Neutral football

Footballと社会をつなぐ。Footballを語りたいなら、Footballだけでは語れない

子どものやる気を引き出す7つのしつもん

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友人の藤代さんが

子どものやる気を引き出す7つのしつもん という本を出しました。

http://shimt.jp/book/


献本までしてもらい、感想をお願いされていたのにずっと読めずにいて
昨日ようやく読むことができたので、感想書きます。

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スエルテ横浜での試合や練習があった日、その帰り道や夜などに、自分がその日どういう姿(言動、振る舞い)で子供達に接していたかを客観的に振り返った時、どうしても「何かを伝えたい」という思いが強すぎて、やや一方通行、押しつけになってしまっていたな、と感じる日の方が多い。そんな日は、いつも自己嫌悪に陥ってしまう。

こういうサッカーを伝えたい、こういう考え方を体現してほしい…という思いが強すぎてそれが溢れてしまうと、逆に子供達は心を閉ざす。
これは自分の経験上でも充分に痛感してきたし理解しているつもりなのだけれど、毎日、毎時間、全て自制してずっと笑顔でいられるほど、僕は心も強くないし自制心もない。

これが単なる外部コーチの身ならば、きっともっと気軽に子供達と接することができる。
現にスエルテ以外で外部コーチとして関わっているクラブでは、実際そうなのだから。

スエルテでも、同じような自分でいたい。そう思いながら、毎日を過ごしていた。
正直、もっと楽になりたいと思いながら、スエルテの練習や試合に行く日々。

そんな時に藤代さんのこの本書を読んで、スエルテでの「なりたい自分」はどんな姿なのか、を冷静に省みることができた。

自分が子供の頃、好きだった大人のようになりたい。
子供達に「ここでサッカーするのが、なんか好き」と思ってほしい。

結局、この二点に尽きるのだ。

僕は子供の頃(小2〜中2)空手をやっていた。体も小さかったし運動神経も良い方ではなかったから別に強くも巧くもなかったけれど、なぜかこの空手道場に行くのが毎回大好きで、だからこそあんなに長い期間、続けられたのだと思う。

あの頃「師範」として関わってくれた先生達は、怖い人も優しい人も面白い人もいたけれど、それぞれに共通していたのは
「この人は僕のことを認めてくれている、ちゃんと見てくれている」と思わせてくれる人ばかりだった。

本書でたびたび出て来るフレーズ
「質問は正解を導くためではなく、子供達に自ら考えてもらうため」
「答えは全て正解」

今振り返れば、あの先生達も、これを実践してくれていた気がする。だからこそ組手の試合で負けても、型の演武でミスしても、腐らず劣等感も持たずに数年間も空手を続けられたんだろうなと、あの頃の思い出が一気に蘇ってきて、練習に向かうバスの中で本書を読みながら、少し泣きそうになってしまった。

こちらから一方通行で「やらせる」「出来るようにさせる」のではなく、
「共有できるもの、信じられるものをその瞬間に生み出す」ような練習が、僕の中での理想。そんな練習ができるのは、月に一度くらいだけれど。

でもそんな練習ができた日を思い返せば、自分も常にポジティブで、子供達に対して笑いながら接してて、子供達とイーブンな関係で会話できている日。
だから自然に問いかけもできるし「しつもん」ができている。それに対する子供達からの答えも素直に受け止めることができて、そこからまた想定外の方向に話が進んで、新しい練習が思いついて脱線したり。
脱線て大事。そういえば、学校でもすぐ話が脱線する先生の授業は楽しかったし、人気もあったよね。

本書のページをめくりながら、あぁ、確かにそうだよな、自分の心持ち一つで、練習の雰囲気が左右されてしまうよなぁって、良くも悪くも納得できた。

本書を読み終わってまず湧いてきた感情は
「子供達にとって、自動販売機のような存在でありたい」というものだった。

飲み物を供給するだけでなく、暗い中でも光を発している存在。
子供が自分に何を求めているのかに応え、それにプラスアルファできる存在。
子供達から、自然に寄ってきてもらえるような存在になりたい、と。

そのためにも、まずは自分から。子供達の声もミスも受け止め、そこで一緒に考え、ポジティブな脱線を繰り返しながら、共有できるものをたくさん生み出せるように。

そのためにも「しつもん」をしていくことで、それぞれの子供達の、まだ見えていないどこかに光を当てることができるかもしれない、と思った。

上述した空手時代や、中高でのサッカー部時代、また指導者講習会などで選手役となった時に、コーチや先生から言われて嬉しかった言葉は、意外と単純で
「なるほど」「それ、イイね」とかだったりする。

