Daisuke Kubota 〜 Neutral football

Footballで社会をつなぐ。現実の殻を破る。日常を笑い飛ばそう

聖和の流儀

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カンゼン社から出版された『 聖和の流儀 』を献本して頂きました。Y編集長、ありがとうございます。

興味深く読ませて頂きました。せっかくなので感想書きます。 

 

聖和を語る上でどうしても外せないのが、2016年1月に行われた全国高校サッカー選手権の1回戦、野洲高校との対戦でしょう。

あの試合、三ツ沢球技場はスタンドから人が溢れ出すほどの超満員。もちろん自分もその場にいたけれど、スタンド全体が、本当に異様な熱気に包まれていたんですよね。

試合前は、一体これからどんな試合が観られるのだろう、という高揚感が溢れていて

試合中は、聖和と野洲、両チーム選手達の一挙手一投足を見逃せない、という釘付け感がすごかった。

実際、本書の中で加見監督も書いている通り、高校サッカーの試合ではブラスバンドやチアガールを交えた応援団の声が大きく行き交う中での試合が普通だけれど、この試合だけは、試合中、スタンドがシーンと静まり返っていることが多かった。

それだけ、観客は両チームの個人技と、そこに見える生き様、こだわりに引き込まれ、釘付けにされていたわけです。

この試合を観た後の高揚感を抑えきれなくて、当時、一心不乱にブログも書きました。参考までに、宜しければ読んでみて下さい。

この試合についての記述も、本書の中では詳しく書かれてます。僕は自分の勝手な見方でこの試合についてのブログを書いたけれど、当事者にしかわからないことが当然あるわけで、聖和と野洲の魅力的な攻防を観て感銘を受けた人は、この試合について書かれた章だけでも、この本を読む価値はあるんじゃないかな。

 

さて、聖和といえばどうしても、その独特なスタイルが故に、拒否反応を示す人も多いですよね。

あんなのサッカーじゃない、サーカスだ、とか

ドリブルだけでは勝てない、とか

周りが全然動いていない、とかとか…

サッカーってグローバルなスポーツですよ。スポーツという存在を超えて、世界中の人が共有し熱狂し、愛する文化。つまり様々な人種、価値観、考えに基づいて世界中の人が接しているもの。

つまり自分との違いを認め、様々な価値観を受け入れなければ、それはサッカーの持つ特性や素晴らしさを否定していることと変わらないでしょう。

このように多様性を持ち合わせない人たちが日本のサッカー界に多く存在することを僕は常々とても残念に思ってる。

つい最近でも、あの野洲高との試合動画がツイートされて、それを「周りが全然動いてないww」と揶揄したリプライを載せている「サッカー関係者」がいた。他にも同様なものがいくつか。

つくづく、残念だなぁと思う。

それに対しての僕のツイート

↓↓

 

上記のブログ内にも書いたけれど、聖和や野洲くらいになれば、もうあれは「拘り」という言葉だけでは済ませられない、もはや生き方のレベル。人の生き方や価値観を揶揄したり否定するようなことは、誰にも出来ない。このことを履き違え、正しさを押し付ける人たちが、いかに多いことか。

… と、全く関係ない部外者の僕が勝手につい荒ぶってしまうのだけれど、この点についても、本書の中で加見監督が冷静に言及されてます。

「あらゆる方向性を持つ指導者が存在するのだから、ショートパスをつなぐサッカーやロングボールを蹴るサッカーを否定しているわけではない。

その指導者の数だけ目指すサッカーがあって良い。
サッカーは様々な形があって良い。

様々なサッカーがある中で、私たちの特長はドリブルであり、個の技術に注目しながらサッカーを磨き上げようとしているわけで、私たちのようなチームがあっても良いのではないか。

静岡学園野洲高、久御山高、聖和学園など、様々な高校が個を大事にしようとしているが、それぞれが違った考えを持っている。そのほうがサッカーにそれぞれのオリジナリティーが表現されるし、だからこそ違いがあって良い」

(本書内より抜粋)

 

こういうアプローチ、独自性があってもいいんじゃない? という人と、
こうでなければいけない!という人の違い… でしょうか。

このゆとりの差は、必ずや大きなバタフライ効果となって、選手たちにも伝わっていくんじゃないか。

それにもリンクするけれど、本書の中に何回も出てくる「ゆるさ」

加見監督が自身のことを「ゆるい性格」と言っているように、逆にそのゆるさを活かして、選手たちには自由な雰囲気のもとにサッカーを楽しみながら打ち込んでもらって、そこから自然に出てくる自由で面白い発想を大切にしたいとのこと。勝手に上手くなる環境をつくりたい、と。

