い返せる。さらにチャンスが深まる。

・すぐに奪い返せる距離までサポートが来るまでは、仕掛けない。攻めない。


「もう奪われてもOK!むしろ奪われてほしい 笑」(奪い返して逆襲する気満々)

「今はまだ奪われないで!準備できてないしー」

これにより、ファーストタッチの質、ボールの持ち方、ボールの動かし方、が変わってくる

 

《 守備中に、攻撃の準備しちゃお 》


・相手ボールを奪いに行く際は、ふたりで行く。そこで奪えば、そのふたりのコンビで攻撃を始められる。だからそのコンビは、相性の良いふたりを組ませる。


・奪ってもすぐ奪われるのが一番嫌な形。なのでこちらで一番巧い選手(もしくはコンビ)が、相手からボールを奪えるような形をつくる。そうすれば、すぐには奪い返されない。

その一番巧い選手(コンビ)のところで奪えるように、相手ボールを誘導する。


もちろん、そんなにうまくいくことも多くないので、奪ってすぐに奪われない、巧い選手を多く育てることが、一番の守備強化なのだけれど。

守備を強化するために、巧い選手を育てるんです。


・守備のため(すぐ奪い返されないため)に、奪った後のボールの持ち出し方を練習する。これは、ドリ練の大きな目的の一つ。3タッチ以内にトップスピードに乗る。


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【 セット ② ~ ドリブルとパスも、全てセット 】


ゲームにおいて起こること … 受ける、拾う、奪う、離す

「持つ」という項目はない。「持つ」は、あくまでも「離す」までの手段。


「奪われる」のも「離す」の一つ。受けたり、拾ったり、奪ったりした後の持ち方がヘタだから奪われる。そして「無駄に持つ」から狙われやすくなり、奪われる。

 

「持つ」(ドリブル、フェイント)は何のためか … 次のパス(離す)のため。


① 一人目を抜いた後は、二人目が必ずカバーに来る。その二人目が本来いた場所にボールを入れてチャンスを広げる、ためのドリブル


② フェイントやボールのズラしで、相手の足のすぐ横をパスを通してく。日本がUAEのオマルにやられまくったやつ。


③ センスとはタイミング。今、この瞬間しかない、というタイミングでジャストなパスを通すのが、技術でありセンス。その意味で、メッシは世界最高のパサー。

その「最高のパスを出したい瞬間」に、相手よりも必ず先に触れる場所にボールがある(自分がいる)こと。それを可能にするボディーバランスも含め、これが ドリ練の最大の目的。


上記の①~③とも、ドリとパスが全てセット。

 

ドリとパスがセットということは … 「持つ、離す、受ける」これらも全てセットであり、これらのどれか一つでも、疎かにすることはできない。全て同じ価値を持つ、大切な「技術」である。持つことを武器にしたいのなら「離す、受ける」も同じくらいの密度と量で練習すべき。


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【 セット ③ ~ 先取りジャンケン 】


例. 1 )

タッチライン際で相手を抜いた後、その抜かれた相手は必ず内側を通って奪い返しに来る。

それなのに、そのタイミングでインサイドを使って内側に切り返してその相手に引っ掛けてしまうとか、Jレベルでもよく見られる。


そこを通って来ることは、予想や想定や経験則を遥かに超えた、人間の行動心理学や物理学のレベル。間違いなくわかっているはずなのに、それに対してミスるなよ、と。


例. 2  )

エリア内でシュートモーションをすれば、相手は必ず足を広げて防ぎに来る。

日本人はその相手を見てシュートをやめてしまうが、外国人選手は、躊躇なくシュートを打つ。打とうとすれば相手は必ず足を広げ、その足の間が空く、ということをセットで考えているから。日本人では、大迫もこれが出来る。


例. 3 )

ドリブルの回でも記述したが、相手を一人抜けば、二人目が必ずカバーに来る。

「それ、分かってるし」と心で舌を出し、ノールックでそこにパスを入れていけばいい。

それは受ける側も一緒。味方が一人目を抜いたら、二人目がいる場所を攻略して受けにいけばいい。目と目が合わなくても、声をかけなくても、そこにパスは出て来る。


他にもいろいろ …

「こうすればどういうことが起きる」「間違いなく相手はこうしてくる」という事象の例を、チーム内、選手同士で考えて挙げてみるのも楽しいのでは。

上述したが、人間の行動心理学をもとに考えると、いろいろ出てくるはずです。


「そばに味方がいると、どちらも自分からは何もしない」とか

「人間は反射の生き物」とかとか…

 