自分のアイデアが認められること。自分発、の嬉しさ。
これは、子供でも大人でもきっと変わらない。
認めてくれた、受け入れてくれた、アイデアを採用してくれてそれを他の仲間達も共有してくれた…っていう嬉しさ。

「しつもん」で、そんな嬉しさを子供達にもっともっと実感してもらいたい。
そう思ったら、次にスエルテの練習に行く二日後が、何だかとてもワクワクしてきました。

楽になりたい、と思っていたけれど
本書を読み終わって、本当に、少し楽になれた気がします。藤代さんありがとう〜

 

上達への近道は、別腹の時間をつくること

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自分はサッカーコーチだけれど、家に帰ればサッカーのことはほとんど考えない。
サッカーが仕事になっているからこそ、サッカー以外の生き甲斐や趣味に対して割く時間を、より大事にしたい。

最近はギターを買って、家に帰ればギターばかり弾いて練習してる。高校生の時に少しだけかじって以来だから、およそ20数年ぶり。大好きなBOØWYの曲を必死に練習して、指は痛いし肩も凝るけど、楽しくて楽しくて、全く苦じゃない。
自分の中に刻み込まれているメロディーを自分の指で再現できる幸せ。夢中に弾き続けて、気づいたらいつも真夜中になってしまう。

没頭すると、ついつい時間を忘れてしまう。これは音楽やスポーツに限らず、どんな趣味でも同じだろう。
僕らが子供の頃だって、時間を忘れて日が暮れるまで公園で遊んでた。そこに大人の干渉も関与もないし、もちろんコーチもいない。こうしなきゃいけない、なんて理屈っぽい概念だって無縁の時間だ。

何が言いたいかというと
『トレーニング、習う、レッスン、スクール、セレクション、◯◯しなきゃいけない、サッカーとはこういうものだ、etc … 』
これらのような響きとは一切無縁の時間と場所が、今、日本でサッカーをしている子供達にはもっと必要な気がする。

教えたがり、関与したがりな大人達に囲まれ、最近のサッカーキッズは概念づけられ過ぎ、縛られ過ぎな子が多いですよ。ありきたりな表現だけど、金太郎飴が多い。

このままだと…強化うんぬん言う前に、文化としてのサッカーも根付かない気がするけどな。競技としての選手人生を終えた時、心が疲弊してサッカーから離れてしまう、サッカーとは距離を置きたくなる人も多くなってしまいそう(あくまでも主観だけど)

さて、ギターが楽譜通りに弾けるようになると、次は弦を押さえる左手の指をもっと効率よく動かせないかという模索を始め、楽譜よりも自分の耳に忠実になって、楽譜通りに弾く必要がなくなり、楽譜から離れられる。
弦の押さえ方、弦の弾き方、抑揚の付け方 … に、自分のアレンジを加え始められる。

古武術の甲野先生が仰っていたように、教えられたことではなく、自分で見つけたことだけが会得できる。自得こそ会得。この言葉を、ギターで実感する日々。

技術を習得し自分のものにする過程という点では、ギターもサッカーも同じだ。

「ギター教室」に通って、一から十まで先生に教わって…だったら、こうはいかなかっただろう。先生の言葉に忠実になって、ここまで毎日楽しく弾くことはできないかもしれない。
会得できるものも、今より圧倒的に少ない気がする。

自主的に練習すること = 自主練。自分で主体性をもって練習すること = 自主練。

自主練は別腹だ。
いくら満腹になって苦しくてもデザートは食べられるように、いくらチームの練習(仕事)で疲れたとしても、その後に自分の意思(意志)とペースでやれる自主練ならば、疲れを感じない。そしてこういう時間に、自分だけの発見があり、自分だけの色を付けられる。

焼肉を食べる時、女子がよく言う。肉で満腹になったとしても、肉と肉の合間にデザートを挟むと、また肉が食べられるって。
女子の言葉は真理だ。実に深いぜ。

 

