Neutral football

現実の殻を破る。フットボールと社会をつなぐ

思うと想うの違い

「思う」と「想う」の違い


《思う》
思の字の上部分にある『田』は、人間の脳を表すらしい。
脳、つまり自分で思うこと。自分の思い、自分はこうしたい、こう考える、という意味での
「思う」


対して
《想う》
この上部分にあるのは『相』という字。
言わずもがな… 自分ではなく、まず「相手」のことを想うこと。


自分のことよりも、まず相手の心を想う、相手の幸せを想う
自分よりも矢印が相手に向かっているのが
「想う」


つまり本当の友情や愛情は「思」ではなく「想う」なのだと、昔この漢字を発明した人は、そう語っている。漢字ってうまくできてるよね、ほんと。


自分ひとりで完結するのが「思い」で、
自分よりも相手のことを大事にする思いこそが「想い」ということなのだろう。


誰かにプレゼントをあげたくて、それを選んでる時間ってすごく楽しいじゃないですか。
楽しくて、幸せな時間。
「この服、あの子に似合うかなぁ」とか
「喜んでくれるかなぁ」とか
「渡したらどんな顔してくれるかなぁ」とか


純粋にその相手のことをただ「想っている」時間だから、きっと幸せに感じるんだと思う。


好き、大好き、付き合いたい、キスしたい!やりたい!
これは自分の片思いで欲求で願望だけだから、単なる思い。


付き合えなくても、例え自分のことを好きになってくれなくても、一緒にいれなくても
もしあの人が幸せでいてくれるなら、それだけで嬉しい。
これが本当の「想い」だろうし、究極の愛情。


もちろん恋愛対象だけでなく、家族や親友に対しても、同じように想えるのだろう。


こんな話を、サッカー部の外部コーチとして関わっている学校で、中学生と高校生に真剣に話をしてしまった。あー恥ずかしい。


ピッチ上では「思う」より「想う」こと


味方のことを想う。自分のパスが通ればいいのではなくて、そのパスを受けた味方が次のプレーを成功できるようなジャストなタイミングを見計らって最良の質で渡してあげるのが良いパスであり、それには、味方の状況や頭の中を覗ける、想像できることが必須になる。


つまり『想える』こと。それをボールに乗せて表現できる選手が、きっと良い選手ということなのだと思う。


そしてその状況を創り出せるようにあえてドリブルを使うとか、オフザボールの時にスペースメイクのために走ったりするのも、想うプレーのひとつだろう。もちろん他にもたくさんある。
総じてそれらこそが本当の意味での技術であり、インテリジェンスであり、巧いと言い換えてあげればいいんじゃないかと、最新の自分の中では結論がつき始めてるとこです。


「思い」と「想い」の違いを選手達が感じ取ってくれたらそれだけで頭の中が変わるし、目を向ける先も時間も変わってくるし、心の持ちようも変わる。
つまり、プレーが変わる。

それまで「思う」ことだけを優先してきたけれど、少しずつ「想い」の意味を知りそれを体現しようとする過程の中で、少年は少しずつ大人になっていく。

その文脈を皆で共有してそれをそれぞれなりに表現して合わしていく『行間サッカー』を、選手達が体現し始めていく。今、ロボスのジュニアユースがまさにそんな感じになってる。
(行間サッカーについては、後日たっぷり)


想いを馳せる、想いを寄せる、ただ、想う。届かないとしても。
そんな存在がいる毎日は幸せだ。

最近、特にそう思えるようになった。遅ぇー

 

戦術を語る前に、を書いて

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先月に書いた『戦術を語る前に』という記事が、結構バズりまして…反論や批判も多くいただきました。もちろん、それ以上の共感の声も沢山もらいました。皆さんありがとうございました。

 

 

ただ残念だったのは、反論や批判のほとんどが

「この人、絶対に全部読んでないやろ」と思えるものだったり

「文脈をちゃんと読んでくれれば、そうは伝わらないはずなんだけどなぁ」というものがほとんどだった。ムキになって食ってかかってくる人も多かった。

 

そこで、近々『戦術を語る前に Part.2』を書きたいと思ってます。

 