そういった局面の捉え方をチームで共有していれば、無駄なアイコンタクトも声も要らなくなるし、相手よりも早くプレーが出来る。


サッカーでは「後出しジャンケン」ができれば最強、とよく言うけれど、本当に最強なのは、相手が何を出すか、最初からわかってること。つまり局面をセットで考えれば、

「先取りジャンケン」が出来る。


後出しジャンケン

・相手の動きを見て、プレーを決める → 起きたことに対して反応している

プレーが遅くなる


先取りジャンケン

・相手の動きが、最初からわかっていてプレーする → 起こることがわかってる

プレーが早くなる

 

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【 セット ④ ~ 局面もセットで考える 】


今、自分がボールを持って相手と対峙している局面だとしましょう。この時

・目は、目の前の相手を見ず

・頭も、目の前の相手に縛られない

この状態でいたい。


自分が相手と対峙している時、同時進行で起きていること(味方が起こしていること)が分かってる、頭で見えてる、心で繋がっている。これこそがチームプレー。


実際、この時に味方が同時進行で起こしておくべきのもの

・受ける動き(一人目、二人目、スイッチ、ミラーパス、スルーパス

・守備の先取り~拾う準備、奪い返す準備


これらを味方が起こしてくれているんだ、という認識を必ず「セット」で持ちながら、相手と対峙することが大切。


受ける動きに対しては … 

「ジャストなタイミングでのパス」はもちろんのこと、

「それをフェイクにしてのドリ」そして「相手が一瞬パスを忘れた時のパス」


守備の先取りに関しては … 

「奪われて良い時かそうでない時か」により、持ち方、持ち出し方、パスの質を決める。


今、自分が置かれている状況 と、これから起き得る状況

これを必ずセットで考えること。

でもでも

ボールを持ちながら考えるのって大変。ボールを持ちながら味方の動きを認知するのはもっと大変。


だ、か、ら、こ、そ!

ボールなんか見ないでも、ボールがある場所が分かり、相手よりも先に触れるようにしておかないといけない。だからドリ練をするし、ボールタッチの練習をする。

 

以上です。

つまり質の高いドリ練を徹底していけば、そのうち「タッチ数の少ないサッカー」を自然とするようになります。ヘイ!とかいうパスを呼ぶ声も皆無になる。


僕が考える『ドリ練をする理由、ドリ練をする意味』でした。

 

 

 

指導・練習という言葉を捨てる。日本を変える

youtu.be

4〜6歳の彼ら彼女らが自分達で集まって、チームを分けて、ボール4個出して始まったゲーム。

自由、カオス、遊び、戦い、自治。自分の意思で、タイミングを見計らって水分補給をしに行く6歳。

手前ミソだけど、幼少期の育成に警鐘と提案を投げかける動画だと思います。

任せれば、必ずできる。

 

指導という名の自己満、指導という名の管理、指導という名の操作。

指導者という響きに勘違いを起こす、いけない大人。

指導という言葉から、そろそろ脱却しなければいけないと本気で思います。

特に、今の日本では。

もちろん自分も、もう「指導者です」なんて名乗らない。

 

この園児クラスでは「練習」という言葉を使いません。練習するよー、じゃなく「サッカーするよ」って言ってる。

「サッカー = 練習」という暗示をかけたくない。植え付けたくない。サッカーはサッカーだ。それ以上でもそれ以下でもない。

何かを概念づけて香ばしいトレーニングをするのは、もっと先で充分だよ。

 

コーチの笛や集合!という声で集まるのがサッカー、と思ってほしくない。

自然に集まりゃいいし、集まった子だけでやればいい。

スポーツは本来、遊びのはず。

一体いつから、スポーツ = 教育、鍛錬、訓練の道具になったんだ。いつから、サッカーは大人の自己満足のための道具になったんだ。僕らは子どもの頃、そんなサッカーを好きになった覚えはない。

 

でも今の日本では、ほぼそんな感じになっちゃってる。

 