自分が監督をしているクラブ(スエルテ横浜)では、毎週金曜日の練習は全体練習を一時間半で終え、その後の30分を自由時間にしてます。帰ってもいいし、仲間を募ってゲームの続きをしてもいいし、自分一人で練習してもいいし、ただただくつろいでいるだけでもいい。

その前の練習でクタクタになるまで真剣勝負のゲームをして体力は尽きているはずでも、その「自由時間」になると、また何故か全快Maxでみんな走り回ってる。

この姿が、きっと真理だろう。縛られてない時間の姿。

 

自主練に限らず、練習でかかってくる疲労の違いは、心理的な要素がかなり大きいと思う。

心が縛られているか、縛られていないかの違い。これが一番大きいのではないか。

いくら有名なコーチがレッスンしたとしても、そのコーチの理論だけを一方的にやらされる練習では心が疲労する。その通りにやらないとその都度「コーチング」されてしまうから、心は縛られ、自得どころか、そのコーチに合わせることがまず最優先されてしまう。
こういうの、よく見る光景だ。

心が縛られない場所でサッカーをすることが、上達への一番の近道だと思う。そんな場所を、僕ら大人がつくれるかどうか。

 

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いや、まぁ「つくる」とか言ってる時点ですでに過干渉なのだけれど、僕らのようにコーチと名乗る以上は、その場所をいかに自然な形で提供できるか、がこれから問われるのだと思う。いろいろ制約の多い時代。今の子供達は、僕らが子供だった頃より間違いなく忙しい。

子供達にとって、せめてサッカーだけは時間を忘れて没頭できて、自我を解放できて、自分のやり方を見つけられる存在であってほしい。

 

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自分のクラブがそんな場所になれているかと言われれば、まだ自信を持ってYesとは言えないけれど、、(がんばります)

 

 

ある青年の答辞 〜 自由であること

福岡県糸島に移住したアミーゴの有坂さんから、つい最近、ある青年のことを紹介されました。

8年前、その青年が高校の卒業式で卒業生代表として答辞を読んだ時の、その答辞全文と、壇上では話されることのなかった「付け足し」です。

 

その時の、有坂氏のブログ

blog.canpan.info

自由であること。それは心が自由でなければいけない。

彼がそう思えるようになったのは、きっとその高校のサッカー部でサッカーをして、魅力的な仲間と共に過ごして、そして何より、すぐそばには 自由な「有坂コーチ」がいたからこそ、その感性に辿り着いたんだなと、彼の答辞を読んで納得しました。

長文ですが、是非多くの人に読んでほしいです。
そして今僕が関わっている選手達にも、彼のような
「自由の意味を知る、本当に自由で強い」18歳になってほしいと思います。

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答辞全文 + 付け足し

春の風を感じるようになりました。
100年に1度の不景気と言われる世の中でも、 例年と同じように卒業の季節がやってきました。

僕らが入学した頃は、 新校舎の建築のためプレハブ校舎でした。
このプレハブは少しの地震でも大きな揺れがくるのが難点でしたが、
教室や廊下は広く、ロッカーも廊下にあり、 エアコンも自由に使えて、僕は大好きな校舎でした。

そんな校舎からスタートした学校生活は、緊張の連続だったことを覚えています。
みんなと打ち解けるまでの期間は恐ろしいほど長く感じましたが、打ち解けてからの今までは、あっという間の出来事のように思います。

石神井での思い出は
ここにいる人数分以上あると思いますが、僕の場合は部活なしでは語れません。
話題の中心も、悩みの中心も、問題の中心も、喜びの中心も、笑いの中心も、
常に中心には部活の存在がありました。
これぞまさに、苦楽を共にした一生の友と言えます。

このように僕自身、部活を中心に考え、優先させていたばかりに、行事などではみんなにたくさん迷惑をかけてしまいました。 すみませんでした。
特に体育祭の時の話し合いは、体育祭の幹部もこっちも熱い思いを持ってのものだったのでよく覚えています。

このように体育祭だけでなく
さまざまな場面で3年間たくさんの人たちと関わってきて、みんなの真剣に取り組んでいる姿はかっこよかったです。 部活の時間だけでなく、自ら進んで練習やトレーニングをしている所など見ると、自分もとても刺激を受けることができました。

石神井高校を選んだ理由はみんないろいろあると思います。
私服の高校だから、自由な校風だから、自分のやりたい部活があったから、行事が盛んだから、家が近いからなど、たくさんあると思います。
しかし最初の理由は違えど、一緒に生活していくうちに 共通の目標ができたり、
同じ楽しみができ、少しずつ一体感が生まれていくのが僕は好きでした。