なので、まだ未見の方は、お暇な時にでも元記事を読んでみて下さい。久保田の指導スタンスの一端として、感じ取って頂けると思います。

 

今、なおさら思いを強めていることは、以下に尽きます。

「文脈も読めず、行間すら想像できない人が、戦術を子どもに指導するなんて到底無理じゃんか」

 

以上です。

 

奇跡はわりとよく起きる

今夏にTBSで放送されていたドラマ『義母と娘のブルース』を毎週欠かさず観ていたのだけれど、このドラマの重要テーマとしてストーリーの根本に流れていたのが
「奇跡はわりとよく起きる」というフレーズ。実際にセリフにもあった。

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『義母ムス』は小さな奇跡が積み重なっていく物語なのだけれど、ドラマの中だけの話でなく、実際に僕らが過ごす日常にも奇跡はわりとよく起きていて、大切なのはその奇跡に気づけるか、そしてそれを奇跡と思える感性やゆとりを持ち合わせているかなのだろうと思う。


最近、自分に起きた小さな奇跡


自分にとって特別な教え子が、この秋からコーチとしてクラブに帰ってきてくれた。
これは僕にとって、奇跡そのものだった。彼女には、そんなつもりはないのだろうけど。


10月に出席した、ある結婚パーティーの日。急いで駅のエレベーターに乗りこんだら、一緒に乗ったヤンキー風のお兄さんに、じっと見つめられた。
え、因縁つけられるかも…と思った束の間、肩をトントン、とされて
「スーツの襟、めくれてますよ」と優しく教えてくれた。


きっと僕が何かフォーマルな席に行くのであろうこと、時間もなくスーツを急いで着たであろうことも察してくれたんだろうということは、あの場に流れた一瞬の空気感やお兄さんとのアイコンタクトで伝わってきた。うまくは言えないけど、男同士でわかる一瞬の連帯感、なんかわかってくれますよね。
彼が教えてくれなかったら襟がめくれてたことにはきっと気づかず、会場で恥をかいていたかもしれない。
あの後、すごくほっこりした気持ちで電車に乗ることができた。


つい先週末、子ども達のゲームに混ざり足を怪我した。歩くこともできないくらいに激痛で、その後の練習どうしようと思っていたところに、その日来る予定のなかったSコーチ(冒頭に紹介した教え子)がいきなり「どーもー」「ちょっと来てみたー」と現れてくれた。あれには本当にびっくりした。結局そのあとは彼女がゲームに混ざってくれて、練習も問題なく終えることができた。

あれは本当に助かった… まさに小さな奇跡。嬉しい奇跡。

 

その日の夜、足の怪我を診てもらったのが、クラブに所属している選手のお父さん。地元で整骨院を運営されている。今までは試合会場で会うだけで、優しそうな人だなぁという印象しかなかったのだけれど、このお父さんに診てもらい施術してもらった結果、激痛で地面に足をつけるのもできなかったのが、次の日にはもう普通に歩けるようになっていた。原因も見抜かれ、足だけでなく身体の問題も指摘してくれて、これから定期的に診てもらうことになった。

こんな身近に「ゴッドハンド」がいた。奇跡そのもの。


月曜の夜、渋谷で飲んだ帰り
センター街を歩いていたらいきなり声をかけられた。誰かと思ったら、ここ数年まるで会えていなかった、ある教え子だった。
彼から声をかけてきてくれたことが、すごく嬉しくて。
その翌日はクラブ卒業生の集まりがある日で、そこには彼のご両親も来てくれた。


実はこのセンター街での再会の時にもっとすごい奇跡があったのだけれど、それはあまりにもすんごいことだったので、ここには書かないでおくけども
(その場に一緒にいた連れだけが、真相を知っている。本当に書けない)


ここに書いたのは、全てここ1ヶ月の間に起きたこと。たった1ヶ月だけでこんなに小さな奇跡があるのだから、一年の間には、きっともっとたくさんの奇跡に出会えるんだろう。
その奇跡を、見逃さない自分でいたい。

 

奇跡はわりとよく起きる。
そう考えると、毎日が少しだけ楽しくなるし、嬉しくなるよね。

 

