Daisuke Kubota 〜 Neutral football

フットボールと社会をつなぐ。現実の殻を破る。

本能を探り起こす言葉があるのかもしれない

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以前、こんな記事を書きました。

この記事内でも書いたように、言葉選び一つの違いで、子ども達への伝わり方はまるで変わってきてしまう。

僕ら指導者、つまり「人に何かを伝える」立場にある者は、言葉選びが最も重要な要素ではないか。もちろんそれで失敗することのほうが、圧倒的に多いのだけれど。

 

最近の話をすれば

「奪いに行け」
と言ってもなかなか行けず、相手との間合いを詰められず
もしくは
相手の状態も見ずにただただ突っ込んであっさりかわされてしまうケースが多いのだけど

でも
「邪魔しに行け」
って言うとなぜか途端に出足が早くなり、相手が嫌がる間合いまで激しく詰めて、なおかつ、簡単に抜かれない最強の「邪魔な位置」に行けて、結果、ほぼ奪える。

「奪う」ってことはボールを奪うことしか目的がないけど
「邪魔する」ってことは、目的が奪うだけにとどまらず、多岐に渡ってくる。
自分でサジ加減を図れるからこそしなやかに動けるし、自分だけの間合いを見つけられるのかなって。

これはひょっとしたら、眠っていた野生動物の本能の部分なのではないか。
そんな動物的本能を探り起こす言葉がきっとあるのかもしれない。最近そう実感しているのです。

あと最近よく使うのは「遊び半分」てワード。
遊び半分。スポ根な人からしてみたらこの言葉はネガティブな響きに感じる人も多いかもしれない。「遊び半分でやってんじゃねぇよ!」的な。

けれど、サッカーって元々は遊びなはず。もちろん必死にやらなきゃいけないところもあるからこそ、この「遊び半分」て言葉は、サッカーやるには実に適した、いい言葉だなって思ってます。

遊び半分でやれ。ダラけ半分やふざけ半分では困るけど、遊び半分なら最強だぜって。

あ…ちょっと待てよ、半分じゃなく3分の1くらいにしとくか。
【遊び、冷静、必死】常にこの3つを自分の中で持ち合わせながらやろうよって言うと、途端にプレーが変わります。

必死さ全開!前へ前へ!という感じでゆとりのカケラもなかったような子が途端に止まったり、歩きながらプレーをし出したり…
あと不思議なことに、味方と相手の動きをすごく見極めるようになって、プレーに幅が出てくる。え、そこ観えてたの!?というパスも増えてきたり。

そう、遊び、必死、冷静 というワードを手に入れると、感性の豊かな子は味方の「遊び」を感じ取り、その遊びに協力して相手の裏を取ったり、わざと寄っていってトリックに参加したり、ノールックパスの受け手になり始めたり。
遊びは一人じゃつまらない、みんなで遊ぼうぜ、っていうチームワークが生まれてくる。

これら、スエルテの子達で実証済みです。

 

言葉の威力、魔力、そして怖さも。
僕らは、子ども達に教わっているのだ。

 

最後に再び、デビッド・ボウイの言葉を。

表現主義とは、人生というものを具体的な形ではなく雰囲気で映し出すアートフォームなんだ。これこそ自分の進む道だと思ったね」

 

再び、今に見とけよの積み重ね

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『 今に見とけよ、の積み重ね 』

2014年6月、ブラジルW杯コロンビア戦に敗れ予選敗退が決まった後に書いたブログです。
来年のロシアW杯の初戦でまたコロンビアと当たるという、神様のイタズラな巡り合わせに、思わず再掲。

あの時に思った「今に見とけよ」は、いちファンとしてではなく、日本に生きるサッカー人としてのもの。上記のブログ内にもあるように、過去に味わい続けた「今に見とけよ」の想いが積み重なってあのブラジルまで辿り着き、そこでまた新たな現実を突きつけられたのは決してザックジャパンだけでなく、僕ら日本中のサッカー人すべて。
この国のサッカーの歴史、文化、土壌、現状、現実…それらすべての代表として、彼らが戦っていたわけだから。