少し話は変わりますが、
僕は中学の時も答辞というものをやらさせてもらって、 その時はこう話してる最中に泣いてしまったのですが、今ここで泣いていないのは3年間のちょっとした成長かなと思います。

またこのことだけでなく、石神井での3年間は、自分の変化や成長を感じることのできる3年間でした。
必ず全員3年前と今とで、変化を感じることができると思います。

僕はその変化として、世の中への疑問や矛盾を感じるようになったと思います。

今この場でも
目に見えない強制、圧力というものがあると思います。
これから僕らが出て行く社会は、今ここで感じることのできる疑問や矛盾、不正、そのようなものがたくさんあるのかもしれません。

ただ僕は、疑問、矛盾、不正を感じた時、それを変えていくことすら制限されていく社会は嫌です。 これは、国や都道府県単位だけでなく、学校という社会においてもです。

学校の主役は生徒です。

生徒が学校を動かせないのはもってのほかですが、先生たちの意見が反映されないのももってのほかだと思います。 生きている学校を動かせるのは生徒であり、それを支えるのが先生だと思います。

石神井の生徒は
いい意味でも悪い意味でもかなりアクティブな集団だと思います。

ここで後輩たちに伝えたいのは、行事、部活、日々の学校生活で何かに気づき、何かを感じたら、声に出し、自分たちの思いを形にして、みんなが幸せを感じれるようにしていってほしいということです。

そのために、教科書なんかには載っていない、もっと大事なことをたくさん学んでほしいと思います。

何かを知るということは、心と体を動かす大きな一歩だと思います。

もうひとつ後輩たちに伝えたいことがあります。
おそらく毎年の答辞で言っていると思いますが、改めて自由の本当の意味を考えて行動してほしいです。
自由というのは、たとえそこに自由があっても、その人の心が自由でなければそれは自由ではありません。 そして、自由を背負う覚悟と責任が必要です。

これからの石神井から自由な心の持ち主が、たくさん巣立っていけることを願っています。

また、60年以上の間先輩たちが作ってきた石神井の貴重な自由の伝統の意義を考え、継承していってほしいと思います。

最後になりましたが、このような会場を作ってくれた後輩、先生、主事さん、そして本日会場に足を運んでくださった保護者の方をはじめとする多くの方々、ありがとうございます。
僕らはここにいる仲間たちで、これからも支え合いながら歩んでいきます。

この答辞を終える前に、一つ付け足します。
卒業式では、僕が言いたくても言えないことがありました。
なのでここで言えなかったことは、少しですがこれの続きに書いておきました。

僕を成長させてくれた石神井高校に、
そしてこのような表現しかできませんでしたが、 勇気を与え、後押しをしてくれた仲間に感謝しています。 ありがとうございます。

未熟な文章でしたが、 最後まで聴いていただきありがとうございました。

2009年3月7日 卒業生代表 “ ike ”


・つけたし・

高校生活最後のこの日に、残念ながら自由を感じることはできませんでした。

もしこれから石神井高校がこの大きな壁に挑むときは充分な準備をし、多くの人の意見を集めて声に出し、行動してほしいと思います。

必ずその声は何かを変えてくれます。こんな表現しかできなくてごめんなさい。

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以前、国際高校でコーチをしていた時、卒業式に乙武洋匡さんが「教育委員会代表」で来賓として来てくれたことがありました。教育委員会代表として決められたテンプレートを淡々と読み上げた後、原稿を捨て「さぁ、今から本音を話すよ!」と笑顔で言い放ち、生徒から喝采を浴びたことがあったんですよ。

色々な話をしてくれたけど、
「自由なマインドを持った君達のような存在が、社会の壁を越え、変えていくんだ」という乙武さんの言葉が、一番印象に残ってる。
彼の答辞を読んで、久しぶりにあの時のことを思い出してしまった。

この答辞から8年経った「今の彼」と、近々会うことになりました。
楽しみ!