と、、この文章を今スタバで書いているのだけども、中央のテーブル席に赤ちゃん連れのお母さんが座っていて、赤ちゃんがいきなり大きな声で泣き出した。自分は赤ちゃんの泣き声とかむしろ最高のBGMだと思うのでいつも全然気にしないんだけど、それまでわりと静かな店内だったので、あーこれ嫌な顔するオッサンとかいるのかな、そういうのよく聞くし…と不安に思っていたら

まず、その赤ちゃんの向かいに座っている大学生カップルの2人が、赤ちゃんに向かって変顔大作戦を始めた!しかもその変顔のクオリティーが高い。思わずこっちが笑っちゃいそうになったじゃないか。

 

なんだよこの美男美女、性格も最高なカップル…逆に嫉妬すら覚えるレベルの完璧さ。

 

そしたら隣に座っている初老のおじさんもお母さんに何か優しく話しかけたり、赤ちゃんをあやしたり。お母さんも安心したように、笑顔で応えてた。次第に、赤ちゃんも泣くのをやめてしまった。

 

こういうのも、日常に溢れる奇跡だよなぁ。きっとあのお母さん、今日一日はとてもハッピーな気分で過ごせるんだと思う。

小さな奇跡は、自分達で作り出せるものでもあるんですよね。

 

 

戦術を語る前に

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この夏、ある試合会場で対戦したチームに「スペイン帰り」という肩書きを持つ指導者の人がいた。その方はツイッター上では知っていたのだけれど、面識はなく。
その方のツイッターを覗くと、その多くの投稿で「スペインでは」という枕詞がついて、つまりスペインの良さを強調すると同時に、日本の育成事情へのダメ出しがニュアンスとして含まれている投稿が多かった。その多くは、戦術について。


この方に限らず、最近はWeb上やSNSなどで戦術に言及する、いわゆる《戦術クラスタ》の方々がとても増えてきている印象がある。


もちろんそれ自体はいいことだと思うし、日本サッカー、特に育成年代での戦術指導、戦略の共有、そこから逆算した技術指導やコーチングなど日本は明らかに遅れているから、その意味で、戦術クラスタの方々が多く現れてきているのは別に悪いことじゃない。
むしろいい傾向だと思います。サッカーを知らない、サッカーを自分の言葉で語れない指導者が、日本にはまだまだ多いし。


ただ、それを自分の趣味だけで楽しむ戦術マニアの人ならばいいけれど、指導者となると話は変わってくる。それを現場の選手達に自分の言葉で伝えられないのならば、それこそ、それは単なる《戦術マニア、戦術オタク》の人、で終わってしまうわけです。


サッカーは机上でやるわけじゃない。戦術だけでも語れない。
机上の論理では片付けられないファジーで抽象的な事象がたくさん出てくるし、いくら戦術を落とし込もうとしても、それを表現するのは生身の人間。育成年代ならば、子ども達。
ましてやJ下部に入るようなエリートの子どもはごくごく一部だけなのであって、それ以外の「その辺の子ども達」と、僕らは付き合うわけです。


選手は一人一人違う。体格も性格も成長スピードも、家庭環境も生い立ちも、その日学校でどう過ごしてどんな悩みを持っているかも、全て違う。当たり前だけど。


目の前にいるのは、作戦ボード上に張り付くマグネットじゃない。
感情を持った、日ごとに心が揺れ動く生身の人間を相手にしているという認識がない人が結構多くなってきてる。そんな肌感覚がある。錯覚ならばいいけれど。


冒頭に挙げたスペイン帰りの方が、まさにそういう感じだった。


その日の試合は8人制。次の試合で対戦する相手の試合を観たその方が、嬉しそうに自チームの選手達を集め、作戦ボードを持って戦術ミーティングを始めた。
興味があったので僕もさりげなくその光景を見ていたのだが


ここでお前①がこう動いて、そしたらお前②はここに下がる、それでお前③がこう動けば相手はこう付いてくるからここにスペースが出来て、そこにお前④が入り込んできたところにボールをつけて、その間にお前⑤が、、