あの時は、初戦のコートジボワール戦がせっかく日本時間で日曜の午前中に行われるというのに、その時間に子ども達の試合や練習を組んでしまう大人達がたくさんいて。
いろんな方に協力をしてもらいながら「子ども達にリアルタイムで観せよう」キャンペーンを大々的に張ったら、全国津々浦々、各方面から罵倒、炎上、嘲笑、冷笑の嵐。

当時、大反響をもらったブログ ↓↓

suertedream.pokebras.jp


いいね!が4855人…汗

この時は、関西の某連盟会長からは「オマエ」呼ばわりで罵倒もされたっけ。
あぁ、所詮この程度のサッカー文化の国が勝てるわけないよねぇ、という諦めの気持ちも、どこかにあったりした。

あれから3年半。僕らがどれだけ進みどれだけ差を詰めたのか。もしかしたらさらに差を広げられてしまっているかもしれないけれど。
ハリルさん率いる日本代表は
「今に見とけよ」の想いを持ち続けてそれぞれの現場で生き続けた、僕らの代表でもあるのだ。

だから、応援するのは当たり前なんです。何度でも繰り返すけれど
だって僕らの代表なんだから。

 

君たちはどう生きるか

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吉野源三郎 著『君たちはどう生きるか 』を読みました。

 

君たちはどう生きるか - Wikipedia

 

80年前に書かれた、歴史的名著。ただ恥ずかしながら自分がこの作品を知ったのは、ジブリ宮崎駿監督が引退を撤回し、この作品をモチーフにした次回作をつくる、と宣言してから。
タイトルも、そのまま『君たちはどう生きるか』にするらしい。

 

この胸を直接ズシリと突いてくる刺激的なタイトルにも触発されて、さっそく購入。読み始めたのは、大阪へと向かう飛行機の中だった。

 

この作品の主人公・コペル君と、父親がわりの「叔父さん」の物語。

コペル君が友人たちと過ごす日常の中で起こる出来事、そして、叔父さんがコペル君に宛ててノートに書き記した「ものの見方、考え方、社会の仕組み、その中での、自分とは何か」を軸に物語は進む。

天動説から地動説へ。自分は社会の分子に過ぎないことを知る。これは、大人になっていくための大事な思考変化なんですね。

僕はこれからジュニアユースを始める。それを、自分で勝手に師と仰ぐ方に伝えに行くために大阪へ向かった。その飛行機の中で偶然読み始めた本の主人公・コペル君は、中1の設定。
僕がこれから出会うのも、中1の子達。この巡り合わせにまずグッときて

コペル君にたくさんのことを教える叔父さんは、決して正解を教えるのではなく、あくまでも見方、考え方を教えてくれる。僕にとってのあの方のように、だ。

僕はこれから、中学生となり夢を持って会いに来てくれるまだ見ぬコペル君たちにとっての、新たな「叔父さん」にならなくてはいけない。

そう考えたら、この旅の始まりにこの本を読み始めたことの巡り合わせと運命にただただ胸がときめいて、飛行機の中で景色すら見る間もなく、一気に引き込まれて読み入ってしまった。

 「君たちはどう生きるか

自分がどう在りたいか。そこを突かれる作品です。
叔父さんから「明日わかるかもしれないし、一生わからないかもしれないけれど」と出された問題。コペル君は自分でその答えを見つけました。

そして最後、作者の吉野源三郎さんが僕らに問いかけます。「君たちは、どう生きるか」と。

自分はどう在りたいか。= どう生きるか。
僕は選手たちにとっての「叔父さん」になろうと決めたのだ。

 

最後に
物語の後半、心が壊れかけて病に伏すコペル君に対し、お母さんが自分の少女時代の話をするシーンがあるのけれど
コペル君がなぜ心を壊れかけさせているのか、直接聞かなくてもそれを察し、自身の体験を優しく話してくれるお母さんの愛情。ここは何回読んでも涙してしまう。

本当に、たくさんの人に読んでほしい一冊です。漫画版もいいけれど、できれば活字版で。

 