 

 

結局は人なのだ。だから信用できない

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最近話題になった教育勅語について。

まず「教育勅語には良いことも書いてある」とか言う人は、教育者としても指導者としても、失格だと僕は思う。

文章には「前提」というものがある。書く側の立場をもとに、こういう結論に持っていきたいという前提。その前提次第で、同じ文言でもまるで違う意味になり、誰がどういう意図で書いたかによって、その文章が持つ意味合いは大きく変わってくる。

どんな文章でも、例えそれが同じ文章だとしても。
「誰が」何の目的で書いたか、その文脈、行間、前提。そしてそれを「どういう人達」が利用し、企み、広めようとしているかによって、まるで違う文章になってしまう。

文章とはそういうものだ。文章だけでなく、言葉もそう。言の葉は、誰が発するかによってその意味合いが変わってくるものだ。

そこを理解できず、ただその中で書かれている枝葉の部分だけを切り取って文章全体を擁護しようとしてる人は、子供に関わる大人としてはかなりイタすぎる。
それとも何か他の意図があるんじゃないの?と勘ぐられても仕方ない。

最近、作家の高橋源一郎氏が教育勅語を現代語訳したTweetが、少し話題になりました。
以下、ここに引用します ↓↓

教育勅語
「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね」

教育勅語
「きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです」

教育勅語
「その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと」

教育勅語
「そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません」

教育勅語
「もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください」

教育勅語
「というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです

教育勅語
「いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです」

教育勅語
「そういうわけで、ぼくも、きみたち天皇家の臣下である国民も、そのことを決して忘れず、みんな心を一つにして、そのことを実践していこうじゃありませんか。以上! 明治二十三年十月三十日 天皇

以上です。
もちろん高橋源一郎氏が教育勅語に批判的な立場であることを差し引いて見ることは必要だけれども、しかし、上記はほぼ間違っていない現代語訳でしょう。

つまり教育勅語は、いざとなれば国のため天皇のためにお前ら臣民は命を差し出せよ、
だからそのためにも普段から慎ましい生活を送り、徳のある人でいるんだよという、権力から国民(臣民)へと与えられた都合のいい「ご下命」と「余計なお世話」なトンデモ文章なのだ。

だいたい家族や友達を大事にしろとか夫婦仲良くとか勉強しっかりしろとか、大きなお世話やねんという話。そんなの誰だってわかってるし、いちいち国から言われる筋合いのものではない。

昔、これは誰が何のために書いたものか
昔、これをどう利用していた人達がいたのか
今、これをどんな人達が再び利用しようとしてるのか。

これらをよく考察しないといけない。

そんな文章をいまだに(今さら)擁護しようとしてる人は、お上からの「ご下命」がよっぽど大好きなコンフォーミストか、自分が生きてもいなかった頃の幻影に愚かなノスタルジーを感じる、かなり残念な人なんじゃないのか。

さて
「今の憲法はみっともない、いじましい憲法だ」
こう言い放ったのは今の日本国総理大臣・安倍晋三氏。さて、どっちがみっともなくていじましいだろうか。お前が言うなよと僕は思う。お前の方が余程みっともなくて、いじましいじゃないかと。

安倍晋三は史上最低の総理大臣であると僕は確信しているけれど、それについては次回たっぷりと書くとして、こういう軽薄な人物が政権を司っている中では、この男がどんな美辞麗句を並べようとも信用はできない。例えばこんな輩とその取り巻きに「共謀罪」という刀を与えたら、どんな目的でそれを使うかは、もう想像に容易いわけです。

そんな安倍晋三の周りにはたくさんの輩がいる。類は友を呼ぶ。バカはバカを呼ぶ。

自主避難者は自己責任、裁判でも何でも起こせばいい」と言い放った復興相がいたが、
さらにこの男は「震災が東北でよかった」というトドメまで刺して辞任していった。

警官による「土人発言」は差別ではない、と冷徹に言い放った沖縄担当相はまだその職に留まったまま健在だ。
「戦争は人間にとって霊魂進化の最高の宗教的行事」「国を護るために国民は血を流すべき」「国民の生活が第一なんてとんでもない」とまで言い、しかしまともに答弁もできない極右の人物が防衛大臣。さらにこの防衛大臣の夫は、軍事産業企業の株式を大量に保有してる。

そんなのばかりな集まりが「教育勅語を教育現場で使うのは問題ない」と、わざわざ閣議決定までしちゃった。もうこの人達、完全な末期症状です。

誰がその文章を書いたのか
誰がその言葉を言ったのか
誰がその法律を立案し、施行しようとしてるのか
誰がそれを利用しようとしてるのか
etc…

大切なのは人。人が全てを動かす。その「人」の集まりとして、今の政権は致命的に信用できないのだ。だからこそ僕はこういう文章を書いてる。そしてこれこそ、この文章の前提そのものである。