と、一人でずっと、マグネットを動かしながら嬉しそうに喋り続けている。
子ども達は体育座り、そしてただただ


「ぽかーん」


そんな光景だった。


そりゃそうなる。話す内容は多くて言葉も多いけれど、正直、何一つ伝わってない。
目の前にいるのはスペイン人でもなく、プロ選手でも高校生でもなく、J下部のエリート達でもなく、街クラブの小学生。マグネットでもない。


いや、そんなの無理やん
て、大人の僕でも思った。あんないっぺんに言われても、1ミリも理解できないっす、と。


その後、そのチームの試合を観たらやっぱり「戦術」どころではない。そんなゲーム。
もちろん、子ども達は必死にやっていたけれど。


繰り返しになるかもしれないが、サッカーは戦術だけでは語れない。
もちろん技術だけでも語れない。ポジショニングだけでも、フィジカルだけでも、気持ちだけでも。
その全てが合わさって、チームメート同士でうまく落とし所をつけて、合わせて、でもみな同じには表現できなくて、時には気持ちだけで数分持たせたり…だって、ある。


以前、スペイン人の指導者にこう言われたことがある。
「気持ちが原因で勝つ試合なんて無いし、気持ちが原因で負ける試合なんていっぺんたりとも無い」と。


もちろん、それも一理あるでしょう。気持ちが第一!精神論万歳!なんて自分も言いたくないし、間違ってると思うし。


でも、時には気持ちが体を動かす。気持ちがボールを呼ぶ。気持ちがサイクルとなって、最初と最後の一歩が出ることもあるし、届かないと思っていたボールに届く。
そんなことが、サッカーにはたくさんあるじゃないですか。


これは僕の妄想でしかないのですが
ロシアW杯初戦のコロンビア戦、その直前に日本では大阪で大地震があり、悲しいことに死者も出てしまった。そのニュースは、きっとロシアの日本選手達にも届いていたはず。


東日本大地震のこともあり、日本人はどうしても、地震にはセンシティブで特別な感情を持ってしまう。あの大阪での大地震の直後に大一番を迎えた日本代表の選手達にとって、その心と体をもう一歩先へと動かす理由の一端にはなったんじゃないか。
今日だけは負けられない。日本国民に勇気を与えるニュースを届けようじゃないか、って。


あのコロンビア戦、キックオフを迎える日本選手達の表情は今までに見たことのないくらいの高揚感と覚悟が溢れていて、実際、試合の入りは尋常じゃないくらいに最高のものだった。
そして開始早々、あの大迫の抜け出しと香川のロングシュートが生まれ、コロンビアの選手を退場に追いやるという漫画のような展開に繋がった。

もちろん、ハリルホジッチ監督が解任された騒動もあったことから、下手な試合はできない、という責任感と悲壮感も、間違いなくあっただろう。

 

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あの日の日本選手達の心理状態は、コロンビアの分析班にはまるで想定外だったはずだ。

あくまでも、妄想だけど。


サッカーは生身の人間がやるもの。そのことを頭と心でわかっている人が戦術を多く語り、選手達に「戦術、超大事。でも、それと同じくらいに大事なものがある」と伝えられる人じゃないと、戦術指導はしちゃダメなんじゃないかな。


そしてもちろん、目の前にいる選手達の「ニーズ」に合わせてそれをうまく伝えられる人じゃないと、本末転倒だろう。


戦術クラスタを名乗る指導者の皆さん、作戦ボードを持ちマグネットを動かす前に、まずは子ども達の心の中を覗くことから始めませんか。

 

(文中の画像は、全て 文春オンライン から)

 

bunshun.jp

 

ボールは友達じゃない

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漫画「キャプテン翼」での有名な言葉に「ボールは友達!」というのがあるけれど、


うちのクラブでは「ボールは友達じゃない」と伝えている。


ボールは大切な道具ではあるけれど、友達ではない。

もっと大切な本当の友達が、ピッチ内にたくさんいるじゃないか、と。
さらに、戦う相手だって、その場を共有し、凌ぎを削る友達だ。


「友達の中で、友達とサッカーをする」ことが、サッカーの本質。


だから、ボールよりも味方を見ないといけないし、相手を見ないといけない。


ボールだけを見てしまい友達の動きや状態を見落としたり、友達よりもボールを優先してボールに縛られていたら、本末転倒だぜ、と。


ボールに触ることに縛られず、ボールから解放されて、友達の中で自分は今どの場所にいて、どういう状況で、だから次やるべきことは何なのか、を自分で見つけなきゃいけない。