聖和の流儀

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カンゼン社から出版された『 聖和の流儀 』を献本して頂きました。Y編集長、ありがとうございます。

興味深く読ませて頂きました。せっかくなので感想書きます。 

 

聖和を語る上でどうしても外せないのが、2016年1月に行われた全国高校サッカー選手権の1回戦、野洲高校との対戦でしょう。

あの試合、三ツ沢球技場はスタンドから人が溢れ出すほどの超満員。もちろん自分もその場にいたけれど、スタンド全体が、本当に異様な熱気に包まれていたんですよね。

試合前は、一体これからどんな試合が観られるのだろう、という高揚感が溢れていて

試合中は、聖和と野洲、両チーム選手達の一挙手一投足を見逃せない、という釘付け感がすごかった。

実際、本書の中で加見監督も書いている通り、高校サッカーの試合ではブラスバンドやチアガールを交えた応援団の声が大きく行き交う中での試合が普通だけれど、この試合だけは、試合中、スタンドがシーンと静まり返っていることが多かった。

それだけ、観客は両チームの個人技と、そこに見える生き様、こだわりに引き込まれ、釘付けにされていたわけです。

この試合を観た後の高揚感を抑えきれなくて、当時、一心不乱にブログも書きました。参考までに、宜しければ読んでみて下さい。

この試合についての記述も、本書の中では詳しく書かれてます。僕は自分の勝手な見方でこの試合についてのブログを書いたけれど、当事者にしかわからないことが当然あるわけで、聖和と野洲の魅力的な攻防を観て感銘を受けた人は、この試合について書かれた章だけでも、この本を読む価値はあるんじゃないかな。

 

さて、聖和といえばどうしても、その独特なスタイルが故に、拒否反応を示す人も多いですよね。

あんなのサッカーじゃない、サーカスだ、とか

ドリブルだけでは勝てない、とか

周りが全然動いていない、とかとか…

サッカーってグローバルなスポーツですよ。スポーツという存在を超えて、世界中の人が共有し熱狂し、愛する文化。つまり様々な人種、価値観、考えに基づいて世界中の人が接しているもの。

つまり自分との違いを認め、様々な価値観を受け入れなければ、それはサッカーの持つ特性や素晴らしさを否定していることと変わらないでしょう。

このように多様性を持ち合わせない人たちが日本のサッカー界に多く存在することを僕は常々とても残念に思ってる。

つい最近でも、あの野洲高との試合動画がツイートされて、それを「周りが全然動いてないww」と揶揄したリプライを載せている「サッカー関係者」がいた。他にも同様なものがいくつか。

つくづく、残念だなぁと思う。

それに対しての僕のツイート

↓↓

 

上記のブログ内にも書いたけれど、聖和や野洲くらいになれば、もうあれは「拘り」という言葉だけでは済ませられない、もはや生き方のレベル。人の生き方や価値観を揶揄したり否定するようなことは、誰にも出来ない。このことを履き違え、正しさを押し付ける人たちが、いかに多いことか。

… と、全く関係ない部外者の僕が勝手につい荒ぶってしまうのだけれど、この点についても、本書の中で加見監督が冷静に言及されてます。

「あらゆる方向性を持つ指導者が存在するのだから、ショートパスをつなぐサッカーやロングボールを蹴るサッカーを否定しているわけではない。

その指導者の数だけ目指すサッカーがあって良い。
サッカーは様々な形があって良い。

様々なサッカーがある中で、私たちの特長はドリブルであり、個の技術に注目しながらサッカーを磨き上げようとしているわけで、私たちのようなチームがあっても良いのではないか。

静岡学園野洲高、久御山高、聖和学園など、様々な高校が個を大事にしようとしているが、それぞれが違った考えを持っている。そのほうがサッカーにそれぞれのオリジナリティーが表現されるし、だからこそ違いがあって良い」

(本書内より抜粋)

 