最後に繰り返す。
同じ文章でも、文脈、行間、前提の解釈、そして
「誰が」何の目的で書いたか、またそれを「どういう人達」が利用し、企み、広めようとしているかによって、まるで違う文章になってしまう。

教育勅語も、日本国憲法も、このコラムも。

自分一人ではリセットできないことを知る旅

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伊勢にいたる時、人はそこに、日本の本然の姿を発見するであろう。
川下より源流に遡る道である。
(忘れちゃったけど誰かの言葉)

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年度始め。4月1日から3日までが、自身つかの間のOff期間。

今年はスエルテも一般社団法人にすることだし、自分も単なる個人事業主ではなくなり一応「社団法人の代表理事」とかになってしまうわけなので
ここはさすがにしっかりお参りでもしようかなと思いました。

そうは言いつつ自分の中での大きな目的は、お参りよりも、煩悩とサッカーだらけで淀んでしまった自身の心の洗濯。
しばしサッカーから離れ、三日間のんびりしながら心を洗い、2016年度の濁流をリセットし、自身を見つめ直し、新たに始まるこれからを夢想したいなと。

ということで
昨年の年度始めは乃木坂46の聖地・乃木神社へ行って結局お参りもせずただウキウキして浮かれて帰ってきただけだったので今年は反省し心を入れ替えて
乃木坂46の聖地どころか日本の聖地、日本の中心とも言われる「伊勢神宮」へ、この三日間を使って行ってきたのです。

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伊勢神宮へ行くのは初めて。前から行きたかった場所でもある。

風習どおり、外宮から内宮へ。外宮でも身が引き締まったけれど、内宮は外宮の遥か上をいくほどに壮大で神秘的で、見えない力をとても感じられる場所だった。
最初、鳥居をくぐり橋を渡っていくところの風景、あの厳粛さと壮大さは世俗ではなかなか味わえない。

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僕は保守的な人間ではないし、日本大好き・日本スゲー!っていうようなウヨウヨ界隈とはまるで反対側にいる人間なのだけれど、それでも、ここでは全身がそわそわした。

日本の聖地に来た。素直にそう思えた。

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こんな僕でも、天照大御神のことはさすがに知ってる。めっちゃ簡単に言えば、日本の始まりみたいな存在、って神話でいわれてる人でしょう。
内宮の正宮から覗く本殿やその向こうの山々の奥、五十鈴川の源流には、その天照大御神がいる(と言われている)

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三日間とも内宮には通い、正宮まで歩いて毎日お参りした後、本殿の奥をしばし眺め、
あの奥に神様がいるのか…と想いにふけるととても静かな気持ちになれたけれど、
でも結局、頭の中(心の中)に自然に思い浮かんできたのは、亡くなった父と愛犬と教え子の顔でした。

「きっと見守ってくれている」と想える存在こそが神様なのだとしたら、それぞれが自分の中で、大切にする自分だけの神様がいる。不謹慎かもしれないけれど、天照大御神の御前で、うん、それでいいんだよなって思ったのでした。

上でも書いたように、鳥居をくぐり橋を渡って内宮へ入っていくのだけれど、この橋は、五十鈴川という川の上にかかっている。
この五十鈴川が、実に神々しい。静かで、厳かで、緩やかで、美しく幻想的。

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この五十鈴川の水を触ることで、身を清めることになるらしい。実際触ってみたけれど、とてつもなく冷たかった。神が棲んでる。そう思えた。

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この五十鈴川の河原にのんびり座って上流を眺め、神様を夢想し、自分を見つめる時間。
この時間を持てただけでも、伊勢に行って良かったと思える。今度は大切な人と行きたい。

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しばしサッカーから離れるとか言いつつ、二日目には、同じ伊勢にある「伊勢フットボールヴィレッジ」へ遠征に来ている京都精華の試合も観に行った。

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新しい試みに取り組んでいる精華のサッカーは、以前観た時よりも数段スケールアップしていて、とても魅力的なものだった。今年かなり楽しみですね。