園児だけでなく、小学生も中学生も、これから徐々に「練習」という言葉をなくしていきたい。集合の概念も消していく。

指導するつもりなど、もうサラサラない。あの子らと一緒に、サッカーをする。

そうしてサッカーをしていくことで、結果的に、あの子たちが魅力的な大人になっていくための手助けになればいい。

人と人の間で生きていく上で大切なことはほぼ、サッカーで伝えられるし身につけられる。

 

サッカーという魅力的な遊びを共有しながら、遊び心が満載で、正義感を持ち、人に優しく、多様性を受け入れ、違いを違いと思わない、そして常にリベラルであり続ける

そんな魅力的な大人を、一人でも多く社会に送り出したい。

 

横浜のはずれにある小さな街クラブから、日本を変えていく。それくらいの覚悟が、僕にはある。

 

思うと想うの違い

「思う」と「想う」の違い


《思う》
思の字の上部分にある『田』は、人間の脳を表すらしい。
脳、つまり自分で思うこと。自分の思い、自分はこうしたい、こう考える、という意味での
「思う」


対して
《想う》
この上部分にあるのは『相』という字。
言わずもがな… 自分ではなく、まず「相手」のことを想うこと。


自分のことよりも、まず相手の心を想う、相手の幸せを想う
自分よりも矢印が相手に向かっているのが
「想う」


つまり本当の友情や愛情は「思」ではなく「想う」なのだと、昔この漢字を発明した人は、そう語っている。漢字ってうまくできてるよね、ほんと。


自分ひとりで完結するのが「思い」で、
自分よりも相手のことを大事にする思いこそが「想い」ということなのだろう。


誰かにプレゼントをあげたくて、それを選んでる時間ってすごく楽しいじゃないですか。
楽しくて、幸せな時間。
「この服、あの子に似合うかなぁ」とか
「喜んでくれるかなぁ」とか
「渡したらどんな顔してくれるかなぁ」とか


純粋にその相手のことをただ「想っている」時間だから、きっと幸せに感じるんだと思う。


好き、大好き、付き合いたい、キスしたい!やりたい!
これは自分の片思いで欲求で願望だけだから、単なる思い。


付き合えなくても、例え自分のことを好きになってくれなくても、一緒にいれなくても
もしあの人が幸せでいてくれるなら、それだけで嬉しい。
これが本当の「想い」だろうし、究極の愛情。


もちろん恋愛対象だけでなく、家族や親友に対しても、同じように想えるのだろう。


こんな話を、サッカー部の外部コーチとして関わっている学校で、中学生と高校生に真剣に話をしてしまった。あー恥ずかしい。


ピッチ上では「思う」より「想う」こと


味方のことを想う。自分のパスが通ればいいのではなくて、そのパスを受けた味方が次のプレーを成功できるようなジャストなタイミングを見計らって最良の質で渡してあげるのが良いパスであり、それには、味方の状況や頭の中を覗ける、想像できることが必須になる。


つまり『想える』こと。それをボールに乗せて表現できる選手が、きっと良い選手ということなのだと思う。


そしてその状況を創り出せるようにあえてドリブルを使うとか、オフザボールの時にスペースメイクのために走ったりするのも、想うプレーのひとつだろう。もちろん他にもたくさんある。
総じてそれらこそが本当の意味での技術であり、インテリジェンスであり、巧いと言い換えてあげればいいんじゃないかと、最新の自分の中では結論がつき始めてるとこです。


「思い」と「想い」の違いを選手達が感じ取ってくれたらそれだけで頭の中が変わるし、目を向ける先も時間も変わってくるし、心の持ちようも変わる。
つまり、プレーが変わる。

それまで「思う」ことだけを優先してきたけれど、少しずつ「想い」の意味を知りそれを体現しようとする過程の中で、少年は少しずつ大人になっていく。

その文脈を皆で共有してそれをそれぞれなりに表現して合わしていく『行間サッカー』を、選手達が体現し始めていく。今、ロボスのジュニアユースがまさにそんな感じになってる。
(行間サッカーについては、後日たっぷり)


想いを馳せる、想いを寄せる、ただ、想う。届かないとしても。
そんな存在がいる毎日は幸せだ。

最近、特にそう思えるようになった。遅ぇー