こういうアプローチ、独自性があってもいいんじゃない? という人と、
こうでなければいけない!という人の違い… でしょうか。

このゆとりの差は、必ずや大きなバタフライ効果となって、選手たちにも伝わっていくんじゃないか。

それにもリンクするけれど、本書の中に何回も出てくる「ゆるさ」

加見監督が自身のことを「ゆるい性格」と言っているように、逆にそのゆるさを活かして、選手たちには自由な雰囲気のもとにサッカーを楽しみながら打ち込んでもらって、そこから自然に出てくる自由で面白い発想を大切にしたいとのこと。勝手に上手くなる環境をつくりたい、と。

 

押し付ける指導や上意下達で全て決められるようなことはなく、あくまでも選手の自主性、主体性に重きを置いているからこそ、あのスタイルが持続そして発展できているのだろう。

絶対にドリブルしかするな!こういう持ち方をしろ!っていう押し付けは、ある意味地獄だもんね 笑

 

そしてこれは決して放任主義ではなく、むしろ厳しい環境なのだと。選手たちが自分で考えなければいけないのだから。

 

「グランドでは大いに遊んでもらって結構。
気持ちが前向きになって楽しいと、子どもたちは良い顔をする。目が輝いている時のほうが色々なチャレンジをするし、だからこそ、色々な発想が出てくる。

恐怖や権力で押さえつけて顔色を伺うようなサッカーをやり始めてしまったら、選手たちはミスをしないことしか考えなくなる。
選手が指導者に怒られないことをまず選択している状況では、面白い発想などは絶対に出てこない。

そうした考えに行き着いたのは、聖和学園女子サッカー部総監督の国井先生のおかげ。
国井先生が実践する子どもたちの創造性を引き出す指導に、大きな影響を受けた。」

(本書内より抜粋)

 

ドリブルに特化したスタイルに行き着いた経緯や、大きな影響を受けたという聖和学園女子サッカー部の国井先生、エスポルチ藤沢の広山さんの話も出てきます。

読む人それぞれに聖和スタイルへの賛否はあるでしょうが、それはひとまず置いておいて、サッカーに携わる指導者の方々にとっては、読んでみる価値のある一冊だと思うな。

 

守備の原理原則を打ち破れるドリブラーは強い。
相手の戦術を上回れる存在。

サッカーとは本来、そういう選手こそが怖い存在になるのでは?

(加見成司)

 

ちゃんとさせたがりな大人達

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ジュニアサッカーの現場では、ちゃんとさせたがり 、な大人達によく遭遇する。

例えば試合前のメンバーチェックで、うちはユニフォームの『シャツ出し』をいつも注意される。熱中症対策のためにもシャツ入れはもうしなくていいルールなのだが、未だに多くの試合会場で「シャツ入れて」と言われる。もういい加減やめてほしい。
うちは背番号の下にクラブのキャッチフレーズ入れてるし、いい迷惑だ。

「子供にはマナーを教えないといけない」という人が必ずいるのだけれど、そのマナーはその方の嗜好なだけであって、それを押し付けるのは甚だ間違っていると、声を大にして言いたい。逆説的に言えば、そういう人は子供達に関わる大人としてのマナーが出来てない人だ。何が大切か、何を最優先すべきなのかを、根本的に理解していないんだから。

爪のチェックだって本当はしなくていいルールなのに、まだ「ハイ、爪見せて」と偉そうに言う人がいっぱいいる。

先日の試合でも、副審の人がうちの子達の爪を嬉しそうに念入りにチェックしたあげく
「うーん、長いな」「爪、長い子が3人もいるので切らせて下さい」とか言ってきたので
「もう爪チェックはしなくていいはずですけど」って言って断わったら、その時はアッサリ引き下がってくれたので良かったけれど。

ちゃんとさせたがる前に、大人ならもっとルールを勉強するべきだと思います。
子供に対しては、ルールだのマナーだのとうるさいくせに。

ちゃんとさせたがるから、試合でもピッピピッピと笛を吹きたがる。あわよくば吹いてやろう…、と、ピッチ上の警官になりたがって試合の邪魔をしてしまう人が、試合の邪魔だけでなく、ジュニアサッカーのレベルを上げる邪魔までしている。