新年度が始まると、スエルテの6年生達もすぐに公式戦(FAリーグ)が始まってしまう。
6年生最後の年だし、いきなり公式戦だし…!と鼻息荒くイキリ倒して自分を見失い、彼らの良さも見失わせてしまうところだったかもしれない。

でもここで精華の選手達が魅せてくれていた魅力的なサッカーを目の当たりにして、僕らジュニア年代の指導者が急いでしまうことの愚かさを改めて思い出したし、自戒し直せたし、新たなアイデアやモチベーション、これからのワクワク感をも、持つことができた。

やっぱり魅力を追求し、選手それぞれにとっての愛せる居場所になるようなクラブとサッカーでなきゃね。

サッカーには一切触れない三日間にするはずだったけれど、越智さんに呼ばれて行った伊勢フットボールヴィレッジにて、大切なことをまた一段と自身に言い聞かすことができた。
行って良かった。
越智さん、牡蠣やサザエご馳走さまでした。この後に行った、二見浦の夫婦岩も綺麗だった!

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結局、自分一人だけではリセットできないことを知る。誰かがリセットボタンを押してくれる。それはきっと神様よりも、身近にいる存在なのだろう。
押してもらうだけではなく、自分もその「ボタンを押す誰か」になれるように、今年はがんばろう。

チームメイト同士でも、そんな関係性がつくれたらいいだろうな。

そんな三日間。行けて本当に良かったです。お参りだけでなく、赤福も食べたし伊勢うどんも食べたしおはらい町もおかげ横丁も存分に楽しんできました。あそこカオスやで。

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伊勢神宮、毎年行こうー


伊勢神宮・外宮の中にある「せんぐう館」の中に、次のような文章があった。

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未来へ
神宮式年遷宮は、持統天皇の御代から今も継続されています。
繰り返すことによって、限りあるものを永遠なものにする

進化の一方で伝統を守る。
途切れずに続くことの尊さ。いつも古くて新しい、それが神宮の姿

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神宮式年遷宮 - Wikipedia

神宮式年遷宮は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)である。神宮では、原則として20年ごとに、内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)の二つの正宮の正殿、14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷す。このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎のほか、装束・神宝、宇治橋なども造り替えられる」
wikipedia 本文より)

 つまり神宮式年遷宮とは、持統天皇の代から20年ごとにずっと行われている伊勢神宮の伝統的行事で、神宮内の社殿を造り替えることなのだという。でもそれはすぐに終わるわけではなく、全ての工程が終了するまでには何年もかかるらしい。で、終わった頃には次の式年遷宮の準備をし出すのだという。

つまり自身を新しくしていく作業を、伊勢神宮は常にしているわけだ。リセットという言葉をここでも使うとするならば、いろんな人が紡いできたものを守りながら、いろんな人たちの力で常にリセットを繰り返していく、進化的な存在。

歴史や伝統を守り大切にするだけではなく、新たに生まれ変わっていくことを続けている。進化の一方で伝統を守り、伝統を守る一方で、進化を図る。その上で、全ての人を受け入れる。この姿って潔いし、カッコいいよね。

自分もそうありたい。
さぁ新年度。いろいろ頑張ります。

 

伊勢神宮の調和に、繁栄と平和の未来を創るという我々の願いが映し出されますように。
(カナダ首相、ジャスティン・トルドー

音楽もスポーツも、喜ぶためにやってるんだぜ

喜びを表現するための音楽、スポーツ、サッカー。
今回はそんなお話。

 


HOTEI (布袋寅泰) JUSTY ~ NO NEW YORK (LIVE) DRUMS 高橋まこと

 

これは2012年2月、さいたまスーパーアリーナで行われた布袋寅泰デビュー30周年記念Liveの映像。

中学生の頃からのBOØWYフリークである僕も、もちろんこのLiveに参戦していた。

そしてこのLiveのアンコール時、スペシャルゲストとして登場したのが、BOØWY時代のドラムスであり、ファンの皆から「まこっちゃん」と呼ばれて愛された 高橋まこと 氏だった。(以下、愛を込めてまこっちゃんと呼ぶ)

 

24年ぶりの共演。BOØWY時代の名曲「Justy」と「No.NY」を演奏したふたりが見せた本当に楽しそうな顏。ただ楽しいだけでなく、懐かしさ、信頼感、安心感、一緒にステージに立つ喜びと、そして僕らには決してわからないであろう、ふたりの間にだけ流れる感情と。