さらに「友達」がどういう状況なのかを見極めて、それに対し最適な行動をとること。


だからこそ、ボールなんか見なくてもいつでも相手より先に触れる状態でいるために、いつでも味方に合わせて最良のパスを出せるために、うちではドリブル練習をやるんですけどね。
でもその目的は「友達の中で友達とサッカーをする」ことを頭と心で理解し、高次元で表現するため。


百歩譲って「ボールが友達」と思っていてもいい。でも
ボールなのか、本当の友達なのか … 自分の中で優先すべき友達はどっちなのか。


それを自分で考えて分別をつけられるようになることが、サッカーで大人になるということなのではないでしょうか。

 

そして、友達がたくさんいる「僕の、私のサッカークラブ」が、彼ら彼女らにとって心が安らぐ、そしてワクワクする「居場所」になってくれるようにしたいと思ってます。

 

アイデアを否定する大人、アイデアに共感する大人

adlibler.hatenadiary.jp

 

先日うちのクラブのU-11が実施した御殿場遠征で、ある選手がすね当てを忘れてきた。

すね当てがないと試合には出られない。これはルールだから仕方ない。

いや、厳密に言えば「すね当てがなければ出られない」ではなく

「すねをガードするものを入れなければ、試合には出られない」が正しい。

 

だから彼は考えたわけです。すね当ての代わりに、すねをガード出来るものであればいいんだろうと。

ポケットティッシュ、新聞紙、ダンボール … 僕らも一緒にいろいろ思案した結果、彼が選んだのは合宿の備品としてその場にあった「キッチンペーパー」でした。

 

これを何枚か重ね、折りたたんで適度な大きさにしてソックスの中に入れれば、いかにも程よい弾力の「すね当て」が出来上がる。

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これ

キッチンペーパー、なかなか良いアイデアでしょ?

だから僕も自分のSNSに「天才、これぞアドリブラー」って投稿したくらい。

 

 

今回のコラムはここからが本題なのだけれど

この僕の投稿に

「天才とかいう前に、注意しなきゃダメでしょ」とか

「これは違う」などと異議を唱えてきた人達が、実は一定数いました。

 

本当か?本当に、これは注意しなきゃダメなことなのか。

自分は、全くそうは思わない。

ルールブックにはこう書いてある。

「適切な材質でできていて、相応に保護でき、ソックスで覆われていなければならない」

 

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市販のすね当て、既製品でなければいけないなんて、ルールブックにはどこにも書いてない。

 

キッチンペーパー

・適切な材質か … 誰にも迷惑をかけず、破損もない。相手も傷つけない。

・相応に保護できるか … 厚みがあり弾力も担保されているので、衝撃を吸収できる。

 

この通り、キッチンペーパーでもすね当ての機能は充分に果たしていたし、ルールにも抵触しない。

だから別に既製品じゃなくても、キッチンペーパーでも新聞紙でもポケットティッシュでもダンボールでも、何でも構わないはずだろう。

 

とは言いつつ、このコラムを愛読して下さっている方ならば伝わるとは思うけど、自分が今回言いたいのは別にルールに則っているのだからいいだろうとか、そういうことじゃない。むしろ逆

 

本題はもっと奥にある。

「すね当て忘れた、じゃあどうしよう!」ってなった時に彼が頭をひねって考えた「キッチンペーパーで代用する」というアイデアを「既製品じゃないからダメ」「注意しろ」って頭ごなしに否定する大人でいるのか、それとも

「それ、めっちゃいいアイデアじゃないか」って共感してあげる大人でいるのか

 

子どものそばにいる大人として、あなたはどっちを選びますかってことだ。

 

もちろん自分は後者だが、この例に限らず「そんなのダメ」「決められたものじゃなければダメ」

「そんなの意味ない、無駄」などと、子どものアイデアや発想、提案を一蹴してしまう大人が、この日本にはいかに多いことか。

 