 

押し付ける指導や上意下達で全て決められるようなことはなく、あくまでも選手の自主性、主体性に重きを置いているからこそ、あのスタイルが持続そして発展できているのだろう。

絶対にドリブルしかするな!こういう持ち方をしろ!っていう押し付けは、ある意味地獄だもんね 笑

 

そしてこれは決して放任主義ではなく、むしろ厳しい環境なのだと。選手たちが自分で考えなければいけないのだから。

 

「グランドでは大いに遊んでもらって結構。
気持ちが前向きになって楽しいと、子どもたちは良い顔をする。目が輝いている時のほうが色々なチャレンジをするし、だからこそ、色々な発想が出てくる。

恐怖や権力で押さえつけて顔色を伺うようなサッカーをやり始めてしまったら、選手たちはミスをしないことしか考えなくなる。
選手が指導者に怒られないことをまず選択している状況では、面白い発想などは絶対に出てこない。

そうした考えに行き着いたのは、聖和学園女子サッカー部総監督の国井先生のおかげ。
国井先生が実践する子どもたちの創造性を引き出す指導に、大きな影響を受けた。」

(本書内より抜粋)

 

ドリブルに特化したスタイルに行き着いた経緯や、大きな影響を受けたという聖和学園女子サッカー部の国井先生、エスポルチ藤沢の広山さんの話も出てきます。

読む人それぞれに聖和スタイルへの賛否はあるでしょうが、それはひとまず置いておいて、サッカーに携わる指導者の方々にとっては、読んでみる価値のある一冊だと思うな。

 

守備の原理原則を打ち破れるドリブラーは強い。
相手の戦術を上回れる存在。

サッカーとは本来、そういう選手こそが怖い存在になるのでは?

(加見成司)

 

ちゃんとさせたがりな大人達

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ジュニアサッカーの現場では、ちゃんとさせたがり 、な大人達によく遭遇する。

例えば試合前のメンバーチェックで、うちはユニフォームの『シャツ出し』をいつも注意される。熱中症対策のためにもシャツ入れはもうしなくていいルールなのだが、未だに多くの試合会場で「シャツ入れて」と言われる。もういい加減やめてほしい。
うちは背番号の下にクラブのキャッチフレーズ入れてるし、いい迷惑だ。

「子供にはマナーを教えないといけない」という人が必ずいるのだけれど、そのマナーはその方の嗜好なだけであって、それを押し付けるのは甚だ間違っていると、声を大にして言いたい。逆説的に言えば、そういう人は子供達に関わる大人としてのマナーが出来てない人だ。何が大切か、何を最優先すべきなのかを、根本的に理解していないんだから。

爪のチェックだって本当はしなくていいルールなのに、まだ「ハイ、爪見せて」と偉そうに言う人がいっぱいいる。

先日の試合でも、副審の人がうちの子達の爪を嬉しそうに念入りにチェックしたあげく
「うーん、長いな」「爪、長い子が3人もいるので切らせて下さい」とか言ってきたので
「もう爪チェックはしなくていいはずですけど」って言って断わったら、その時はアッサリ引き下がってくれたので良かったけれど。

ちゃんとさせたがる前に、大人ならもっとルールを勉強するべきだと思います。
子供に対しては、ルールだのマナーだのとうるさいくせに。

ちゃんとさせたがるから、試合でもピッピピッピと笛を吹きたがる。あわよくば吹いてやろう…、と、ピッチ上の警官になりたがって試合の邪魔をしてしまう人が、試合の邪魔だけでなく、ジュニアサッカーのレベルを上げる邪魔までしている。

良い指導者かどうかは、その人が審判をしている時の姿でわかります。
子供達を自分のペースで管理したい人なのか、子供達の邪魔をせず、自分は黒子に徹しようと努力する人なのか。

あわよくば粗を探してそこを突いてやろう…という気持ちが、その振る舞いや表情にそのまま出ている人、たくさんいるよね。

そういう人が、子供達からサッカー本来の楽しみを奪っているんです。

サッカーの現場だけでもかなりの頻度でこういう大人に出会うわけだから、学校でも社会でも、こうした「ちゃんとさせたがる」大人達が「良い子にしよう」「俺好みの良い子にさせよう」と、子供達の領域に踏み入って邪魔をしていることは想像に容易い。