良い指導者かどうかは、その人が審判をしている時の姿でわかります。
子供達を自分のペースで管理したい人なのか、子供達の邪魔をせず、自分は黒子に徹しようと努力する人なのか。

あわよくば粗を探してそこを突いてやろう…という気持ちが、その振る舞いや表情にそのまま出ている人、たくさんいるよね。

そういう人が、子供達からサッカー本来の楽しみを奪っているんです。

サッカーの現場だけでもかなりの頻度でこういう大人に出会うわけだから、学校でも社会でも、こうした「ちゃんとさせたがる」大人達が「良い子にしよう」「俺好みの良い子にさせよう」と、子供達の領域に踏み入って邪魔をしていることは想像に容易い。

子供達のことが好きなのか?それとも、そんな自分が好きなのか。

いい加減、気づいてほしいな。

再掲・このコラムを始めた理由

自分は久保田大介といいます。世田谷生まれの世田谷育ち、でも18年前に何のゆかりもない横浜でJrサッカークラブ・SUERTE juniors 横浜(現在はスエルテ横浜)を立ち上げ、代表とヘッドコーチを兼任しながら、今に至ります。

スエルテ横浜・オフィシャルブログ

We can be adlibler

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また、スエルテ横浜の代表という立場とは別に、神奈川県藤沢市の私立湘南学園中学校サッカー部、府中市の府中新町FCでも、コーチをしています。

このように、僕はサッカーコーチを生業としている人間です。

これまで、スエルテのBlog(http://suertedream.pokebras.jp)や、フットボールエッジ( http://www.footballedge.jp )内で書かせてもらっているコラムにて自身の想いや考えを発信してきましたが、だんだん、それらとは少し毛色の違う発信媒体を持ちたいという想いが強くなってきました。

僕はサッカーを語るだけの者ではいたくなく
サッカーをサッカーだけでしか語れない者でもありたくない。

自由を獲得し自由を謳歌し、自由とはどういうものかを子ども達が自ら考えて見つけるためには、サッカーが最強のツールだと僕は信じてます。
他者への承認、尊重、優しさ、いたわり。そして他者との連帯、繋がり。つまり多様性を信じ、守り、貫くこと。サッカーならば、これをより身近にリアリティーを持って体感し、意味を知り、得られるものなのだと。

社会の中で、サッカーをどうリンクさせていくか。そこに、僕は今とても興味がある。サッカーコーチとしての役割は子ども達を上手くさせることでもチームを強くさせることでもなくて(もちろんそれらの要素も少しは必要かもしれないけれど)

自由とは何か、優しさとは何か、人としての本当の強さとはどういうものかをサッカーを通じて子ども達に伝えること。伝えるだけでなくそれを子ども達が自ら感じ取り、学ぶ。そして彼らが大人になった時、他者、特に社会の中の弱者といわれる人達に対し、実際に行動を起こし救っていけるリベラルな人材を生み出すこと。

自分がサッカーコーチとして生きていく本当の目的はこれなのかもしれない。最近、そう強く思い始めてるのです。


それを自身の心の中だけでなく文字にも綴り、発信していきたい。共感してもらえるのならばそれは嬉しいことだし、アウトプットすることは、実はインプット。文字に表し発信しそのリアクションを知ることは、自分の中でもう一度整理をするにはとても良い機会になる。

 

育成 x リベラル x 連帯 x 笑い x 多様性 x ジャーナリズム・音楽

フットボールで、現実の殻を破る

フットボールで、社会の閉塞感を撃ち抜く

フットボールで、連帯の鎖を繋いでいく
フットボールで、あらゆる垣根を越える
フットボールで、笑いと希望をシェアする

 

社会に対し、サッカーコーチの立場から何ができるかを考え、それを発信したい。

言わずが花、自らの考えを表明しないことが美徳のような暗黙の了解、空気を読む、出る杭は打たれるといった日本の風潮。実際、ジャーナリズム精神を持つサッカージャーナリストやサッカー媒体を日本ではほとんど見かけない(けれど、木村元彦さんは尊敬しています)
ならば僕がここで、その一端を担いたい。