それら全てが織り混ざってこその、極上の楽しさ。ふたりのこの楽しそうな顏こそがまさに音楽、音を楽しんでる顏じゃないかって、観ていて自然に涙が出てきてしまった。

 

No.NYの間奏時、まこっちゃんが今にも泣き出しそうな顔で、でも楽しそうに叩いてる。そして後ろはまこっちゃんに任せて、花道を思いっきり駆けていく布袋さん。一瞬、BOØWYが帰ってきた。

 

観客のみんなも、幸せそうな顔で一緒に歌ってる。(もちろん僕も)

 

本来、楽しむってこういうことなんだろう。

音楽もスポーツも同じ。喜ぶためにやってる。喜びを味わい、自分を表現するためにやってる。

こんな顔でサッカーをしてほしい。子供達が自然にこんな顔でサッカーしてくれるような、そんな環境をつくらないといけない。

今じゃなくても、彼ら彼女が数年後か数十年後かに再会した時、自然にこんな顔で楽しそうにボールを蹴ってくれるように。

 

だからこその、今が大切なんだよね。

 


BOOWY LAST GIGS NO NEW YORK (2回目)

 

 

触らないドリブル 〜 久保裕也の凄さ


KAA Gent Kubo 久保裕也スーパーゴール4人抜きゴール!KAAヘント対KVメヘレン

 

先日、ベルギーリーグで久保裕也が魅せた4人抜きゴール。このゴールは日本人選手があげたゴールの中では、近年稀にみるスーパーゴールだと思う。

では、このゴールのどこがどう凄いのか。

 

ドリブルって「ボールに触る」技術だと思いがちだけど、ボールに触らないでいることのほうが、相手に奪われにくい。
でも、触っていなくてもボールは自分が持ってる。これが、本当に巧い持ち方。持ちながら(ボールの一番そばにいながら)運ぶだけ。
ドリブルってそういうもの。

 

サッカーはミスが付きものなスポーツ。
丸いボールがあるからミスが起こるし、しかもそれを足で扱うからミスが起きやすいし、余計に触るから、ミスの可能性が高まる。

 

このゴールの久保を見てみると
まず、パスを受ける時にボールに触らず前を向き、相手を一人置き去りにして、タン、タン、タンの3タッチでただボールを前に持ち出し一緒に走るだけで、二人を剥がしてる。
そして4タッチ目で方向を変え後ろから追いすがる敵のコースに入り、三人に囲まれながらボールを運んでいくのだけれど、囲まれたこの時、久保は一切ボールに触ってない。ただボールを自分の懐に入れて、触らずに一緒に進んでるだけ。


周りには3人の敵が密集してきているのに、久保はまだボールに触らない。シザースを入れ体を揺らしながら、まだボールに触らない。

触らない。でも、ボールは俺が持ってる。ボールは俺の支配下にある。この感覚。これが最強の「持ってる」ってこと。

 

つまり「触っていないけど、敵よりも必ず自分が先にボールに触れる場所」に自分がいるだけ。この状態でボールを持てば、敵は飛び込めないよね。

で、最後のペナ内に侵入する時、急にダブルタッチをかまして相手をやっつけ、下手な選手ならここで勢いに乗りすぎてボールが流れがちだけど、でもまだ久保のそばにはボールがある。いや、ボールの一番そばに、久保がいただけ。

だからこそ、冷静に右足でファーサイドに流し込むシュートも打てた。
受ける→剥がす→運ぶ→やっつける→放つ この流れ、完璧すぎてメシが三杯食える。

 

結局40メートルをぶっこぬいて最後はダブルタッチも混ぜたくせに、シュートまで合わせても、計8回しかボールに触ってない。

 

敵の様子と動きを完全に見切ったスーパーゴール。これを可能にする持ち方。


うちの子達がよくやる「内足で持つ」ことも、これに近い感覚。

触らないから、ボールに気を取られない。敵の様子を最後まで伺えるし、動きを見切れる。
触らないから、触りたい時に先に触れる。

これが最強の持ち方。
この感覚、この持ち方を身につけることで、視野も変わるし頭の中も変わるし、つまり判断の質が上がるし、つまりプレーが変わる。

 

ボールに縛られずに、ボールから自由になれるってこういうこと。
それを実戦の場で狡猾にやってのけた久保くんは、かなり凄いヤツだと思うのだ。