子供達のことが好きなのか?それとも、そんな自分が好きなのか。

いい加減、気づいてほしいな。

再掲・このコラムを始めた理由

自分は久保田大介といいます。世田谷生まれの世田谷育ち、でも18年前に何のゆかりもない横浜でJrサッカークラブ・SUERTE juniors 横浜(現在はスエルテ横浜)を立ち上げ、代表とヘッドコーチを兼任しながら、今に至ります。

スエルテ横浜・オフィシャルブログ

We can be adlibler

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また、スエルテ横浜の代表という立場とは別に、神奈川県藤沢市の私立湘南学園中学校サッカー部、府中市の府中新町FCでも、コーチをしています。

このように、僕はサッカーコーチを生業としている人間です。

これまで、スエルテのBlog(http://suertedream.pokebras.jp)や、フットボールエッジ( http://www.footballedge.jp )内で書かせてもらっているコラムにて自身の想いや考えを発信してきましたが、だんだん、それらとは少し毛色の違う発信媒体を持ちたいという想いが強くなってきました。

僕はサッカーを語るだけの者ではいたくなく
サッカーをサッカーだけでしか語れない者でもありたくない。

自由を獲得し自由を謳歌し、自由とはどういうものかを子ども達が自ら考えて見つけるためには、サッカーが最強のツールだと僕は信じてます。
他者への承認、尊重、優しさ、いたわり。そして他者との連帯、繋がり。つまり多様性を信じ、守り、貫くこと。サッカーならば、これをより身近にリアリティーを持って体感し、意味を知り、得られるものなのだと。

社会の中で、サッカーをどうリンクさせていくか。そこに、僕は今とても興味がある。サッカーコーチとしての役割は子ども達を上手くさせることでもチームを強くさせることでもなくて(もちろんそれらの要素も少しは必要かもしれないけれど)

自由とは何か、優しさとは何か、人としての本当の強さとはどういうものかをサッカーを通じて子ども達に伝えること。伝えるだけでなくそれを子ども達が自ら感じ取り、学ぶ。そして彼らが大人になった時、他者、特に社会の中の弱者といわれる人達に対し、実際に行動を起こし救っていけるリベラルな人材を生み出すこと。

自分がサッカーコーチとして生きていく本当の目的はこれなのかもしれない。最近、そう強く思い始めてるのです。


それを自身の心の中だけでなく文字にも綴り、発信していきたい。共感してもらえるのならばそれは嬉しいことだし、アウトプットすることは、実はインプット。文字に表し発信しそのリアクションを知ることは、自分の中でもう一度整理をするにはとても良い機会になる。

 

育成 x リベラル x 連帯 x 笑い x 多様性 x ジャーナリズム・音楽

フットボールで、現実の殻を破る

フットボールで、社会の閉塞感を撃ち抜く

フットボールで、連帯の鎖を繋いでいく
フットボールで、あらゆる垣根を越える
フットボールで、笑いと希望をシェアする

 

社会に対し、サッカーコーチの立場から何ができるかを考え、それを発信したい。

言わずが花、自らの考えを表明しないことが美徳のような暗黙の了解、空気を読む、出る杭は打たれるといった日本の風潮。実際、ジャーナリズム精神を持つサッカージャーナリストやサッカー媒体を日本ではほとんど見かけない(けれど、木村元彦さんは尊敬しています)
ならば僕がここで、その一端を担いたい。

 

サッカーのことだけじゃない。日本では、政治や社会のことに対して、芸能人やスポーツ関係の人が自らの意見や立場を明らかにすることが何故かあまり良しとされない。CMは降板させられ、干され、お前は黙ってろ、日本が嫌なら出て行けと批判される。

実際、周りにもそういう人がたくさんいる。何も意見を持っていないのか、意見はあるけどそれをあえて示さないのが美徳だと思ってるのか。そして人を嘲笑する。どちらにしろ、それじゃダメだと思う。

 

サッカーだけ一生懸命やってればいいんだろうか。僕はそうは思わない。

 

嘲笑したいならすればいいし、皮肉りたいならすればいいし、斜め上から見てる自分が好きなら、ずっとそうしてればいい。

何も意見を示さない人達や、常に強い側や大勢の側にいて安心していたい人達のような、無機質な存在だけにはなりたくない。寄らば大樹の陰、虎の威を借る狐。勝ち馬に乗っていたいとか、ダサいんだよそういうの。

僕は面白おかしく生きたい。そして人のために生きたい。せっかくこの世に生まれてきたならば、自分が生きたことの証明を残したい。富や名誉や実績ではなく、誰かの心の中に残りたい。人と人の間に立って、少しでも、希望をシェアできるゆとりのある社会をつくりたい。その可能性を、広げていきたい。