 

サッカーのことだけじゃない。日本では、政治や社会のことに対して、芸能人やスポーツ関係の人が自らの意見や立場を明らかにすることが何故かあまり良しとされない。CMは降板させられ、干され、お前は黙ってろ、日本が嫌なら出て行けと批判される。

実際、周りにもそういう人がたくさんいる。何も意見を持っていないのか、意見はあるけどそれをあえて示さないのが美徳だと思ってるのか。そして人を嘲笑する。どちらにしろ、それじゃダメだと思う。

 

サッカーだけ一生懸命やってればいいんだろうか。僕はそうは思わない。

 

嘲笑したいならすればいいし、皮肉りたいならすればいいし、斜め上から見てる自分が好きなら、ずっとそうしてればいい。

何も意見を示さない人達や、常に強い側や大勢の側にいて安心していたい人達のような、無機質な存在だけにはなりたくない。寄らば大樹の陰、虎の威を借る狐。勝ち馬に乗っていたいとか、ダサいんだよそういうの。

僕は面白おかしく生きたい。そして人のために生きたい。せっかくこの世に生まれてきたならば、自分が生きたことの証明を残したい。富や名誉や実績ではなく、誰かの心の中に残りたい。人と人の間に立って、少しでも、希望をシェアできるゆとりのある社会をつくりたい。その可能性を、広げていきたい。

頭で考えることより、心で思うことが大事。心の底から自然に湧き上がってくるのが本当の想いになる。僕は、自分のその想いに対し忠実に生きたい。

 

と、かしこまった堅苦しいことをツラツラ書いたけれど、出来るだけ面白おかしく、批判だけじゃなくユーモア精神も忘れずに、自分のペースでこれからやっていきたいと思ってます。

 

宜しければこちらもどうぞ

↓↓

 

 

サッカーコーチがギターを練習して発見したこと

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ギターを練習していて発見したこと。

なかなか弾けない難しい曲があった場合、その曲が弾けるようになるまで練習する…のではなくて、さっさとそれは諦めて別の曲に挑戦する。
で、その新たな曲が弾けるようになったり、すでに弾けるようになっている得意な曲をさらにうまく弾けるように練習して自信を深めると…

あの時に弾けなくて諦めていた曲を何日かぶりに弾いてみると…
あら不思議、練習もしてなかったのに、あっさり弾けるようになってしまっていることがよくある。これは僕自身で体感しているのだから、間違いない。

何かが出来るようになると、付随して他の何かも出来るようになってしまう法則。
そしてもちろんこれは、サッカーでも同じことが言える。子ども達のこういう「会得のプロセス」を、僕は今までに何度も何度も目の当たりにしてる。

自信をつけたからとか、身体が(ギターで言えば指が)動くようになったから…などとは別のロジックで、
この「会得のメカニズム」は証明できるんじゃないだろうか。たぶん。
誰か教えてえらい人。

最近で言えば、スエルテ横浜の某選手。
↓↓
・球際での強さを身につけたことから、一気に糸がほどけて
・ポジショニングの妙を見つけ
・オフザボールの質(ポジショニング、動き出すタイミング)が格段に上がり
・良いタイミングと良い状態でパスを受けれる、ボールを拾えるようになり、、
↓↓
もともとポテンシャルが高かったものの、それをいまいち発揮できずにいた能力が、最近ではいかんなく発揮できるようになってきた。
↓↓
・さらに自信をつける
・サッカーが楽しくなってくる
・もっと上手くなりたい
↓↓
彼は週に一回しか練習に来ないスケジュールなのだが、最近「練習日を増やしたい」と親御さんに言っているらしい。

何か一つ出来るようになっただけで、こうなる。

「あれもこれも!それ出来るまで次に進んじゃダメ」という練習のやり方がいかに非効率で、いかに無駄で、いかに意味ないか。
僕のギターと子ども達が、完璧に教えてくれている。

サッカーキッズ達へ
とりあえず、まずは何か一つだけ出来るようなればいい。
そこからは、糸がほどけるように世界が開けていくからね。