ジュニア年代の指導現場を見ても、そういう大人はとても多い。

学校現場でも、そんな教師は本当に多いよ。

 

サッカーでは「自分で判断しろ」「自分で考えろ」とか子どもに求めながらも、

「すね当てしないとダメ」「キッチンペーパーじゃダメ」「シャツ入れろ」「爪見せて」「ドリブルはダメ」「ドリ練なんて意味ない」「自主練なんて意味ない」「そんなの無駄」って言う指導者、たくさんいるじゃん。

 

子どもに対しては「考えろ」と言いつつ、自分は物事の本質を見れない。だから本当に大切なことは何かというスタンスに立って考えられないそんな大人が、子どもに対し「指導」してるわけです。

最大の矛盾だ。

 

みんなそうしてるだろ

みんなそんなことやってないだろ

そんなのお前だけだぞ

みんなが、みんなは、みんなで …

 

そう言って自分が楽をして、子どもの感性を閉じ込める。そんなサッカーコーチがサッカー教えてる。

そんな教師でも、毎日生徒と接してる。

最大のミスマッチだ。

 

日本という国が抱える根本の問題も、ここにある気がする。

皆と一緒じゃないといけない、皆と一緒にさせないと気が済まない、同調圧力という名のモンスター。

皆と一緒じゃないと、自尊心を保てない人達。

 

今回の御殿場遠征の会場は「パレットごてんば」という名称だったのだが、その命名の由来が会場に掲げられていたので、最後に置いておきます。


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大人みんながこの視点に立てば、子どもの表情が変わる。子どもは生き生きと輝くはずだ。

 

違いこそが魅力なんだという視点に立てない大人は、子どもに接するべきじゃない。

 

あ、でもキッチンペーパーにめっちゃ共感してくれた人も多かったことは、最後に付け加えておきますw

先生、試合を観に来てください

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うちのクラブに所属する選手(小3)の話。

 

彼のお母さんから聞いたのだけれど、彼は1年生の頃からいわゆる「学級崩壊」の中心人物という位置付けらしく、今の担任の先生も、すでにそういう目で見てしまっているという。

ある時はそれに対する保護会が開かれ、他の子の保護者から「おたくのお子さんは、どこか障害があるんじゃないですか」とまで言われたとか。


冗談じゃねぇ。ふざけんなよと思う。


教室の前に先生が一人、その前に生徒が数十人ずらっと座るあのスタイルで、決められた机と椅子に40分も50分もずっとじっと座っていられる低学年の子のほうが、僕から言わせればよっぽどおかしい。
どれだけの我慢を強いて、どれだけ感性を閉じ込めているのか。


それとも、学校という場はそういう忍耐を身につける場所なのか。そしてそれに沿わない子は障がい者呼ばわりされるのだとしたら、そんな学校なんて行かないほうがいいとさえ思う。


周囲に同調させるのを是とする学校なんて、クソ喰らえだ。


彼を「学級崩壊の中心人物」とラベリングする大人達は、彼がサッカーをしている時の姿をその目で見てみればいい。
誰よりも走り、誰よりもボールに食らいつき、攻守ともに縦横無尽に走り回ってチームメイトのために戦ってる。
そして勝てば無邪気に喜び、負ければ号泣する。彼は純粋で、自分の感情に素直なだけだ。


上述したように、教師 対 生徒全員、という図式を未だに続ける日本の学校の学級運営そのものに、もう限界があるんですよ。
座りたい場所に座ればいいし、教師と生徒、生徒同士もお互いがもっとディスカッションできるような環境をつくるべき。


それに、面白い授業をすれば子どもは絶対に話を聞く。
それ以前に「僕はあの先生好きや」って言ってもらえるような教師になれば、子どもはちゃんとこっちを見てくれるもんだよ。
そういう努力を、学校の先生たちは一体どれくらいしてるんだろう。


ピッチ上での彼の姿を先生が見たら、どう思うだろうか。
教室で自分の思い通りにしてくれない彼の姿とのあまりのギャップに、何かを感じ取れる感性と理性と良識を、まだ持ち合わせていてくれればいいのだけれど。


本気で一度、先生を試合に呼んでみようかな。