頭で考えることより、心で思うことが大事。心の底から自然に湧き上がってくるのが本当の想いになる。僕は、自分のその想いに対し忠実に生きたい。

 

と、かしこまった堅苦しいことをツラツラ書いたけれど、出来るだけ面白おかしく、批判だけじゃなくユーモア精神も忘れずに、自分のペースでこれからやっていきたいと思ってます。

 

宜しければこちらもどうぞ

↓↓

 

 

サッカーコーチがギターを練習して発見したこと

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ギターを練習していて発見したこと。

なかなか弾けない難しい曲があった場合、その曲が弾けるようになるまで練習する…のではなくて、さっさとそれは諦めて別の曲に挑戦する。
で、その新たな曲が弾けるようになったり、すでに弾けるようになっている得意な曲をさらにうまく弾けるように練習して自信を深めると…

あの時に弾けなくて諦めていた曲を何日かぶりに弾いてみると…
あら不思議、練習もしてなかったのに、あっさり弾けるようになってしまっていることがよくある。これは僕自身で体感しているのだから、間違いない。

何かが出来るようになると、付随して他の何かも出来るようになってしまう法則。
そしてもちろんこれは、サッカーでも同じことが言える。子ども達のこういう「会得のプロセス」を、僕は今までに何度も何度も目の当たりにしてる。

自信をつけたからとか、身体が(ギターで言えば指が)動くようになったから…などとは別のロジックで、
この「会得のメカニズム」は証明できるんじゃないだろうか。たぶん。
誰か教えてえらい人。

最近で言えば、スエルテ横浜の某選手。
↓↓
・球際での強さを身につけたことから、一気に糸がほどけて
・ポジショニングの妙を見つけ
・オフザボールの質(ポジショニング、動き出すタイミング)が格段に上がり
・良いタイミングと良い状態でパスを受けれる、ボールを拾えるようになり、、
↓↓
もともとポテンシャルが高かったものの、それをいまいち発揮できずにいた能力が、最近ではいかんなく発揮できるようになってきた。
↓↓
・さらに自信をつける
・サッカーが楽しくなってくる
・もっと上手くなりたい
↓↓
彼は週に一回しか練習に来ないスケジュールなのだが、最近「練習日を増やしたい」と親御さんに言っているらしい。

何か一つ出来るようになっただけで、こうなる。

「あれもこれも!それ出来るまで次に進んじゃダメ」という練習のやり方がいかに非効率で、いかに無駄で、いかに意味ないか。
僕のギターと子ども達が、完璧に教えてくれている。

サッカーキッズ達へ
とりあえず、まずは何か一つだけ出来るようなればいい。
そこからは、糸がほどけるように世界が開けていくからね。

 

写真家 チェ・ゲバラが見た世界

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『 写真家 チェ・ゲバラが見た世界 』に行ってきた。

 

che-guevara.jp

僕の中でゲバラは「自由な人」の象徴。ゲバラこそ、自らの由縁に素直に生きた人。


キューバ革命に参加する前に旅した南米の写真や、キューバ革命を成功させカストロからキューバ国籍を与えられ、政府の要人になった後に世界中を外遊した際の写真もたくさん。
そして家族の写真や、ゲバラ自身の写真も。

キューバを追われた後のゲバラの顔は、どこか、この後の自分の運命を悟っているようで、穏やかにも見えるし、悲しそうにも見えた。

 

日本にも来て、原爆を落とされてから14年が経った広島にも訪れたゲバラ
その時の言葉
「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」


一旦スパイクを置いて、俺も世界中を旅したい。

 

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民主主義思考とパスの意味

先日初めて会った池川君が、教員生活で一度も教科書を使わなかったという樋渡直哉先生の「平凡な自由」という本をプレゼントしてくれたことを、前の記事で書きました。

 

neutralfootball.hatenablog.com

 

それを彼が樋渡先生にも知らせてくれたらしい。
そしてそれに対する返信が先生から届いたそうで、僕に教えてくれた。池川くんありがとう。

「久保田さんはおもしろそうな人だね。女の子に指導を任せて石拾いに専念する姿は映画のシーンのようだ」(樋渡先生より)

園児のお姉ちゃんに指導を任せた話を、Facebookかブログで見てくれたのだろうか。

suertedream.pokebras.jp

自分はチームを強くするとか選手を上手くすることよりも、彼らと過ごす日常の中で、たまに起こるふとしたイレギュラーな出来事に楽しさを感じて、その時間を共有できることに嬉しさを感じてしまうので、あの出来事を「映画のよう」と評して下さるところが、何だかとても嬉しくて。そんな風に言ってくれる人は、なかなかいない。

「サッカー関係者に民主主義的思考の人が多いのは、パスという動作のもたらすところだろうか。独占しない、パスした先の仲間を信頼しなければならない。」(樋渡先生より)

パスと民主主義的思考の考察。ここで言われているパスの意味(意義)を、僕は選手達にどう伝えるかというところにいつも重点を置いているので、何だか心が軽くなった気が。

先生はサッカー関係者に民主主義的思考の人が多い…と言ってくれている。
確かに自分の周りにはそういう人が多い。多様性を当たり前のように認め、サッカーを活かしてそれを伝え、選手達の個性や自然体を、最大限に生かそうとしている人。

正しさよりも楽しさ。整然よりも逸脱。少数派こそ希望、という視点。
この最低限のラインを、僕も、一生守り続けたい。

でも
そんな思考や視点からは正反対の人が、最近のサッカー関係者に多いのも事実。
全体主義を愛し、それを選手にも乱用し、多様性も逸脱も許さない人。
歴史を改竄しようとし、中国や韓国を蔑視し卑下する優生思想の人。そんな人が、自分の周りにも、SNS界隈にも最近増えている。

そういう人が、パスに込められる意味を理解できるのだろうか。
そういう人が、サッカーの本質を理解できるのだろうか。
そういう人が、子ども達にサッカーを指導できるのだろうか。

そういう人がサッカー関係者の中に最近とっても多い、という矛盾とも戦っていかなければならないのだと、最近特に、強く感じている。

樋渡先生、ありがとうございました。

 

 

平凡な自由

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『 楽しさに満ちていた学校が急に色あせて見え始める。
それでいいんだ。そのうち担任がくだらん凡人に見えてくる。それはもっとすばらしいことだ。君たちの人生から学校で習ったことを全部取り去ると、そこに残るのが君たちの人格と教養だ。君はいま、それを見に出かけるのだ 』
(平凡な自由)

先日、有坂さんの教え子、池川くんという青年に会った。イマイジーニョも呼んで3人で渋谷で飲みまくったけど、時間があっという間に過ぎるほどに楽しい時間だった。

高校の卒業式、答辞の中で教育委員会にメンチを切り、コスタリカなどを遊学して、沖縄の運動にも参加し行っているという。
実際会ってみたらやっぱり、良い意味で心が軽くてニュートラル、リアルリベラルなカッコいい男だった。

その日
「この本こそ、久保田さんに読んでほしいと思って」と池川くんがプレゼントしてくれたのがこの本。

「平凡な自由」樋渡直哉

教員生活で一度も教科書を使わなかったという、樋渡直哉先生の著作。

今までずっとうまく言葉にできなかった自分の中の感性や矛盾を、言語化してくれている本に初めて出会った。
もっと早くこの本に出会っていればよかった、、と思わずにはいられない。

昔を思い出せば、樋渡先生ほどではないが、僕らの時代にはこんな先生はたくさんいた。今の日本の教育現場ではきっと変人扱いされ、淘汰されてしまうだろう。

いつも必ず、僕ら生徒の側に立ってくれる人。
校則よりも、管理職の目よりも、指導要領よりも教育委員会よりも、まず僕らの側に立って、いざという時は必ず守ってくれた先生がいた。
頭髪制限などは憲法違反。こんな校則守る必要ない、と言ってくれた先生もいた。

この夏の間、この本を何回も読み直しながら、本当の自由とはどういうものかをもう一度、自分の中で見つめ返そうと思う。

これ以上、この本の内容や感想をうまく書くボキャブラリーが僕にはないので、いくつか抜粋して紹介します。

池川くん、ありがとう!また近いうち必ず。

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このクラスでも僕は、信念に従ってリーダーづくりも班づくりもしなかった。上からのリーダー養成にはなぜか本能的に身の毛がよだつのだ。

とりたてて誰かが目立つわけではないが、皆が一人ひとり際立っている。制服が邪魔だ。
僕はこんな集団が気に入っている。監督のいないラグビー神戸製鋼、指揮者のいないオルフェウス管弦楽団、担任のいない学級。

学級がホームルームと呼ばれるのなら、そこは誰もが安心してくつろげる場であればよい。授業でたとえ神経が切れるほど緊張し疲れようと、自治活動でうんざりするまで担当教師と言い争おうと、クラブで人間関係が崩れ泣きたくなろうと、学級だけはホッとして笑える場にしておきたい。

ロングホームルームはただ一つ生徒が自治的に自由に使える時間だ。だから教師抜きで、できれば追い出して、悪い相談をしてもらいたい。